『吸血鬼』

「ええ、皇子。…貴方のその、宝石のような紫の瞳…、それは、サヴァイス様から受け継いだものなのです」

「!…瞳…?」


カミュは思わず、右手で顔の右半分を押さえた。

この瞳が、よもや父親から譲り受けたものだったとは…!


「だからこそ…欲しいんですよ」


不意に、男の持つ雰囲気が変わった。

ざわり、と、周囲の風が蠢く。

それにカミュが気付いて、右手を顔から離したと同時、男は軽く地面へと降り立った。

が、その男の風貌を一瞥すると、カミュは一瞬にして忌々しさを覚えた。


…先程までは、月を背にしていたので全く分からなかったが、その口元からは、一筋の血が流れている。

そして、その左手の細い指は、鮮血にまみれていた。

よく見ると、胸にある薔薇にも、着ているスーツの黒以外の部分にも、赤く細かい斑点が散っている。

…そして、先程嗅いだ、『血の匂い』。

この状況から判断できることは…、たったひとつだ。


「貴様…、たった今、誰かをその手にかけて来たのか…?」

「その言葉は心外ですね…、皇子らしくもない。

人間は我々の食料です。気にかける必要などありません」

「人間が、食料だと?」

「ええ。今宵は満月…、月の力によって、本能が抑えきれず、我々が最も血に飢える時です。

皇子には、その心当たりはありませんか?」

「!…」


男の言葉に、カミュは、はっとして立ち竦んだ。

言われてみれば、先程、唯香の血を求めた時の、あの自分の症状は…!


「その様子ですと、身に覚えはあるようですね」


からかうように男が笑う。しかし、そんな男の言葉も、今のカミュの耳には入らなかった。



…あれが…、あれが、吸血鬼の持つ性なのだろうか?


…あんなものが?


自らの欲望を抑えるために、他者を犠牲にするような…


あんな行為が!?



「…どうしました? 皇子。随分と顔色が悪いようですが」

「俺があいつの血を求めたのも…、全ては自らの渇きを抑えるためだったのか…!?」


…我知らず、カミュは呟いていた。

それを耳ざとく聞きつけた男が、半ば感心するような声を洩らす。


「ほう…、その口振りですと、皇子は今日、こちらの世界で、既に誰かの血を得たようですね」

「!…」


カミュの動きが、ぎしりと止まった。

そんなカミュの青ざめた顔を見た男は、ただ、勝ち誇ったように笑った。


「ふふっ…、記憶を無くしているとはいえ、人間の血を得たことが、それ程までにショックなのですか?」

「……」

「…お分かりでしょう? 我らが“皇子”。

人間などは、我々にとってみれば、ただの餌…

餌ごときを気にかける必要など、貴方様の立場からすれば、本来であれば塵ほどもないはず…

そうでしょう?」


まるで反復するように、甘ったるく囁かれたそれは、カミュの人間に対する感情を、徐々に蝕み始めた。

それを読んだかの如く、男はカミュの心情を、更に揺るがせる。


「貴方様が血を吸った人間は、もはや、カミュ様… 貴方をヒトとしては認識していないでしょう。

…ここ人間界では、ヒトではない我々は、ただの忌むべき闇の者…

そうではありませんか?」


男の言葉は、聞くつもりが無くとも、自然とカミュの耳に滑り込んできた。

男が自分に対して、人間への不信感を煽り、更にその考えを自分の中に根付かせようとして言っている事は、分かっているつもりだった。


だが…事実、自分は、こんなにもあっさりと男の言葉に呑まれている。



…不甲斐ない。


何が皇子だ…


俺がその、吸血鬼皇帝とやらの息子だからか?


…名ばかりの皇子など、その世界には必要ないだろう…

俺なんか…要らないだろう?


なのに、何故、構う?

俺が『皇子』だからなのか?


じゃあ、“…皇子って…一体何なんだ?”



「観念なさい、カミュ様…」


哀れみに満ちた男の声に、カミュは、はっと我に返った。


「我々はどう足掻いても、血を求める衝動からは逃れられません…

人間が餌である事を認識しない限り、貴方様の葛藤は、永遠に終わりませんよ?」

「……」


悪戯っぽい口調で、それでいて淡々と、見透かしたことを話すこの男に、カミュは次第に腹を立て始めていた。


…以前の自分が、人間に対して、どういう考えをいだいていたかは知らない。

だが、今では、こうまで人間を軽視する考え方をする者には、ただ…不愉快さしか感じない。

…何故だかは分からないが、頭ごなしに人間を馬鹿にし、否定するこの男には、無性に腹が立つ。


「…おい、貴様」


故に出た、第一声がこれだった。


「さっきから聞いていれば、どうやら、人間を蔑むことしか頭にないようだが… 人間を糧としか見ていない貴様に、その人間の事など、何ひとつ分かりはしない。

傲慢に、人間を…餌だと呼べる権利などない!」

「!皇子…?」


意外な返答を聞いて、男が唖然と問い返す。

それにカミュは、いつになく張り詰めた表情で、男を睨み据えた。


「先程から散々、挑発してくれたが、俺の首を取りに来たのであれば、そんな御託はもういいだろう。

それに、戦いにおいて、魔力とやらが使えるかどうか…、そんな事も関係ない」

「…?」

「お前は餌として人間を手に掛け、それが原因で俺を怒らせた。それだけでも、俺が貴様を殺す理由としては充分だろう?」


瞬間、カミュの紫の瞳に、途方もない殺気が浮いた。

それと同時に、その、今は忘れ、失っているはずの魔力…

内なる力が溢れだしたかのように、カミュの背後からは、それ自体が刃と化すほど、鋭く、唸りをあげた風が吹いて来ている。


このカミュの様子を、唖然としたまま見ていた男は、さすがに今、自らが置かれている立場を認識したらしく、密かに舌を巻いた。


「やはり…、記憶がなくとも、その、類い稀なる血統が持つ威厳…! たいしたものですね」

「──そこまで気付いたならば、素直に引け」


その低い声は、男の言葉を遮るように、唐突に闇の中から響いてきた。

が、カミュは、この低い声に聞き覚えがあった。


「フェンネル…?」


カミュが警戒を怠らず、声のした方へ尋ねると、その声の持ち主は、闇の中から姿を現した。

そこにいたのは、明らかに夕刻、カミュと接触したフェンネルだった。

しかし、彼はいつになく険しい表情をし、カミュ同様、不快だと言わんばかりの意志を露にしている。

それに対して男が僅かに尻込みすると、その様を見下すように一瞥し、再びフェンネルは口を開いた。


「…分からないか? お前ではカミュ様には勝てない。俺も加勢するつもりでいるしな…

命が惜しければ、今なら見逃してやるぞ、カイネル」

「お前が出てきたからといって、尻尾を巻いて逃げろというのか?」


カイネルと呼ばれた男は、その端正な眉を顰めると、次にはこう言い放った。


「冗談じゃないね」

「…ならば、もう少し利口になったらどうだ」


フェンネルが溜め息混じりに呟くと、カイネルはすぐさまそれを聞き咎めた。


「まるっきり俺が愚者のような口振りだな」

「愚者も愚者、愚の骨頂のいい典型だ」


フェンネルはぴしゃりと言い捨てると、徐に腕を組み、この狡猾なカイネルと、それなりに対等に話す体勢を整えた。

しかし、それだけでは多少、心許こころもとないので、自分の言葉にカイネルが反応する前に、それを抑える意味でも、きっちりと釘は刺しておく。


「いいか、カイネル。お前は、カミュ様の魔力が無くなったのを、これ幸いと事を起こしているようだが…

お前ごとき若輩が、カミュ様…、ひいてはサヴァイス様になど、敵う訳がないだろう?

問答無用で八つ裂きにされたいのか?」

「…八つ裂き…!?」

「ああ。…まさかお前、サヴァイス様に表立って逆らっておいて、生きていられるとでも思ったのか? …だとすれば、その遥かに甘い考えはやめた方がいい」


とりあえず忠告をしたフェンネルは、傍らで二人の会話を聞いていたカミュへと目を向けた。

すぐさま腕組みを解くと、静かにその場にかしずく。


「ご挨拶が遅れてしまい、本当に申し訳ございません、カミュ様」

「俺のことはいい」


カミュは素っ気なく言い捨てた。

…未だに自分が、なぜ様付けで呼ばれるのかが分からない。

身分でいえば確かにそうなのだろうが、自分の心の中では、何かに…、確かに納得がいっていないのだ。



変に遠慮をされるのも、

自分の意志や言葉を優先して尊重されるのも、

一方的に敬語を使われるのも…

全てに納得がいかない。



「それよりもフェンネル、いきなり俺に突っかかってきたこいつは、一体何者だ?」


カミュの問いに、フェンネルは答えにくそうに天を仰いだ。

次には、やれやれと肩を落としてカミュへと向き直る。


「…申し遅れました。この男は、名をカイネルといい、皇家を守護する役割を担う、六魔将ろくましょうと呼ばれる、サヴァイス様の六人の側近のうちのひとりです」

「…六魔将、か。成る程な。大方、お前もそのうちのひとりなのだろう? フェンネル」

「はい」


フェンネルは、隠し立てもせず、カミュを見上げて、いともあっさりと答えた。

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