第106話 現実と理想

 深く。深く。どこまでも深く。最果てすらも遠ざかるほどの、底なしの闇。

 揺蕩うシャルの身体に泥のような闇が体に絡みつく。重く、苦しく、禍々しく。


「………………………………」


 身体が動かない。心が動いてくれない。

 脳裏に何度もフラッシュバックするのは、燃え盛るマキナの身体。これまで味わってきた無力感の全て。


(あぁ……――――私は、弱い…………)


 弱い。力がない。


(理想を謳うばかりで……理想に相応しい力もなくて……いつも、アルくんや周りの人たちに助けられてばかりで……どうして……こんなにも……弱いんだろう…………)


 弱いから、何も守れない。

 弱いから、誰も守れない。


「それが現実というものだ」


 黒き世界の最中に、闇が出でる。その闇は、シャルにとてもよく似たカタチをしていた。


「理想。綺麗事。それが叶うならどれほど素晴らしいことか。そんなこと、誰もが理解しているとも」


「……なぜ誰もそれを叶えようとしないのですか?」


「現実というものは、お前が思うよりもずっと強い。何よりも強い。そして理想とは、もっとも脆弱なものだ。現実に圧し潰され、砕かれるだけの弱者に過ぎない」


「……分かってます。現実がどれだけ辛くて、無慈悲なものか」


「分かってないな。いや、分かっているのだろう。分かっていて、目を逸らしている」


「……なぜですか?」


「綺麗事を唱えている間にも人は死ぬ。たとえば、目の前に武器を持った人間がいて、お前やお前の家族を殺そうとしていて、それでもお前は綺麗事を吐けるのか。戦いなんて止めましょう、人殺しなんてやめましょうと? そうしている間に、お前は死ぬ。お前の家族も殺される」


 闇に満ちたもう一人のシャルは滔々と語り続ける。


「たとえば、お前の婚約者にしてもそうだ。奴は漆黒の魔力を持つという理由だけで、人々から忌み嫌われてきた。人々に対し、差別はやめましょうと訴えるのか? ああ、確かに。お前は公爵家の令嬢で、お前の婚約者は王族だ。その場では民衆も分かりましたと従うだろう。……だがお前のいない場所で。王族の耳に入らぬ場所で、民衆は『分かりました』と吐いたのと同じ口で、平気で黒き魔力を持つ者を嘲笑うだろう。お前が目指す綺麗事で、そうした差別がなくなると? 愚かが過ぎる」


 ――――そうだ。理想を叶えることなんて、綺麗事を実現させるなんて、自分にできるわけがない。


「何より。お前は知っているはずだ。人間の悪性を。醜悪な心を。悪意に満ちた心に、お前自身の心が踏み躙られただろう?」


 蘇る。あの日、あの場所で、レオルから婚約破棄された、その時が。

 一方的な謝罪を要求され、誰も自分の言い分など信じてはくれなかった。


 昨日まで素晴らしいと言っていたその口で、シャルロット・メルセンヌは悪だと断じた。

 昨日まで尊敬していると言っていたその口で、シャルロット・メルセンヌを非難した。

 昨日まで信じていますと言ったていたその口で、シャルロット・メルセンヌを嘲笑った。


「お前は知っているはずだ。人間の悪意を。闇に満ちた心を。お前は知っているはずだ。人間は他者を騙し、裏切り、踏み躙る。冷酷で醜悪で禍々しい生き物だと」


「………………………………はい」


 頷いた。全身に絡みついた泥の重み逆らわず、流れるがままに。


「…………私は、知ってます。人の心が持つ醜悪さを。冷たい悪意を」


「そうだ。お前は知っていた。それでも綺麗事を吐けていたのは、ただ目を逸らしていただけだ。分かったような顔をして、受け入れたフリをして、心と向き合うフリをしていただけだ」


 もう一人のシャルが近づいてくる。


「人の心と向き合う――――その綺麗事の結果、どうなった? ネネルは復讐に呑まれた。マキナ・オルケストラは過ちを犯した。当然だ。心とは正しさを歪ませ、過ちを犯すもの。お前が信じている人の心こそが、お前が信じる綺麗事を踏み躙っている」


 一歩を踏み出し、更に一歩を重ねて。


「喜びとは、他者を嘲笑うもの。怒りとは、他者を一方的に傷つけるもの。哀しみとは、他者を傷つける理由となるもの。楽しみとは、他者の無様に愉悦を抱くもの。憎しみとは、他者を悪意の牙で砕くもの。愛しみとは、自分だけを愛するもの。それが人間だ。人間が持つ心であり感情だ。脆弱なお前では立ち向かうことすらできない、強大な現実だ」


 耳元で囁いてくる。


「――――諦めてしまえ」


 砕け散り、残滓となった心に入り込んでくる。


「現実を受け入れろ。いつまでも駄々をこねるな。理想や綺麗事を無垢に口遊むような年頃でもあるまい。そうすれば、お前が望む通りの力が手に入る」


「…………力が?」


「そうだ。お前を悩ませる弱さも、人の心も、現実も、力があれば全てを押さえつけることができる。強さがあれば、全てをねじ伏せることができる。悪意すらも蹂躙する。お前の理想すらも叶えることができる」


 もう一人のシャルの手が頬に添えられる。捉えて離さず牙を立てる蛇のように絡みつく。


「諦めろ。私を受け入れろ。私に身を委ねろ」


 闇が全身を絡めとる。侵食し、シャルの身体が徐々に闇の中に溶けていく。


「もう疲れただろう? 大丈夫だ。何も考えなくていい」


 胃袋の中に身を浸らせ、身体をゆっくりと消化されているような感覚。


「お前の全てを、私に寄越せ――――」


 囁かれる声に導かれるままに、瞼を閉じる。

 シャルはもう疲れていた。ルシルに心を打ち砕かれた時にはもう、心がすり減り、摩耗していた。何もできない自分に。無力感を味わうだけの自分に。押し寄せてくる現実に。疲れ切っていた。だから分かる。この囁きを受け入れてしまえば、楽になれると。


 あとは頷くだけ。受け入れるだけ。それが自分の運命だと身を任せるだけ。


『――――俺はただ、諦めることを止めただけだ』


 声が、聞こえた。


『失敗して、間違って。だけどもう一度立ち上がって、前を向いて、歩き出しただけだ。諦めてたらそのままだった。間違ったからって、その場でずっと立ち止まったままなら、何も変わらなかった。諦めるのを止めたから、運命が変わったんだ……!』


 愛しい人の声が。


『特別なことでもなんでもない! 諦めなければ、誰にだって運命は変えられる!』


 胸の中から、今もどこかで戦っている愛しい人の声が、聞こえた。


「………………………………嫌です」


 心が摩耗しきったシャルの口から出てきたのは、儚く弱々しくも根強い拒絶の意志。


「………………………………なんだと?」


「嫌です…………アナタに全てを差し出すことなんて出来ません」


「なぜだ。お前も分かっているはずだ。人の持つ悪意を。悪性の心を。それが現実なのだと」


「……分かっています。人の心がどれだけ醜いか。そこに秘められた悪意が、どれだけ強大で恐ろしく、途方もないものか」


 拒絶の言葉を重ねる度に、ほんの僅かに闇が薄れてゆく。

 身体にまとわりつく重みが掠れていく。力が湧いてくる。


「ならば理解できるはずだ。力があれば、全ての悪意はお前にひれ伏す。強さがあれば、遍く現実が膝をつく」


「……そうですね。それも一つの真実でしょう」


「それが理解していながら……」


「ですがそれは、私の欲しい力じゃありません」


 胸の中に光として浮かび上がったのは、一人の少年の姿。黒い髪。黒い眼をした、愛しい人の姿。


「確かに私は力が欲しいと思いました。強くなりたいと願いました。無力である自分を呪い、恨み、憎みました。でも……全てを押さえつけるだけの力なら、私は要りません」


「ならばお前の欲する力とはなんだ? ああ、お前のことだ。大切な人を守るための力が欲しい……などと言うのだろうな?」


「いいえ。大切な人を守るだけの力なら、私は要りません」


 言葉を重ねる度に、胸の中にある光が徐々に輝きを増していくような気がした。勇気が溢れて行くような気がした。


「私は――――どちらも欲しい」


「…………なに?」


「強さは必要です。力は必要です。言葉だけを重ねても、何も届かない時だってある。力を以て悪意を押さえつけることが必要な時もある。強さも力も何もない無力な自分では、何も変えられない……それは痛いほど思い知りましたから」


 炎に包まれるマキナの姿が頭から離れない。己の無力で身を焼かれるような痛み。慟哭。今でも身体に残っている。


「ですが、それだけではダメなんです。それだけでも変わらない。だから私は、守る力も欲しい。大切な人を守るための力。誰かを守るための力。過ちを犯した人を救えるような、許せるような、そんな優しい強さもほしい。どちらの力も、両方が欲しいんです」


「ありえない。その二つは両立しえない」


「させてみせます。……させなくちゃいけないんです。それが私の求める強さなら」


「そんなものは理想論だ! 現実から目を逸らした綺麗事だ! 愚か者が吐く戯言だ!」


「現実なんて、ただの現状維持でしかない。世界をより良くしてきたのは、いつだって綺麗事を並べた挑戦者たちです」


 本を拾ってくれた男の子。彼がくれた言葉を忘れたことはない。今もきっと戦っているであろう彼の姿を、忘れるわけがない。


「理想を叶えるために現実で足掻くんです。理想を夢見たからこそ現実が変えられるんです。現実だけを見て、理想を叶える努力すらせず最初から全てを諦めてしまう……それこそが弱さなんじゃないですか?」


「忘れたか。人の悪意を! 人の心という、過ちを繰り返す醜悪なものを!」


「忘れてなどいません。悪意もまた、人の心の一面。ですがそれが全てではないと、私は知っています!」


 浴びせられる悪意に心が折れたこともあった。何度も何度も折れたことがあった。


「喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみ、愛しみも、アナタが語ったような悪い面ばかりじゃない。憎しみの心だって、誰かを好きで、想うからこそ生まれるものでもある……人の心は確かに悪意に満ちています。醜悪で、恐ろしい。ですがそれはほんの一面でしかない」


「なぜそう言い切れる」


「私を踏み躙ったものが人の心だとすれば、私を救ってくれたのもまた、人の心だからです」


 シャルは確かにあの日、あの晩、悪意によって追い詰められた。

 だが同時に、救われた日でもあった。アルフレッドが助けてくれた。人の心に悪意しかないのであれば、誰かを助けるという行為そのものがありえなかったはずだ。


「ネネルちゃんは確かに憎しみに落ちました。でも、最後には未来を選びました。マキナさんだって、確かに過ちを犯したのかもしれません。でも、それは悪意からじゃない。…………アルくんのことが好きだから。彼を愛していたから。……間違えることは悪じゃない。だって、私たちは人間なんですから。間違えない人なんていない。心に振り回されない人なんていない。過ちを犯しても、またそこから立ち上がって、やり直せばいい。過ちと、自分の罪と向き合って、背負って……やり直したいという意志さえあれば。歩き出していいんです!」


 シャルだって間違えた。アルフレッドだって間違えた。

 そこから立ち上がって歩き出した。今もまだ歩いている途中で、きっと誰しもが、立ち上がって歩き出している途中なのだ。


「過ちを犯すのが人間なら、そこから立ち上がることができるのも人間です。……目の前に見える一つだけが全てとは限らない。たとえば目の前の武器を持った人間がいて、家族を殺そうとしても、それだけが真実とは限らない。脅されているのかもしれない。人質をとられているのかもしれない。従わされているのかもしれない」


「真実を仮定していてはキリなんてないだろう。現実的じゃない」


「なら、確かめればいい。力を行使してでも、確かめられるような状況にすればいい。それが私の欲する力。綺麗事を叶えるための強さです!」


「…………!」


 もう一人のシャルは忌々しそうに顔を歪める。


「私はアナタを受け入れるつもりはありません。アナタの語る強さは、私にとってはただの弱さだから!」


「ほざけ! 弱者はお前の方だろう!」


「少し前まではそう思っていました。……でも、今は違います」


 こんな自分を強いと言ってくれた人がいた。それを思い出したから。


「なに……!?」


「感謝します。アナタと話している内に、私の求める強さとは何なのか、私だからこそ得ることができる力とは何なのか、分かった気がしますから」


「そんなものがあるものか!」


「ありますよ。私は人の悪意や絶望を知りました。私は人の善意や希望を知っています。……光も闇も。理想も現実も。希望も絶望も。どちらも知った私だからこそ、掴めるもの。それが私だけの強さです」


 迷いは晴れた。晴らすことができたのは、心の中で輝く光があったから。

 そしてその光は、愛しい人の姿をしていた。


「…………っ! なぜだ……お前が、奴を宿すお前が、人の悪意を許せるはずが……!」


「――――それは、彼女がアナタよりも強いからですよ」


 その声はシャル自身の中から聞こえてきた。胸の中から光が溢れ、やがてそれは人の形に変わってゆく。現れた光の少女。聖女のような装いの少女の姿は、どこかシャルに似ていた。


「貴様は――――クローディア!」


 クローディア。それは、かつてこの世界に存在した、聖女の名前だった。


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