第71話 歩実、決意する

 大事な話があるんだ、と告げたら、とうやまさんは首を傾げて、どうしたの? と言った。自分を気遣っていることが容易に知れる声音で。

 こないだ、とうやまさんって何歳? ってあのアンドロイドのアイさん聞いたら、個人情報ですから、とやんわり拒絶された。だから、おばあちゃん、今何歳? と、聞いてみた。え、と言葉に詰まり、それから中空を見つめて指折り数え、

「そうそう、ゆみちゃんが生まれたとき、私が69歳で。だから、85歳かしらね? それが、どうかしたの?」

 いつの間にか、すっかりおばあちゃんになっちゃったわ、そう言って笑った。

 けど、本物のゆみちゃんは、あの人、つかささんだ。多分、今、20代半ば? だとしたら、とうやまさんは、本当はもう90歳半ばのはず。

「ううん、別に。あ、あのね、今度ね、留学することになって、だからここにはもう当分来られなくて…」

 言いながら、今日ここを離れたらもう二度と会えなくなるかも、と思い至る。ぞっとして、気持ちが乱れた。気が付いたら、泣いていた。

「留学するのね? 遠いところに?」

「うん、そう。外国なんだ。ちょっと遠いから、簡単に行き来はできない」

「そう。楽しみね?」

「…うん。ずっと、ずっと行きたかった。でも、もう―」

 急に感情が高ぶってきて抑え切れず、いやだ行きたくない、ここにいたい! そう言いながら、とうやまさんの膝にすがるようにして突っ伏し、泣いた。まるで子どもだ、バカみたい、と思いながら。だけど、止められなかった。

 だって、あの国に留学したかったのは、ずっと昔、本当はあの国に養子に出されるはずだったと聞いたからだったんだ。その時からずっと考えていた。もしも、養子に出されていたら、どんな人生になっていただろう? 誰かと比べられたりせず、僕を、僕だけを愛し慈しんでくれる人々に、出会えただろうか、と。そんなもう1人の自分を、探しに行けないかと思って、留学を希望した。

 それなのに、あんなに欲しかった居場所が、ここにこうして見つかったというのに、離れなくちゃいけないなんて―!


        ***


 行きたくない、ここにいたい、そう言いながら小さな子どものように泣く“孫娘”をどう思ったのか―。歩実がそうしている間中、自分の膝に伏し体を震わせる彼の頭を、“おばあちゃん”は軽くぽんぽんと叩き続けた。


「ここにいたい、おばあちゃん、ねえ、ここにいさせて。いいでしょ?」

「だめよ」

「え?」

 くぐもった涙声での訴えを一言のもと却下され、歩実は、がばりと身を起こした。その顔をまっすぐに見つめながら、老婦人が再度繰り返す。

「だめよ。いきなさい」

 それは、どこかぼんやりとした笑顔の、普段の彼女ではなかった。過去ではなく、現在と向き合っている人の顔。

「いい? 人にはね、旅立つべきときというものがあるの。あなたはきっと、今が、そのときなんだわ。だいじょうぶ、どこにいても、私はずっとあなたを想っていますよ。どこにいてもね」

 歩実の両手を自分の両手で包み込みそう繰り返し、ふと、再び表情を緩めて、いつもの、すこしぼんやりとした彼女へと戻って行った。

「あ…」

 歩実が、絶句する。自分にまっすぐに向けられた『あなたを』という言葉は、どうやら彼に届いたようだ。深呼吸して立ち上がり、笑顔を見せた。


「…わかった。行くよ。こっちに戻るときは絶対に遊びに来る。だから、元気でね」

 どうか、お願い―。

「わかったわ。約束ね」

「うん、約束」

 きっと、きっとね。

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