第45話 藤井の里・若き領主妻の出家
明くる朝、思いがけないことが起こりました。
その奥方さまが部屋にやって来られて、「ご上人さまのご法話をお聞きしているうちに、わたくしも出家を志したくなりました」と申し出られたのでございます。
わたくしたちはいっせいにどよめきました。
ご主人が留守のあいだに奥方が出家するなど、ただで済むはずがありません。
かつて、法然上人さまや親鸞聖人さまが受けられたご法難が胸を過ぎります。
揉め事に巻きこまれるのは避けねばなりません。
弟子たちはいちように堅い表情になりました。
けれども、上人さまは黙ってうなずかれると、真教さまに命じて自筆の六字名号軸を床の間に掛けさせ、念仏坊さまとわたくしに湯桶など剃髪の用意をさせると、静かに念仏を称え始められたのです。仕方なくわたくしたちも唱和いたしました。
なむあーみだーぶつ
なむあーみだーぶつ
なむあーみだーぶつ
広いお屋敷に11人の称える念仏が流れます。
領主さまの家人たちが不安げな面持ちで見守るなか、一遍上人さまは奥方さまの豊かな黒髪に手をかけられました。まだ三十路前と拝察される奥方さまは、色白の美しい頬に長いまつ毛の翳を落とし、静かに合掌しておられます。
上人さまはためらいもなく黒髪を切り落とされました。
青々とした清らかなおつむが現われると、見守っていた家人たちの口から嗚咽がこぼれ出しました。弟子たちの称名はますます高らかにつづいております。
すべてが滞りなく済むと、奥方さまは上人さまに向かい深々と一礼されました。
「悩み多きこの世から逃れたいと、いくたび念じたことでございましょう。年老いた父母の悲しみを思うとそれも適わず、いたずらに日々を重ねておりましたが、そこへ上人さまがお訪ねくださいましたことは阿弥陀如来さまのお導きと存じます」
そう語る奥方さまの口唇は紅も塗られていないのに活き活きと艶めいています。
首筋からほんのりと上気された白いお肌は、それはそれはお美しくて……。
法衣の袖を腕組みしてうなずいておられる上人さまを間近に拝見しながら、
――上人さまはお変わりになった。
わたくしはそんな感懐に駆られておりました。
夫だったころも近所の妻女や娘たちに人気がおありになりましたが、苛烈な遊行の歳月により、得も言われぬ艶のようなものを身につけられたようでございます。選ばれた宗教者に許される品格、または凄みのようなものでもございました。その艶が、領主の妻女のように女人の心を惹き付けずにおかないのでございましょう。
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