コレクション5 マジカルお味噌・鰹出汁
第27話 待って、味噌汁も
深い湖の中のようだ。体が重く、視界が揺らめいている。
花はモスグリーンの小さめの絨毯の上に立っていた。ここが雑貨店なら「素敵な絨毯ですね、ペルシャですか?」と聞いていただろう。
花は男性用の黒い革靴に茶色のズボンを履いていて、視線もいつもより高い位置にある。
不思議なことに体が自由に動かないことで、花は自分が夢の中にいることに気付いた。
「辞めとけ、ローラント」
「いやだ! やめない、絶対やめない」
「いくら魔力が強くても、危なすぎるんだ」
「俺は魔じゅつしまで一歩てまえくらいだし、事故なんてほとんどないじゃないか!」
年配の男が少年を諭している。年季の入った灰色の髪に、目じりの皺。祖父と孫、といった風体だった。
「すみません、グリューネヴァルトさん。まったくわがままばかりで困ります」
「いえ、お気になさらず。でも、魔法陣の事故は本当にまれですよ。確かに彼なら、それなりに使えるようになる」
花の身体は男の声でそう言った。
年配の男は深いため息を吐いた。哀愁の籠った、それでいて母にすがる幼子のような年に似合わぬ視線で少年を見る。
「到底授業料は払えませんよ」
そう言う男に、少年はもったいぶってガラス瓶を見せる。
「これをあげる。だけど、俺に五つの魔法陣を教えてからね」
ガラス瓶を見た男は驚いて、カウンターから出てきた。壁に掛かったスクロールにぶつからないよう慎重に。
「ローラント、それは……」
男が何かを言い終える前に花の意識は徐々に浮上して、水面を突破する。止めていた呼吸を再び始めるように、目が覚めた。
〈マスター、おはようございます。夢を見ていたようですが、眠くはありませんか〉
花は掛布団にくるまったままゆっくりと起き上がる。夢、というよりは記憶なのだろうか。
「なんか、ふんわりと魔術のことを分かったような、気がする」
〈なるほど、寝つきが悪いように観測されましたが、魔術のせいでしたか〉
花はじとっとシラーの腕をにらんだ。
「
ぽいぽい、と服を脱ぎ棄て、いつも通りのマキシスカートを着て部屋から出る。今日は珍しく鰹出汁の香りはしなかった。
「今日の朝ごはんは?」
〈まだ大きな食パンが残っていますから。アデルモのリクエストでフレンチトーストです〉
「おいしかったもんね」
〈お褒めにあずかり光栄です〉
シラーの手と一緒に階段を下りてから、花は咳払いして確認した。
「お味噌汁は?」
〈フレンチトーストですよ、お味噌汁もご入用ですか? 本当に?」
「ご入用よ、本当に」
〈そうおっしゃるとは予測しましたが、フレンチトーストのことを考えてあえてまだご用意していません〉
「でもいるの」
〈わかりました、作ります。一階でアデルモが食事を始めるのを待っていますよ〉
「はあい、急ぐわね」
ダイニングルームへ行くと、フレンチトーストの山の前に座ったアデルモが両ひざに手をおいて今か今かと待っていた。
「おまたせ、アデルモ」
「よかった、おはよう。腹ペコだったんだ。食べていいか?」
「もちろん、いただきます」
花の席には生クリームが置いてあった。花はパンケーキやフレンチトーストには生クリームを付けるのが一番好きだ。
「この付け合わせ、シラーが用意したの?」
アデルモの席に置いてあるメープルシロップをちらっと見て花は聞いた。
〈もちろんです。アデルモの好みは昨日確認しました〉
「あはは、私のは?」
花は作り笑いをすると疑り深く聞いた。しかし、シラーにはそんな中途半端な悪意は伝わらない。
〈ハイスタグラムとSwitterに掲載されたパンあるいはパンケーキの食事の76%で生クリームをご利用でした〉
花は天井を仰いで片手を額に当てた。
(なんでもお見通しってことね)
「わかったわよ~降参。お味噌汁よりさきにたべちゃお」
花はフレンチトーストに生クリームをたっぷりのせて食べた。口蓋にあたって体温でふわりと溶ける生クリーム。フレンチトーストの焦げ目の香りと合わさって豊かな風味が感じられた。
〈一件の予定が登録されています。スクロール店へ買い取り。経路を検索しますか?〉
フレンチトーストで口がいっぱいの花は、わかりやすいよう大きくうなずいた。
「スクロールを売りに行くのか?」
アデルモに尋ねられると、花は持ちやすいハンドバッグ程度の大きさの紙袋に詰め込まれたスクロールを指さした。
「あんなに作ったのか。ずいぶん多いな。まあでも、みんなが空を飛べて、うれしいよな」
ごっくん、フレンチトーストを飲みこむ。
「ほんとは浮遊って力込めても4メートルそこそこらしいけどね。だからまあ飛ぶのは……私のスクロールの副作用かな」
〈経路検索を完了しました。目的地に向かいますか?〉
「うん、食べたらね。アデルモ、それ大皿いっぱい食べて、おなか壊さない?」
「シラーが、『アデルモならそこに置いている分は大丈夫です、でも昼は控えめにしてください』っていってたかな。だから大丈夫」
花は肩をすくめた。まるでブラックホールみたいな胃じゃないか、と思いながら最後のフレンチトーストのかけらを食べきる
〈目的地はハウプト・スクロールです〉
シラーがすかさずアナウンスした。
「待って、味噌汁も」
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