第十章 理解してもこの声は飲み下せない
ナイの言葉に全員が言葉をなくした。
野崎はこの重すぎる空気に喉が渇いて咽頭が塞がる感覚に慌てて水を流し込む。
それを見てそれぞれ水を手に取り喉を湿した。
自分が飲み終えれば黒谷はいつも通りナイの口元へストローを運ぶ。
ごくごくといい音を立てて流し込まれる。
ストローを口から離してナイが話し出した。
「黒谷さん。いつもありがとうございます。ずっと水を飲んでたのは…狂ったふりを続ける事に緊張していたからです。今の皆さんが喉が渇いたように」
そう言われて全員は自分の飲んだ水を見たり、ナイを見つめながら今までの事を思い返していた。
西森が問いかける。
「この捜査の初めに黒谷くんが苛立ち険悪な空気になった時。貴方は「水」と言い険悪な空気をかき消した。あれはやはり計算だったんですね。」
「あの時はドキッとしました。西森さんに気付かれたかなと思って。」
「勘が当たる時。たまにですけどあるんです。あの時何も根拠はなかったんですが貴方が計算で野崎さんを救うために言ったように見えたんです。」
「正解ですよ。野崎さんが怯えきっていたので。あんな演技で変な空気にしてしまえば突破口になるかなと思って」
2人の落ち着いた声の会話が続く。
核心に触れたいけれど、そこに踏み込む事を誰もが恐怖していた。
それはナイ自身も恐れているようだ。
この先の話を誰が切り出せるだろう。
また長すぎる沈黙が始まった。
けれど、ここで止まる訳にはいかない。
自分達の求めてきた『久保田奈緒』についてナイが口にしたんだ。
この話を聞くことがこの捜査にも関わっている。
野崎は「これは好奇心ではなくこの捜査の為に踏み込むだけだ。」と強く何度も自分の中で念じた。
何度も繰り返し自己暗示してナイに続きを催促する。
これは好奇心ではない。
「田上と久保田奈緒はどういう関係なんですか。そして、なぜそれをナイさんがご存知なんですか。貴方と……久保田奈緒はどういう関係なんですか」
野崎の言葉に黒谷は下を向き強く目をつぶった。
西森は深呼吸をして本を読み進める。
ナイから紡がれた返答は
「俺は。久保田隆広。久保田奈緒の弟です。」
3人が繋がった。
久保田奈緒と言う1人の女を中心に。
日本を揺るがすほどの凶悪連続殺人事件の犯人が。
そして、もう1人 田上周太。
新たな殺人犯も今久保田奈緒によって繋がろうとしている。
野崎にとって顔も知らぬ1人の女がこれ程までに人間を狂わせている事に恐怖が隠せなかった。
何故彼女に関わった者は殺人を犯すのだろう。
彼女の何が狂わせるのか。
その前に 彼らは狂っているのか?
狂っているのは彼らなのか 彼女なのか それとも私なのか
答えのない質問が自分の中で飛び交う。
もう考えたくない。
そう思った時だった。
視界の端に西森が写る。
黙々と本を読む西森。
その姿は出会った時のように余裕に溢れた表情では無さそうだ。
少し落ち着きがなくそれでも無理やり本を読み進める。
そうか、今の私と同じなんだ。
彼はもう何も考えたくないんだ。
巡る思考を抑え込むために本の中に逃げ込む。
彼も必死で苦しみを抑え込んでいたんだ。
野崎の目からは涙が溢れる。
西森を思って流れた涙なのか
それとも自分の苦しさか
答えはないがポロポロと落ちる涙は止められなかった。
「すみません。突然泣いてしまいました。大丈夫です。」
「大丈夫な奴なんていねーよ。今ここには。」
落ち着いた声で黒谷が投げかける。
そうだ。全員大丈夫な訳が無い。
落ち着いて話したような黒谷も内心はかき乱れている事だろう。
彼は必死に久保田奈緒を求めただけなんだ。
会いたかった大切な人に。
思いを伝える事も出来ないまま目の前から消えた大切な人の死をある日無機質なニュースに伝えられた。
ただ会いたくて求めた。
苦しくて限界を超えた心や思考は歪み やり方を間違え 人を殺め 大罪を犯した。
苦しかっただけなのに。
その先でこんな捜査に関わったが故に、本当なら聞かずに済んだ久保田奈緒の死の不条理な真実を突き付けられる。
西森との出会いが無ければ黒谷は彼女の真実を知らずに済んだのに。
研究の為に殺された最愛の人。
ただ一人の人を愛しただけなのに。
野崎の中で渦巻く何かは大きくなっていく。
怒りなのか、悲しみなのか、どんどんと野崎の思考を支配していく。
力を込めすぎて赤くなった拳の上に次々と涙が落ちた。
彼らはこんな苦しみの中助けてと言う事もできず1人で貫かれて来たんだ。
彼らの選択が狂っていようとも
一人の女性が医師の好奇心で殺される不条理を
権力者達の力によってねじ伏せられ
ただ愛しい人に会いたい思いも
裏社会にかき消され、知らぬ間に殺められた
「普通」という世間に阻まれた彼らの思いは
叫ぶ事すら出来なかった。
今野崎自身もそうなのだろう。
このやりどころの無い感情、本当の自分の気持ち。
絶対に許してはいけない凶悪殺人犯の彼らに同情してしまう。
彼らを正当化しようとして見ている自分がいる。
世間はそれを許さないとわかっている。
自分がおかしいと、世界の普通からズレ始めているのはわかっている。
けれど、彼らは悪くないと言いたい。
そう叫びたい。
世界が邪魔して うまく言えない ━━━━
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