第90話 運命は黒に染まる

 無数の針が頭の中を穿つような痛み。

 刃の群れが肺でのたうち回っているような痛み。

 半端な熱の炎が全身の皮膚を撫でているような痛み。


 この世に存在するありとあらゆる苦痛を、わたしという体の中に詰め込んだような痛みが嵐のように吹き荒れ、蹂躙していく。


 意識が途切れる暇なんてない。いや、正確には、意識が途切れたところですぐにまた痛みで覚醒する。ただの拷問だったならよかった。この一秒が永遠にも感じられる時間は、いっそ殺してほしいと神様に懇願したくなる。


「――――マキナ!」


 なのに。そんな中でも、この声だけはハッキリと聞こえる。


「マキナ! マキナ! しっかりしろ!」


 暴虐の嵐の中に晒されていたとしても、アル様の声だけは、聞こえる。

 ……ああ、嫌だな。こんなにもアル様のことが好きなんだって、気づきたくなかった。


「アル、さま……」


「マキナ……!」


 アル様が、わたしの手を握ってくれた。

 少なくとも今はわたしのことを……わたしだけを見てくれてる。嬉しいな……もう、満足しちゃったぐらいだ。


「今すぐその身体を捨てろ! 元の身体に戻れ! その後のことは……何も気にすんな! 何があっても俺がなんとかしてやる! だから……!」


「……だめ、みたいです……」


「…………っ……!?」


「わた、しの……からだ……もう……ない、みたい、です……」


 わたしの中で繋がっていた何か。恐らく、この死体と元の身体を繋ぐ糸のようなもの。

 それが、漆黒の炎に焼かれて完全に消えてしまったことを感じていた。


「…………っ!」


 アル様も察したのだろう――――わたしの元の身体が、ルシルに消されてしまったことを。焦りに染まった顔が凍り付いている。


 ……なんか、ちょっとだけいい気分。シャル様には申し訳ないけれど、今だけはアル様を独り占めしているみたいだから。できれば許してほしいな。だってこれが……最後になるだろうから。


「だからなんだ! それでも何とかする! 絶対に助ける! だから……!」


「もう……いいんです……無理……しない、で……」


「もういいって……! お前!」


「わた、しは……ま、ちが、って、まし……た……心の……底では……まちがって……るって……わかってた、のに……」


 止まれなかった。自分のエゴを貫き通した。


「アル、様、への……想い、を……捨てきれ、なかっ、た…………」


 これはその報いであり、代償だ。


「わたし、は……もう、いいん……です……最期に……伝え……られ、た……から……言えた、から……もう……満足……です……」


 最初から分かってたことだ。アル様がわたしを見ていないことなんて、最初から分かってた。それでも言えた。この想いを伝えられた。だったら、もういい。伝えられただけで満足だ。


「アル……さま…………」


 最期にもう一つだけ伝えよう。

 感謝を。こんなわたしを助けてくれたこと、拾ってくれたこと、恋する気持ちをくれたこと。


「あり……が……と、う…………」


 ――――ああ、言えた。これでもう、思い残すことなんて何もない。


「さよ……なら…………ルシル、なんか、に……負け……ない、で……」


 消えていく。わたしという命が。生命の鼓動が。

 深く遠い闇の中に。


「あなたの……勝……利と……しあわ、せ……を、祈って……ま……す……」


 それでも不思議と恐れはない。だってこんなにも満たされている。大切な恋を抱きしめて眠ることができるなんて、わたしはきっと幸せだ。


 さようなら。アル様。


 さようなら。あなたのことを愛しています。


 たとえあなたがわたしのことを見ていなくても。わたしを愛していなくても。


 それでも、あなたを愛しています――――。











「――――ふざけんな!」


 冷たい死体を包み込むように、温もりがわたしを抱きしめた。


「ふざけんな! ふざけんな! ふざけんな! なに勝手に諦めて満足してやがる!」


「ある、さ……ま……」


 アル様の身体がわたしを抱きしめてくれている、ということに数秒経って気づいた。


「全部を諦めて勝手に死ぬなんて、そんなの俺が許さねぇぞ!」


「…………」


 全てが遠ざかって、全てが色を失っていく中で……アル様の声と温もりだけが、未だに鮮明に聞こえてくる。


「お前は俺の何を見てきた! 俺は最初から何もかも諦めて、それで失敗してただろうが! お前はそれを見てただろ! ずっと隣で、俺の傍で見てただろ! 一緒に居てくれただろうが!」


 もうわたしという存在は何もかもが冷たい闇の中に消えたはずなのに。


「なのに……何もかもを諦めて、自分の命すら諦めようとしてるだと? ふざけんな!」


 熱が伝わってくる。わたしの鼓動を繋ぎ留めている。


「全部分かった気になって諦めるぐらいなら藻掻いてみせろ! 絶対に死なないって意志を見せてみろ!」


 ……むちゃくちゃなこと言ってるなぁ。アル様らしいといえば、らしいけど。


「俺はお前の命を絶対に諦めねぇぞ! だからお前も諦めるな! これは命令だ! 諦めて、俯いて、そんな状態のまま立ち止まることなんて、この俺が許さない!」


 頬に落ちてくる雫。これは雨……じゃない。涙だ。

 アル様が零している涙。……わたしのために、泣いてくれているんだ。


「やめ、て…………くだ……さい……よ……」


 やめて。そんなことしないで。そんなこと言われたら。


「死にたく……なくなっちゃう……じゃない……です、か……」


 ここから助かる方法なんてない。

 ルシルにわたしの元の身体を消されてしまった時から、それが分かっていた。

 だから納得しようとしてたのに。分かった気になって、潔く、綺麗に終わりを迎えようとしてたのに。


「諦めた方が……楽なのに……生きたい、って……願っちゃう……じゃないですか……」


 叶わない願いを願い続けるなんて、辛いだけなのに。


「だったら願え! お前の願いを言え! たとえどんな願いでも! 神様なんざ蹴っ飛ばして、俺が叶えてやる!」


 無茶苦茶だ、そんなの。


「…………ない……」


 でも……ああ、だめだ……。


「死にたく……ない…………」


 アル様のせいで、押し込めていたものが出てしまう。


「わたし……まだ…………生きて……いたい……です…………」


 この冷たい闇から抜け出したいと。

 叶わない願いを、望んでしまう。


「何も……諦めたく、ない……です……」


     ☆


「そんな願い、叶うわけないのに」


 アルフレッドが必死にマキナを抱きしめる光景を、ルシルは冷めた眼差しで眺めていた。

 その傍には、糸の切れた人形のようになってしまったシャルロットが、地面に膝をついて座り込んでいた。


「優しく看取ってあげればいいのに。早く楽にさせてあげればいいのに。叶わぬ願いを口にさせて、藻掻き苦しめだなんてまあ酷い。……あはっ。シャルロットさんも、そう思うでしょう?」


 シャルロットは答えない。頬に伝った涙はとうに渇いており、開いた瞼からは焦点の定まらない瞳を覗かせているばかりだ。


 彼女の心は既に砕け散っている。あとはマキナが完全に死ぬところをその眼に焼き付け、取り返しのつかない喪失感と無力感を心に刻み付けることで、輝きを喰らい尽くすのみ。


「あなたには何もできませんよ。アルフレッドさん」


 既に全ては終わっている。ここからの逆転劇などありえない。そんな余白は存在しない。

 あとはもう、バッドエンドを書き記すだけだ。


「あぁ……嗚呼! 見てくださいシャルロットさん。マキナさんが死にます!」


 マキナの目から光が消えていく。命の光が徐々に消えていく。


「あははははははっ! 見てくださいシャルロットさん! 愛に抱かれて、愛に生きて! マキナさんは死にます! さぞ幸せでしょう! 思い人の腕の中で死ねるなんて! まるで物語の美しき終わりのよう!」


 冷たき身体でマキナは必死に手を伸ばす。最期の足掻きだ。無駄な抵抗だ。


「さようならマキナさん。あなたは良い、引き立て役の人形でしたよ」


 ルシルは別れを告げる。役目を全うし、あと数秒もすれば命尽き果てる人形に。


「――――叶えてやる」


 しかし。黒髪の少年は、それを否と叫んだ。


「お前の死にたくないって願いを! 生きていたいって願いを! 諦めなくないって願いを! 俺が絶対に叶えてやる!」


 ルシルが作り上げた筋書きを否定する。


「あはっ。あんなに必死に叫んじゃって……可哀そう。あなたには悲劇これを止められる力なんてないのに」


 何をしようとエンディングは変わらない。バッドエンドは止められない。

 そんなご都合主義など、ルシルが紡ぐ物語には存在しない――――――――はずだった。


「…………っ?」


 その異変を、ルシルは見逃さなかった。


「なに……?」


 冷たい死体を抱きしめる黒髪の悪役王子の身体から、光が漏れている。

 その光は輝きとなり、光輝と化して肥大化し、奇跡という概念を具現化したような光景を世界に刻み込む。


「あれは…………!」


 全身を覆う魔力光。その光が何を示しているのか、ルシルはよく知っている。


「――――『原典魔法』……!」


 遥か過去の時代の人々は奇跡を欲した。故に魔力を制御し魔法を顕現させる杖が作られ、より簡易的に、より多くの人々に奇跡を普及させたのが指輪による現代の魔法だ。


 遥か過去の時代の魔法使いは指輪も杖も必要とせず、その身に宿る魔法を自在に行使していた。それこそが『原典魔法』。限られた者にしか許されず、只人たちが渇望した奇跡。


 アルフレッドが行使しているのは原典魔法それだ。

 全身から発せられる魔力光がその証。


 本来なら、驚くべきことではない。


 理由は彼の身に宿る『第六属性』の魔力にある。


 そもそも『原典魔法』を宿すか否かは、魔力に含まれる特殊な『粒子』に左右される。


 この『粒子』が一定を超えると『原典魔法』が肉体に宿り、心や想い、感情といった精神的な要因で『原典魔法』が目覚める。『粒子』の量が多ければ多いほど『原典魔法』は強力になっていくが、同時に覚醒にはより強い心や感情が必要となる。


 ルシルたちのような『六情の子供』でもない者に、ごく稀に宿る漆黒の魔力。これは『原典魔法』を発現させる特殊な『粒子』を一定以上有することによって、魔力が変質した結果だ。


 つまり漆黒の魔力を持つ者は皆、生まれながらにして強力な『原典魔法』を宿している。


 この事実は一般的には知られていない。正確には遥か古の時代から、少しずつ情報を抹消させてきた。今や王家の者でさえ知ることのない真実だ。


 だからこそ黒の魔力を持つ者たちを虐げさせた。差別意識を植え付け、その特異性を人間たちの手で排除させてきた。


 アルフレッドが知る由もない。故にこれは意図的なものではない。

 感情と魔力の高ぶりといくつかの偶然によって起きた奇跡だ。


「だけど今、ここで覚醒させた? こんな……こんな都合の良いタイミングで!?」


 驚くべきはタイミング。こんな絵に描いたような状況シチュエーションで、その身に宿る魔法を覚醒させ、奇跡を起こした。


「いや……だから……だからどうした!」


 マキナは死ぬ。これは変えようのない運命だ。

 いくら黒の『原典魔法』といえども魔法は魔法。ただの魔法だ。仮にアルフレッドの『原典魔法』が回復魔法だったとしても、死体を救えやしない。


「たかが奇跡一つで、この運命は変えられない!」


 ルシルの叫びなど知る由もなく、アルフレッドから発せられた輝きがマキナの身体を包み込む。


「…………っ……!」


 予感にも似た恐怖を証明するかのように――――マキナの身体の血色が徐々に赤みを帯びていく。


「――――は?」


 背筋が凍る。目の前の奇跡に、ルシルは戦慄を隠せない。


「『マキナ・オルケストラ』の身体が……蘇った……!?」


 オルケストラの技術でさえ、冷凍保存しておいた死体に、魂を入れて稼働させるただの入れ物として繕うことが限界だった。心臓だって、ただ魔法によって動かしているだけにすぎない。よって、あれはただの死人だった。死体に魂を入れて動かしているだけに過ぎないはずだった。


 だが今の『マキナ・オルケストラ』は違う。

 あの身体は生きている。心臓の鼓動は自らの力で音を奏でている。

 魂の方は人造人間ホムンクルスの方の『マキナ』だ。アルフレッドたちと共に生きた『マキナ』の方だ。だが、その魂は肉体に馴染んでいる。


 人造人間ホムンクルスだった『マキナ』は今、正真正銘の『人間』となった。


 死体を動かしているだけじゃない。生きた人間となった。


 アルフレッドの原典魔法の力によって。


「――――ありえない! 回復魔法はおろか、蘇生魔法ですらない! 死体を生きた人間に作り替え、魂すらも馴染ませるなんて! そんな奇跡、ありえるはずがない!」


 だが現にその奇跡は実現している。そのありえない奇跡は目の前に現実として世界に刻み込まれている。


「こんな魔法が存在するわけがない! 都合の良い方に現実を捻じ曲げるような魔法、ありえるはずが――――」


 その時、ルシルの頭を過ぎる記憶が在った。


「――――いや。覚えがある。お母様は知っている」


 遥かなる過去の時代。『夜の魔女』の前に立ちはだかった者たち。その中に、一人。


「運命を塗り潰し、悲劇を英雄譚に創り変えるという、ふざけた能力」


 流れ込んでくるのは、母の苦い敗北の記憶と共に刻まれた、あの男の姿。


「レイユエール王国初代国王――――バーグ・レイユエールと同じ力! かつて世界を救った最強の『原典魔法』か!」



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