第8章 重なり合う時間

第32話 白と青の世界。怒る船頭。


 『命をつなぐふたつの枝、命を終える一つの枝。生き死にを束ね合わせた時の枝、時の泉の扉を開く』



 書「天地根結」にあった一文を、オババはこう解釈した。

 性別を分ける、「赤い実」と「緑の実」の枝。それは繋がる命の象徴だ。そして、死を象徴するシキミの枝。それらが時の扉を開く鍵となるのだ、と。


 エマトールは、ハスミュラが持ってきてくれた枝の束を持ったまま、泉を覗き込んでいた。泉の水はもう随分減っている。加速度的に減っているように見える。


「それで、どうするの?」

 泉の中で、徹が心配そうな顔をしている。由良は出て行ってしまったきりだ。


「えっと……僕たち、性別を選ぶときにどっちかの実を食べるんだ。女なら緑、男なら赤。そして、時の泉の「水」を飲む。だから、多分……」


 自信なさげに傍のハスミュラを見遣る。心配そうに胸の前で手を組んでいる彼女は、よほど急いで来たのだろう、露わになっている腕や手の甲に小さな擦り傷をたくさんこしらえていた。


「……足りてない要素は、『泉の水』ね」


 ハスミュラの言葉に、エマトールが大きく頷いた。そして少し離れているよう身振りで促す。


「徹、『扉』が開くとどうなるのか、わからない。気をつけて」


 泉の中で、徹が唇を噛み締め真剣な顔で頷く。



 エマトールは枝の束でそっと水に触れてみた。水が揺らいで徹の姿は消えたが、他に何も起こらない。泉に波紋が広がるばかりだ。ゆっくりと枝の先を浸していく。ハスミュラが唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。枝の束が半分ほど水に浸かった時、泉の水が銀色に光った。月光に照らされた様に、ぼう…と光ったかと思うと、一瞬で膨れ上がりまばゆい光を放つ。あまりの明るさに、ハスミュラは反射的に目をつむり手を翳した。


「う、わぁっ」

 派手な水音とエマトールの短い叫び声が聞こえ、ハスミュラが指の隙間から見た時には、エマトールの姿が消えていた。地面に散った水飛沫と、お手製の笛を残して。





「エマトール!!」


 鏡の向こうのハスミュラの声が聞こえた時には既に、徹は鏡に飛び込んでいた。というより、エマトールの悲鳴を聞いて、鏡の中に咄嗟に手を伸ばしていたのだ。


 ……鏡の、中に?


 そう思うより早く、徹は自分が水に没して溺れているのに気づく。驚いて水を飲んでしまい咳き込み、さらに水を飲む。苦しい。必死にもがいて手を伸ばすと何かに触れた。咄嗟にそれを掴む。掴んだモノから反対の腕を掴み返された。そして同時に、水面から飛び出した。


「ブハァッ!」


 顔を見合わせた二人は固まり、次の瞬間には弾けるように笑い出した。見合わせた相手の顔、驚きに見開いた目に、一瞬にして喜びのきらめきが浮かんだのを見た。そして同時に、自分も同じ表情をしているのがわかったからだ。

 二人はものも言わずにがっしと抱き合った。胸まで水に浸かったまま、互いにげらげらと笑い続ける。バシャバシャと川の水を跳ね上げ、互いの背中を叩いては肩を組み、咳き込みながら膝を折ってまた笑う。



「よう、エマトール」

「やあ、徹」


 ようやく息が整った頃、やっと二人は挨拶らしきものを交わした。ずぶ濡れの二人が、キョロキョロと辺りを見渡す。青と白の、静かな場所だった。二人が立てていた大きな水音が静まってみれば、何の音も無い。二人の浸かっている川のせせらぎさえも。


「ここ、どこ?」

「どこだろな」


 空は青く澄み渡り、雲一つ無い。蛇行するうんと広い川の向こう岸には、白い花が咲き乱れる丘。こちら側には白く丸い石が敷き詰められている。

 とりあえず近い方の川岸へと、自然に足が向いた。穏やかに流れる川を、ざぶ、ざぶ、と水を掻き分け、岸にたどり着く。無数の白い石の上に、ぽたぽたと水滴が落ちる。


 互いに無言で、服の裾や髪を絞ったり靴を脱いで中の水を出したりしている。その数秒の中で、彼らは察していた。二人とも、無策であると。



「「……さて」」同時に口を開いたとき、遠くから呼びかける声が聞こえた。


「おーーーい!! おまえらぁ、何やってるうううう! どっから来たあああああ!」


 叫び声とともに、遠くから石を蹴散らして走ってくる。が、男は途中で力尽き、片腹を掴んでヨロヨロと歩き始めた。


「寄る年波には勝てねえ……もっと早く禁煙しときゃよかった」

 無念そうな呟きが聞こえたが、男はそんな年寄りには見えない。せいぜい30代半ばといったところだ。


「……行ってみる?」エマトールの問いかけに頷き、二人は男の元へ向かった。





「……ここはな、死んだ人間の来る処だ。さっさと帰れ」


 二人は目を見合わせた。同時に男に向き直り、同時に質問する。


「僕たち、死んじゃったの?」

「どうやって帰るんですか?」


 答えようと、男は口を開いた。が、一旦息を飲み込み、気持ちを落ち着ける。こんなこと、死んでから初めてだ。



「死んでない。俺が君らの情報を知らされてないんだから、君らは生きてる。だから帰れと言ったんだ。帰り方は……」腕を振り示した先には、いつの間にか人ひとり通れるぐらいのぼんやりとした白い靄が現れていた。


「あそこから帰れる……筈だ。こんなこと初めてだけど、あれが現れたからには、あそこが帰り道だ……と、思う」


「なんだか頼りないなぁ」「だね」


 力の抜けた呆れ顔で「お前ら……」と言うなり、男はしゃんと背筋を伸ばした。急に大きく見える。


「お前ら、わかってんのか? もし向こう岸に渡ってたら、死んでたかもしれないんだぞ?! 向こうへ渡っちまったら、船頭の俺でも戻してやれない。この川は、一方通行でしか渡れないんだ!」


 その真剣な表情を見て、二人は口をつぐんだ。初めて互いと実際に会えて、ちょっとはしゃいでしまっていたことに気づく。



「ごめんなさい、オジ…お兄さん」

「すみませんでした」


 二人揃ってぺこりと頭を下げると、男は短くため息をついた。力なく手を振ってみせる。

「もういいよ。とにかく帰れ。またいつか会うだろうが、しばらくは来んなよ」


 再び白い靄の方を指差してから、男は踵を返しかけた。が、足が止まる。


「……な ん だ よ!!」



 ふたつの手が、服の裾を掴んでいた。


「すみません。僕ら、帰れないんです」

「ちょっと用事があって、それを済まさなきゃ」


「用事、だぁあ〜〜〜?!」


 振り返った男の顔を見て、二人は首をすくめた。当たり前だけど、怒ってる………



 その時、再び派手な水音が聞こえた。


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