第72話 罠狩猟とボンクラ女子高生 その3
三つ目の天秤棒スネア―を無事設置したときだった。
「ちょっと大き目の柴犬が五匹いるよ。一匹、右後ろ足を怪我してる……」
イヌガミを用いて周囲警戒に当たっている美琴が報告した。やおら咲子は肩にかけていた弓を構え、矢をつがえた。目が据わり、彼女の纏う空気がピンと張りつめる。
「ミコト、念のために確認するが、それは柴と表現するだけに、犬なのだな?」
「えっ、うん、たぶん犬だと思うよ。大柄だけど縄文柴にそっくりだし……」
「ヤバいかもしれんな」
「んだねー」
わたしは腰を据え、開いた折り畳み軍用シャベルを下段に構える。
過去、幾たびも起きた戦争での塹壕戦では、実に二割の死傷はこの土木器具を用いてのものだと聞く。叩いて良し、斬って良し、突いて良しである。
「えっ、えっ? どうして……?」
「今一度、今度は別な質問だ。犬どもの周囲、または近辺に人の気配は、あるか?」
見えているのは美琴だけだ。
わたしたちは彼女からもたらされる情報のみが頼りだった。
「う、うーん……ない、と思うけど……」
「タマキよ、これをどう見る?」
「犬ならヤバイ。めっちゃヤバい。ただ、五頭連れというのも気になる」
なぜここまで警戒するか。ここはある男性の経験談を引用しようと思う。
その人は、奈良の山深い南部方面の、とあるダムを管理する仕事についていた。
勤務時間は夕方四時三十分から、夜間を通して、仮眠を加えた朝九時まで。
大元は国土交通省の管轄とはいえ彼は国から委託された小さな管理会社の出向という形をとっていたため、人材不足もあるのだろう、たった一人でダムだけでなく建物周辺の広大な施設管理も任されていた。
典型的なブラック企業のやり方のように見えて、さにあらず。
ダムは基本的に山奥の人里の離れた地域にある。当然の交通の便の悪ささえ目を瞑れば、夕方からの業務は電話もなければ訪問者もあまりやってこない。
静かで快適でおまけに自由で一日の流れはルーチンワークで済ませられ、合間の時間はスマートフォンでずっとゲームをしたり電子図書を読みふけったり、某巨大通販会社の動画配信を見たりと単独ゆえの気楽で優雅な職場なのだった。
人と人とのコミュニケーションこそ、仕事をする上でのストレスである。
ただ、そんな彼でも業務上で身も凍る恐ろしい思いを何度もしているという。
「何が怖いって、そんな辺鄙な場所にいるものだから、夜は確実に数キロ四方の人口密度が自分一人になる。わからない? 誰もいないんだよ。誰も。人間、俺一人」
先ほど書いた、人と人とのコミュニケーションこそストレスの原因なのではないのかとツッコミを入れたくなるかもしれないが、これにはまだ続きがある。
「だから夜中になるとたまーに変なのが来るんだ。限りなくアッチ系の自由業の人とかが違法投棄していったり。この間も冷蔵庫をダム湖に放り込んでいたよ。人数人がまるっと入るサイズのものを。俺、怖くてね。なのでそっと巨人の星の姉貴みたいに彼らを監視していた。注意なんて絶対しない。そこまでやるほど給料を貰ってない」
さらに彼は続けた。
「何が言いたいかというと、夜中、ダムに用事が出来て、やむなくやってくる関係者以外はロクなのがいないってこと。悪意を滾らせた知性、人間こそ怖い。これに併せて犬や猫と出くわすのも怖い。なぜって、あれらは人間の近くで暮らす生き物だからだよ。たった一人のダム施設で、犬や猫と出くわす。……恐ろしすぎる」
その後の彼は、ガタガタ震えながら彼が遭遇した怪異と表現すべき出来事が綴られたが省略する。炎に燃える三つ目の漆黒の顔の男の話など、絶対にしたくない。
「ミコト、あのね、犬や猫の後ろには、高確率で人間が控えているんだよ」
「あれら畜生どもは人の近くに棲む生き物だ。わかるな?」
「一番怖いのは知性を持った存在。何よりわたしたちは、この世界の異物なの」
「う、うん……。タマちゃん、咲子お姉ちゃん。凄く、わかったよ……っ」
事態をようやく呑み込んだ美琴は一気に青ざめてわたしに抱きついた。
本当に怖いらしく小刻みに身体を震わせていた。ぽんぽんと肩を叩いてやる。
彼女の形の良い胸元が、ブラジャーなしのカッターシャツ越しに、わたしの薄っぺらい胸を、ぎゅっと圧迫する。この子の胸も、揉むと気持ちいいのよね……。
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