第168話 裏側の世界へ その1

 わたしはイヌガミを降ろす儀式を始める。

 一通りの知識は、母がアザトース世界を去る前日に伝授されている。


 母は何を意図して禁断の知識をわたしに授けたのか、それはわからない。


 あまりにもティンダロスへの親和性が高すぎた故に『呼ばれて』しまった、母。

 その娘、わたしこと、時雨環。わたしも、かの世界との親和性は、高い。


 今回、わたしはこの特異性を悪用してしまおうと動いている。


 実のところイヌガミを降ろすのは、条件さえそろえばそう難しい術式ではない。


 まず、一族であること。ごく一部に例外はあれど、女性であること。

 一定以上の魔力量を有すること。ただこれにはある種の抜け道があり、魔力量が多少足りない程度なら、魔晶石を使えば補強も可能である。

 イヌガミへの正しい知識を一族から得ていること。

 本来はイヌガミを降ろす儀式も網羅すべきだが、一族の儀式を司る者がいるので彼らに任せてしまえば問題はない。そもそも禁断の知識なので知らない方が良い。


 最後に、イヌガミを降ろす『雄』の媒体を用意できること。

 これは別に犬でなくともよい。美琴が用意した媒体となる獣は三体とも雄のフェレットであるし、他にもイタチやテンの例もある。


 そうして儀式の場を設け、ティンダロスの王であるミゼーアに願い奉る。

 認可されれば半自動的に『猟犬』は媒体となる獣に降りてきて、融合する。


 見た目や性格などは元のままで、中身が召喚者に忠実な神話生物と化す。


 わたしは溢れんばかりの魔力を以って、強引に儀式の場を進めていく。


 ――虚数なるはティンダロス、偉大なる国父、ミゼーアよ。いと高き御座にありし真王、ミゼーアよ。ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお。これなる実数をすべてを反転し、比類なきうつろなる王に捧げ奉る。願わくば世界のもろもろがうつろに呑み込まれるよう。願わくば実なる者が速やかに根絶されますよう。そのための猟犬を、われにお与えくださいますよう。


 わたしたちのイヌガミ一族の最高支配者は、ティンダロスのミゼーアである。


 なので、かの王を讃え、悲願となる実数の者たちの根絶を願うのは儀式として欠かせない要素となる。その上でひっそりと陳情を入れる。

 目的の達成のためにもあなた様の猟犬を下賜してくださいますように、と。

 ちゃっかりしているところがミソで、しかし大体の魔術儀式とはこういうものであり、上位者を讃えて、ノセて、頂くものは頂くのだった。


 ただ、調子に乗り過ぎれば死を賜るので、その辺りは重々注意すべし。


 ときに、この儀式に入ってからというもの、下腹部にまるで火でも入ったかのように熱を帯びて耐えがたいほどだった。もちろん、熱病に侵されたわけではない。


 まるで発情でもしたかのような激しい性衝動に脅かされているのだった。すでにショーツは愛液で濡れ透けるほどだというのは感覚でわかっている。


 ああ、いじりたい。慰めたい。オンナノコがすすり泣いている。昨晩の性的経験がなければ衝動に負けて、自慰を覚えたばかりの類人猿のように自らを可愛がり、あられもない姿を晒して知能ゼロの嬌声を上げていたことだろう。


 ふっ、と下腹部に気合を込める。太ももを伝って愛液が筋を作る。


 呼んでいるのだ、ティンダロスが。

 寵姫となれとミゼーアが腕を伸ばしてきている。


 くそっ、と胸の内で悪態をつく。

 母を連れ去って、その娘のわたしまで欲するか。


 いいだろう、その欲深きロリ親子丼への心意気。

 わたしは全力で抵抗しつつ、逆にこちらの欲求を突き通してやる。来いよミゼーア。武器なんか捨てて、かかってこい!


 血で描かれた陣の中心に立つ震電が、突如天を仰ぐように上を向き、倒れた。

 白目をむいている。痙攣し口から泡を吹いている。


 猟犬が、彼に、憑いた!


 儀式は、成った。わたしは駆けて、震電を抱き上げる。

 彼はすぐに意識を戻し、何事もなかったように黒いつぶらな瞳でわたしを見上げた。ぺろぺろっ、と下顎を舐められた。


「ミコトっ! サキ姉ちゃん! わたしに捕まって! 、もうすぐ!」


 見ればわたしの腕は、針金を巻いてぐしゃりと潰したような黒い塊に変容していた。母と同じ症状が、急速に進行していっている。こうなるともう止められない。


 彼女ら二人が背中に抱きつくと同時にわたしの視界はぐにゃりと歪んだ。

 異常な知覚が奔る。


 それは半透明の、灰色の針金を束にして構成した巨大な手だった。


 鷲掴みに引きずり込まれる。地面にではない。

 わたしにはわかる。世界の裏側へと、連れ去られる。





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