第74話 幕間・硝子姫は魔法にかかる
マリエッタ・ノル・イヴェルペ。
それがイヴェルペ王国の第二王女として生を受けた、わたくしの名前。
初代国王にして、かつて『夜の魔女』と戦った英雄の一人、ノル・イヴェルペの遺志を継ぐ現代の王族の一員。
わたくしたちイヴェルペ王国の王族に必ず刻まれる『ノル』の名は、この世に遺された災いである『ラグメント』から民を護るという者という証。意志と責務の形。
初代国王バーグ・レイユエールの名を継ぐ『レイユエール』を始めとする他国の王族を見るに、各同盟国の者たちも思いは同じだろう。
その中でもイヴェルペ王国は『ラグメント』に対する敵意は強い。
厳しいく険しい雪の国。そこに『ラグメント』という脅威が重なったことで、失われ奪われた命も多い。だからこそ、故にこそ――――わたくしたち王族に課せられる責務もまた重く、苦しいものとなる。
兄たちも、お姉さまも、そしてわたくしも、幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
この美しくも過酷な国で強く在るために。
礼儀作法は勿論のこと、王族の責務である『ラグメント』討伐のための技術は特に厳しく叩き込まれた。
けれど『ラグメント』討伐のための
他の兄や姉たちと比べて一向に『精霊』と契約できないわたくしを、周りは陰で『硝子姫』と呼んだ。
愛らしい見た目しか取り柄が無く、王族として必要な強さを持たぬ、硝子のように割れやすく脆弱なお姫様――――『落ちこぼれ』の一言で済むようなことを、わざわざ『硝子姫』などというお飾りの名に閉じ込めるのだから趣味が悪い。
だから。兄や姉のことが苦手だった。家族というものが苦手だった。
みんなは『ノルの名を継ぐ王族』としての力があって、役目を果たしていて。
わたくしだけが役立たずの脆弱な『硝子姫』だったから。
中でも、ノエル兄さまは一番苦手だった。
どれだけ厳しい鍛錬にも音を上げず、淡々とこなしていくその姿が。
……だって、そうでしょう? わたくしが努力しても出来ないことを、いとも容易く、簡単だとでも言わんばかりにこなされては。目を背けたくもなる。
そんな時だった。同盟国の交流の一環として、わたくしはレイユエール王国で開催される新型魔道具のお披露目パーティーに参加することになった。
見た目しか取り柄が無いわたくしは、こういったパーティーの場に参加することは珍しくない。いや、こういったことぐらいでしか、『硝子姫』であるわたくしが役に立てる場はないから。
(………………………………あ、もう無理だ)
ぷつん、と。わたくしの中で何か糸のようなものが切れた音がした。
きっかけがあったわけではない。何か特別なことが起きたわけでもない。
朝ベッドから起きて、ふと天井を眺めていた時、唐突に糸が切れてしまったのだ。
そしてわたくしは、泊っていた部屋を一人で抜け出して街へと飛び出た。
精霊と契約こそ出来てはいなかったけれど、わたくしだって王族としての鍛錬は積んでいる。誰にも気づかれずに抜け出すことぐらい、わけはない。
行くアテがあったわけではないけれど、ただがむしゃらに走った。
見知らぬ街。遠くの国。目に映るもの全てが新鮮なはずだったけれど、この時のわたくしには遍くものが過ぎ去る景色でしかない。
「はっ……はっ……はっ……」
足を止め、貪るように空気を肺に取り込むと、わたくしは薄暗い路地の中に一人になっていた。無意識の内に人目につかない場所を選んで逃げていた結果だ。
当然、帰り道すらも分からない(帰るつもりはなかったけれど)。
何がしたかったわけでもない。わたくしは薄暗い路地裏に座り込み、ただ俯くことしか出来なかった。
「家出か?」
「…………え?」
問いかけに対し、思わず顔を上げる。
ローブを纏い、フードを目深に被った同い年ぐらいの少年が、じっとわたくしの顔を眺めていた。
「わたくし……?」
「そ。お前。家出でもしてきたのか、ってきいてんだ」
「えっと…………そう、ですわ……」
特に何か計画があって飛び出したわけでもない。衝動のままに飛び出したに過ぎないので、果たしてこれは家出なのだろうかという戸惑いを浮かべてしまったものの、冷静になって自分の行動を思い返してみればただの家出でしかないということに気づいた。
「どこの貴族令嬢かは知らねーけど、こんなトコうろついてないでさっさと帰れ」
「ど、どうしてわたくしのことを貴族令嬢だと思いましたの?」
「他にそんなお上品な喋り方をするやつはいねーよ」
「あっ…………」
当たり前が過ぎた指摘に、羞恥で頬が紅くなる。わたくしは恥ずかしさを誤魔化すように、フードを目深に被り直した。
「それに、そのローブ。隠蔽効果が付与されてるだろ。貴族とかがお忍びによく使うもんだ。その手のローブは色々見てきたが、あんたが使ってるのはかなり効果の強いものだ。そんなもんを手に入れられるとしたら自作が出来る宮廷魔法使いレベルの使い手か、高位の貴族令嬢ぐらいのもんだ」
このローブは擬装用に、見た目の上では普通のものと変わらないようにできている。にも拘わらず、この少年はわたくしのローブが高位の魔法が付与されたものであると看破した。
「……あなたも只者ではございませんのね」
「さてね。俺は至って普通の、どこにでもいるただのクソガキだ」
「く…………」
自分であまり口にしたくない乱雑な言葉に一瞬だけ頭がくらくらした。
「…………」
彼に対するこの僅かな違和感は、恐らく認識阻害の魔法によるものだ。
確信があるわけではない。わたくしの直感に過ぎないけれど……髪か、瞳か。彼が容姿に関する何かしらものを隠していることは分かった。
しかし、それをつつく気などない。彼はわたくしのことを貴族令嬢(厳密には異国の王族だけど、流石にそこまでは看破しきれなかったようだ)だとは見抜いたが、それ以上のことは深く追求する気はないらしい。探られて痛い腹なのは恐らくお互い様であり、彼もそのつもりのようだ。
「家出するにしても、この辺はやめとけ。お前みたいな弱っちいお嬢様じゃ半日すらもたねーぞ。とびきり幸運なら身包みはがされる程度、ちょっと運が良くて奴隷商行きだろうぜ」
「もし運が悪ければ……?」
「聞きたいか?」
「……遠慮させていただきますわ」
自分の心の安寧の為に、それ以上は聞かないことにした。
「ご親切にありがとうございます。では、わたくしはこれで……」
何の計画性もなく家から飛び出したものの、流石に酷い目に遭いたいわけではない。
わたくしはその場所から離れようとして――――離れようとして……。
「お前、出口分かってんのか?」
「わ、わかってますわ、それぐらいっ」
「ああ、そう。ちなみにそっちは出口とは真逆だぞ」
「…………」
呆れたような指摘に、まともに目を合わせることすら出来ない。
「ったく……しゃーねぇなァ。ほら、こっちだ」
「えっ……と……」
「察しが悪いな。出口まで連れてってやるって言ってんだよ」
その男の子は不愛想だけれども、掴んだ手からは心配のようなものが伝わってきて。
「……俺なんかと手を繋ぐのは嫌だろうけど、離すなよ。お前みたいなほわほわしてる奴、すぐに攫われそうだからな」
「い、嫌じゃありませんわっ」
「それならいいんだけど」
不器用な優しさを振り解くことはわたくしには出来なかった。だって、それはきっと、あの凍える国でわたくしが欲してやまなかったものだから。
こんな風にわたくしの手をとってくれる人なんて、あの国にはどこにも……。
「お、お前っ! 急に泣くなよ!?」
「え……? あ…………」
彼の慌てふためいた顔を見て初めて気づいた。
どうやらわたくしはいつの間にか泣いていたらしい。泣いてしまって、いたらしい。
「も、申し訳ありませんわ。すぐ……すぐに、泣き止みますから…………だから……」
……わたくしを見捨てないで。
「…………」
彼の手が離れた。途端に心臓が冷たくなって、足が氷漬けになったように動かなくなって。
あの雪国でわたくしを見る、周りの人々の人々の冷たい眼差しが頭を過ぎる。
見た目だけの硝子姫。役立たずの硝子姫。落ちこぼれの硝子姫。
厳しく険しい凍える国で生まれてしまった、弱くて哀れな硝子姫――――。
「…………別に、置いて行ったりしねぇよ」
彼はローブのフードごしに、わたくしの頭をぎこちない手つきで撫でた。
不器用でぎこちない手。だけどわたくしのことを慰めようとしてくれている、優しい手。
「だから泣くな。慰め方とか、よく分かんねぇし」
「…………はい」
ぽろぽろと零れていた涙が止まった。自分でも不思議なぐらいに、あっさりと。
「ありがとうございます。わたくしを、見捨てないでくれて……」
「ロクな人間じゃない自覚はあるけど、こんなとこで見捨てるほど冷たくもないつもりだよ」
「……お優しいですわね。わたくしのお兄様とは大違いですわ」
「なんだ、兄妹喧嘩でもしたのか」
「違います。……喧嘩になんて、なるわけがありませんわ。あの人はわたくしのことになんて、興味がないんですもの」
「ふーん……ようは、構ってもらえなくて家出したと」
「違います! わたくしは……」
それが家出の理由だったなら、どれだけよかったことか。
「わたくしは……落ちこぼれなんです。お兄様たちは何でも出来るのに、わたくしだけが不出来で…………わたくしだって頑張りました。努力してます。それでも……なんだかもう、頑張るのは無理だと思ってしまって……」
逃げ出した。
事実を並べてみれば、あまりにも惨めで情けない。
「…………なぁ、お前。時間あるか」
「えっ……?」
「あるよな。家出娘なんだから」
彼は再びわたくしの手をとると、そのまま出口とは違う方向に向けてどんどん進んでいく。
「ど、どこに行こうとしてますの?」
「どこって、そりゃあ……良いトコだよ」
「い、良いトコ……?」
そうして、わたくしが連れてこられたのは――――煌びやかな内装と静かな熱狂が渦巻き、大人たちの欲望をチップに賑わう空間。
「……あの、ここって…………」
「見ての通り、
「かっ…………!」
思わず卒倒しそうになった。
「大丈夫だ。合法だし」
「そういう問題ではないのでは!? というか、わたくしたちのような子供が入っていい場所では……」
「何のための認識阻害魔法だよ」
「少なくとも賭博をするためのものではありませんわよ……? それに、認識阻害魔法はあくまでも見た目を少しいじったり、印象や違和感を調整する程度のものでしょう? 目や髪の色を変えるぐらいならともかく、子供を大人の姿に見せるのは、もはや幻術の
「ああ。俺らの姿もそのまま
「でしたら、すぐに追い出されてもおかしくありませんわ」
「そこはほれ、ちょっとした魔法で何とかなるもんだ」
そう言いながら彼が見せてきたのは、重みのある金貨の塊。
「ただの賄賂ではないですか……」
「そうとも言うな」
彼はしれっとした顔で言い切った。
「あの……なぜ、わたくしをカ……このような場所に連れてきたのでしょうか?」
口に出したら二秒で卒倒する自信がある。
「息抜きだよ、息抜き。お前もなんかやってみろ」
「えぇっ!? お断りします! こ、このような、不健全な……!」
「だから不健全も何も、ここは国が許可を出してる合法の
「わ、分かりませんわ。そんなの」
「息抜きをするためだ」
「い、息抜き? そんなの、別に賭け事ではなくともよいではありませんか。本を読んだり、綺麗な景色を見たり……」
「こういう不健全な遊びではめを外さないと息抜きできない人間ってのは多いんだよ。お嬢様が思っている以上にな。そういうやつらのフラストレーションをためると、たいていロクなことにならない」
「……わたくしも同類だとおっしゃりたいの?」
「いいや? ただ、お前の場合は真面目過ぎると思っただけだ。疲れるだろ、良い子でいるのって」
「…………っ……」
疲れる。彼の言葉は不思議と、すとんと胸の中に落ちた。
そう。わたくしはきっと疲れていた。糸を張り詰めるばかりいて、ぷつんと切れてしまった。
役立たずの『硝子姫』。
精霊と契約できないから。『ラグメント』と戦えないから。王族の責務を果たせないから。
だからせめて、良い子でいないと……思っていた。
「良い子でいなくとも……よいのですか?」
「いいんじゃないか。少なくとも、今ぐらいはさ。家族のいない時ぐらい、ちょっと悪い子になってもいいだろ。……ほい、チップ。これを賭けて遊ぶんだ」
「い、要りません!」
「一回ぐらいなんか遊んでみろって。ちょっとだけでいいから」
「お断りします!」
彼の誘いに対して、強い拒絶を示す。
そう。わたくしは王族。見た目しか取り柄の無い『硝子姫』。
真面目に優雅に御淑やかに。このような不健全な遊びに手を染めるなど、もってのほか。
「わたくしは絶対に、このような不健全な遊びに屈しませんわ!」
☆
「来なさい、黒の十七番! 黒の十七番! 黒の十七番! 落ちなさい! そこに落ちなさい! いい子ですから……!」
高速で回転する球が、かこん、と小気味良い音を立てながら――――十七番と記された黒のポケットに落ちた。
「きましたわぁあああああああああああああああっ!」
「すっげぇええええええええ! ピンポイントで当てやがった! お前、やるなぁ!」
「うふふふふふふふ! 快感ですわ! 爽快ですわ! 癖になりそうですわ! さぁて、ルーレットの次はカードでも……………………って、なにをやらせますの!?」
思わず突っ込んでしまった。
「わたくしとしたことが……! か、かかかかか
「あれだけ荒稼ぎした後でよくもまぁ……」
隣の男の子はくつくつと笑っている。なんだかそれがたまらなく、悔しい。
「ビギナーズラックって域を超えてるな。才能あるぜ、お前」
「こんな才能があっても嬉しくありませんわ……」
「嬉しくはなくとも、楽しそうではあったけどな」
「…………まあ。それは認めてさしあげますが」
思えばあの冷たい国の中で、ここまで心を動かしたことはなかったかもしれない。
それがギャンブルというのは、大変不本意ではあるけれど。
「少なくともあの路地裏で転がってた時より、ずっとイイ顔してるぜ。今のお前は」
「…………誉め言葉ですの?」
「誉め言葉だ。掛け値なしのな」
彼は手の中でチップを弄びながら笑ってみせる。ローブの下に隠れているので、表情は口元ぐらいしか分からなかったけれども。
「頑張り続けてもしんどいだけだろ。たまには休憩して、自分を甘やかして、自分に優しくしてやってもいいんだ。そうすりゃ、また走り出せるようになるさ。……休憩の手段がちょっと不健全でも、程々ならいいだろ」
「…………諦めろ、とは言いませんのね」
「なんだ、言ってほしいのか?」
「いえ…………わたくしの周りにいる方々は、皆が口を揃えて言いますので」
直接的に言われたことはない。あくまでも耳にした範囲での陰口ではあるけど。
「言わねーし、言えねーよ。……むしろ、俺が色々と諦めた側だからな」
「え?」
「俺には欲しかったものがあって、なりたかったものがあった。でも、全部諦めたんだ。だから他の人に諦めろとかは言いたくない。諦めてしまうことの痛みを知ってるからな」
「そう……でしたの」
ローブの下にある彼の表情は何を描いているのか。わたくしには知る由もない。知る術も持ち合わせていない。ただ、きっと。痛みが走っているということだけは、伝わってくる。
「だから、お前は頑張れ。もう頑張ってるかもしれないけど、報われてないのかもしれないけど。もっと頑張れ。諦めてしまえば楽だが、痛みが無いわけじゃないからな」
そのありふれた、ともすれば凡庸な
わたくしの胸の中に深く突き刺さった。痛みとは違う、甘い痺れを残して。
――――名も知らぬ少年との出会いは。過ごした時間は、それっきりだった。
こうして思い返してみれば、わたくしは名も知らぬ少年に『悪い遊び』を教わったことになるのだけれど。
わたくしにとっては忘れがたい時間。わたくしの
あの美しくとも冷酷な雪国に戻ってから、わたくしはたまに城を抜け出して、自国の
どうやら彼の言う通り、賭け事というのはわたくしの肌に合っていたらしい。
気が付けば立派な趣味の一つになっていて、その息抜きが上手くいったおかげなのかは定かではないけれど、少しして『精霊』との契約も成功させた。
そしてわたくしは役立たずの『硝子姫』から、『雪国の妖精』と呼ばれるようにもなった。
周囲の手のひら返しには内心で呆れはしていたけれど、それは明確な『結果』として納得して、受け入れた。
自分に自信が持てるようになった。自信が持てるようになって、気づいた。
家族はわたくしが思っていたよりも温かかったこと。自分で自分を貶めて、卑屈になって見落としていたものが色々あったこと。
……ノエル兄様に関しては、元から冷たい人だったのかもしれない。
だけど婚約者が出てきてからのノエル兄様は、少しずつ柔らかくなっていた。
冷たい雪が解けていくように。
「マリエッタ」
ある時、わたくしはノエル兄様に呼び止められた。
「…………先日の『ラグメント』討伐だが……見事だったぞ」
内心では緊張していたわたくしに告げられたのは称賛。
三日ほど前のラグメント討伐に対する感想。
それを言うのは、それこそ三日遅いのではないかという言葉が浮かんだけれど、それよりもたくさんの嬉しさの方が勝っていた。
周りの貴族たちからの、万の言葉を尽くした賞賛よりも、何よりも。
ノエル兄様のどこかそっけない三日遅れの賞賛の方がわたくしの胸には響いた。
――――その時になって、ようやく気付いたのだ。
わたくしは自分でも知らずの内に、ノエル兄様のことを尊敬していたこと。
見た目だけしか能がない、役立たずの『硝子姫』だったからこそ、全てを淡々と完璧にこなしてみせるノエル兄様に対する尊敬と憧れがあったことに。
「ふっ……ふふっ……」
「…………何だ。何が可笑しい」
「いえ? わたくしはただ、自分でも思っていた以上に……」
ブラコンだった、なんて。
言えるわけがない。
「……何でもありませんわ。お褒めの言葉、ありがとうございます。嬉しいですわ。とても」
「そ、そうか」
「ですが次からは三日遅れではなく、その場で賞賛の言葉を頂きたいものですね。まあ大方、リアトリス様に怒られて渋々やってきたのでしょうけど」
「渋々ではないぞ」
「あら。怒られたのは本当だったんですね?」
「……………………」
黙り込むノエル兄様の顔には「しまった」と書かれてある。
どうやらわたくしの兄は、思っていた以上に婚約者に弱いようだ。
この時をきっかけに、わたくしはノエル兄様と打ち解けることが出来た。
ずっと多くの言葉を交わすようになったし、婚約者のリアトリス様は本当の姉のように慕っていた。
この幸せはきっと、あのレイユエール王国で出会った彼がくれたものだ。
彼と過ごしたひと時がわたくしに魔法をかけてくれたみたいに。
だけど、その
婚約者のリアトリス様が『ラグメント』に襲われて消息を絶ったのだ。
それからノエル兄様は変わってしまった。いや……戻ってしまった、と言うべきか。
リアトリス様に出会う前の、心の凍てついた人形に。
ノエル兄様は周囲の制止も聞かず、ただひたすらに『ラグメント』を狩り続けた。
まるで己が身に罰を刻み込むように。その眼には、復讐以外の何物も映ってなどいなかった。見ていられなかった。見たくなかった。そんなお兄様の姿を。
「お兄様……少し、お休みになられた方が……」
「……必要ない」
「ですがもう三日間、睡眠すらとってないでしょう? それではいつか倒れてしまいます」
「黙れ。お前には関係ない」
関係ない。
その言葉がたまらなく痛くもあり、同時に腹が立った。
リアトリス様のことを悲しんでいるのは自分だけだとでも思っているのだろうか。
姉同然に慕っていた人を失くして悲しみに暮れているのは、わたしだって同じだ。
お兄様が抱えている哀しみはきっとわたくしのものよりも深くて辛いのかもしれない。だけど、わたくしが何も思っていないわけでもない。わたくしが何も痛みを抱いていないわけがない。
お兄様の痛みがお兄様だけのものであるように。
わたくしのこの痛みもわたくしだけのものだ。この痛みを『無い』ものとして拒絶するお兄様の態度が、たまらなく腹立たしい。
「……冷静になってください! リアトリス様はこんな風にお兄様が傷ついていくことを望んでなどいません! 彼女は……!」
「――――黙れと言っているッ!!」
ぱん、と。
頬を叩く乾いた音が、雪の王宮の中に冷たく染み渡った。
ずきずきとした頬の痛みが、紡ぐはずだった言葉を全て引き裂いて。
「貴様に何が分かる! オレの前で、リアトリスのことを知った風に語るな!」
立ち尽くすわたくしを置いて、ノエル兄様は姿を消した。
それきり、ノエル兄様と言葉を交わすことは殆どなくなった。
レイユエール王国から留学生として、第一王女のルーチェ様が来てくださってからは、ノエル兄様の負担も軽減されたけれど。それはルーチェ様本人の性格や資質によるものが大きい。彼女の破天荒さや強引さ、そして実力が為したもの。
わたくしには、それを成せるだけの実力が無かった。焦って、無茶をして、『
あの頃の……役立たずの『硝子姫』に戻ったような気分になった。
だけど。
あの頃とは違う点がある。
「いつか絶対にぶん殴って、目を覚まさせてやりますわ…………クソ兄貴」
わたくしはもう、諦めがちな『硝子姫』などではない。
諦めの悪いただの不良王女だ。
やがてわたくしは、『
ルーチェ様と共にレイユエール王国へと向かった、クソ兄貴の頬を殴り返してやるために。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
書籍版「悪役王子の英雄譚」第2巻の発売日が8月17日(水)に決定しました!!
web版から前半のストーリーが大幅に変わり、半分以上が書き下ろし!!
表紙などの情報は、「電撃の新文芸」の公式サイトやTwitterで追って発表されるかと思いますので、こうご期待!
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