第67話

「とうやまさん、左手を握ってきては、あの傷は治ったの? と何度も言ってた」

「傷? って、なんのこと?」

「もしや、つかさんの左手首にある、あの稲妻のような形の、古い傷ですか?」

 依里子の問いにつかが答えるより早く、アイがそう言った。

「そう、多分ね。何のこと? て聞いたら、ほら、お兄ちゃんが殺された時にあなたも手に怪我をしたでしょう、って言ってた」

「あ!」

 以前、アイと話をした内容が瞬時に蘇り、依里子が声を上げた。

 20年前の時間の中で生きるとうやまさん、来年三回忌のお兄ちゃん、その妹の、ゆみちゃん。でも、つかさんの名札にある名前は、さゆみ。ゆみじゃないわよね。

 そう思いながら窺うように見ると、人形を凝視しながら、つかが口を開いた。

「いいえ、それは、あなたのものよ。孫と混同してはいたけれど、他の誰でもない、あなたのことを心に留めながら、あなたのために心を込めて作っていたんだもの」

「だから! それは孫のゆみちゃんだと思っていたからで―! いいから受け取ってよ! ずっと邪魔だったし!」

「…それなら、どうして持っていたの?」

「え?」

「邪魔なら、捨てればいい。なぜ、そうしないの?」

「それは…」

 言葉を探し口ごもる“ゆみちゃん”改めまゆみを見ながら、依里子は、その気持ちが少しだけわかる気がしていた。

 そうだ、自分も、邪魔と言いながら、とうやまさんからもらったあの人形をずっと持ち続けていた。引っ越しの時も荷物の一番上に入れていった。あれは、他でもない自分を想って、作ってくれたもの。そうしたものがずっともらえずにいた私にとっては、何ものにも代えがたい価値があった。多分、彼女も同じなんだろう。


「自分でも、よくわからない。けど、見ると心が落ち着いた。自分が、自分として、ここに存在していると、言われている気がして」

 そうか。そうだったんだ―。口にして、まゆみは得心した。家族の心の奥底の本音では不要な“おまけ”。そんな自分ではない、一個の人間として存在している、自分。自分のことを想って作られた人形を、自身の存在の証と捉えていたのかも。優しい瞳が脳裏に蘇る。でも、もう会えない。偽者の孫は、ここに入る資格がない。息を1つ吐いて、言う。

「だけど、そう、潮時、かな。どうせ、夏休みが終わったら海外留学する予定だし、そうなったらここへはもう来れないし」

「…とうやまさん、寂しくなるわね」

 へらへら笑いながら言うあゆみに、つかが静かに言う。

「…すぐ忘れるでしょ? どうせぼけちゃっているんだもの」

「! そんな言い方…!」

 思わず声を荒らげる依里子を、アイが静かに制し、口を開いた。

「とうやまさん、あなたがいつ来るかと、いつも楽しみにされていますよ。いつもの時間にいらっしゃらないときは、どうしたのかしら、と心配されています。

 おっしゃる通り、いずれ忘れられる可能性はありますが、それまでにどれだけ時間がかかるかは、わかりません」

 アイの言葉に、あゆみがきゅっと口を引き結び、視線を逸らした。沈黙が落ちる。アイが、再び口を開いた。

「もう来られなくなるのなら、しかたがありません。でもその前に、とうやまさんに理由を説明して、お別れのあいさつをしていただけると嬉しいです」

「…会いに行ってもいいの?」

 赤の他人は入れないのでは? あゆみの言葉に、つかが、確認が取れれば問題ありません、と言った。

「ぜひ、来ていただきたいです。あなたの存在は、とうやまさんはじめ入居者の方にとてもよい影響を及ぼしています」

「そうよ、本当に。あなたが来てから、皆さん明るくなった。すごい効果よ!」

ここぞとばかりに皆で背を押す。と、まゆみは泣き笑いな顔で頷いた。

「わかった。あ、ありが…」

「ただし、条件があります」

 そんな感動的なシーンに割って入るアイの冷静な声。どうして、この人(じゃないけど)は、こう…。

「な、なに?」

 緊張した面持ちで言うまゆみを見ながら小首をかしげ、アイは言った。

「ええ、これまでどおり、女性として振舞ってくださいね」

「え? ああ、それはもちろん」

 あからさまにほっとした顔のまゆみを尻目に、

「「えええ?? お、男?」」

 依里子とつかの、裏返った声が上がった。

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