第47話 因幡堂での屈辱





 弘安2年(1279)春、一遍上人さまに率いられた一行は京へ入りました。


 偶然の出来事がきっかけとはいえ、福岡の市での思いがけない盛況はわれら時衆に多少の自信めいたものをもたらせておりました。地方めぐりもさることながら、都市の底辺に生きる民衆の魂に救いの手を差し伸べることもまた上人さまの目標であられましたので、わたくしたち全員、大いに勇んでの入洛じゅらくでもございました。

 

 ところが、好事魔多しと申しますか、都での反応は思いもよらないものになってしまったのでございます。


 京入りされた上人さまがまず烏丸からすま東の平等寺・因幡堂いなばどうに身を寄せようとなさいましたのは、ご当寺のご本尊さまが三国伝来の三如来といわれる外来の御仏で、しかも、釈迦如来ご自作の栴檀せんだんの像であり、なおかつ天竺てんじく祇園精舎の療病院のご本尊と伝えられていたからでございます。ちなみに、三国伝来の三如来のあとのふたつは、信濃・善光寺の阿弥陀如来、嵯峨さが清涼寺の釈迦如来でございます。

 

 なれど、渋々とした様子も隠さず応対に出て来られた因幡堂の役僧は、露骨に顔をしかめ、「かような集団に貸す宿は当院にはありません」として内陣の扉を閉ざされましたので、わたくしたちは夜風の冷たい縁先に締め出されてしまいました。


 そのころ、都には旱魃かんばつ飢饉にあえぐ地方から流れて来た異形いぎょうの人たちが群れ暮らしており、夜は各寺院の軒下や縁の下にこもをかぶって横たわっておりました。わたくしたちはその人たちに念仏札を配り、仲間入りさせてもらうことになりました。


 もとより、野宿を覚悟のうえの遊行ではございましたが、藤井の里や福岡の市で思わぬ歓待を受け、さらに多数の帰依者を獲得したあとでございましたから、因幡堂での屈辱は、いっそうの石礫いしつぶてとなってわたくしたちを打ちのめしました。


 地位も名誉もなく、拠るべき寺院も持たない遊行僧は宗教者として認めない。

 そんな声なき通告が、上人さまと時衆の前に立ちはだかったのでございます。

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