1-4

「プラン」が始まってから1ヶ月が経った。


「はあ……はあ……もう……むり……」


 ジョギングを終え、玄関の扉を開けて、そのままフローリングの上に倒れ込んだ。ひんやりとした板が、頬に張りつく。

 酸素が足りなくて、頭がうまく働いていなかった。それでいて、体は悲鳴を上げ続けていた。足も腰も腕も背中も首も、存在する全ての筋肉が痛かった。


 ビー! ビー! ビー!


 床に身を委ねている私に、スマホは無慈悲に警告を告げる。早く夕食を作れと催促してくる。このままだとマッチングは取り消すぞと脅迫してくる。それでも、体はピクリとも動かない。

 1ヶ月間、仕事がある日も休みの日も、毎日毎日休まず「プラン」を遂行していた。今日だって、残業でヘトヘトになったのに、10km走った。そうやって溜まり続けた疲労が、全身を鉛のようにしていた。このままだと全てが水の泡だ。頭ではわかっているのに、体は動いてくれない。やっぱり、私みたいなブスにマッチングなんて無理だったんだ。涙が、出てきた。


 鳴り続けていたブザーが止んだ。

 それは、せっかくのチャンスを失ったということだ。


「終わった……」


 私はフローリングに顔を押しつけて泣いた。


 スマホから、星屑を転がしたような音が鳴る。今まで聞いたことが無い音だった。画面を見る。


『広川 蓮司さんからメッセージが届いています』


 私はフローリングから跳ね上がった。急いでアプリを起動する。


『絵美莉さんへ』


 確かに、広川さんからメッセージが届いていた。しかも、下の名前で呼んでくれてる! 心臓の音が、うるさいくらいに鳴っていた。


『プラン頑張ってますか? 僕は(プランの内容は言えないんですが)、毎日ヘトヘトになりながら、なんとかこなしています(笑)

 結構キツい内容なんで何度も諦めかけたんですが、絵美莉さんに会うということをモチベーションにして、ノルマをクリアしてます。

 絵美莉さんのプランがどんなものか、僕が知ることは出来ないんですが、頑張ってください。会える日を楽しみにしてます! 広川蓮司』


 顔がぽーっと熱くなっていた。広川さんも私に会うために、「プラン」を頑張ってくれてる。全身に、力がみなぎってきた。私は立ち上がる。


「よーし! もうひとっ走り行くぞー!」


 玄関から飛び出ようとする私を、アプリのブザーが制した。そうだ、夕食を作らなきゃいけないんだった。

 夕食のメニューは、塩茹でした鶏胸肉とブロッコリー。それと、小さいパンひとつだ。「プラン」は食事内容まで管理してくる。正直味気ないし食べた気がしないけど、食費は政府持ちなのでそれはありがたかった。

 鍋に張った水が、ことことと揺れていた。これが煮える前に広川さんに返信をしよう。


『あへ』


そのとき、私の手からスマホが滑り落ちた。床にぶつかる寸前で、なんとか受け止めることが出来た。


『送信しました』


「え!?」


 熱い汗が、顔中から吹き出た。なんてことだ。「ありがとうございます」と打とうとしたのに全然違う内容で送信してしまっていた。慌てて取消ボタンを探す。間に合え。私はタップする。


『送信が完了しました』


 アプリは告げる。ため息が出た。

 間違ってしまったのはしょうがないので、今すぐ再送信しよう。そう思ったが、入力欄が見当たらない。

 私は画面の隅にあった注意書きを見て、凍りついた。


『このプランでは、1回だけメールを送信することが出来ます』


 私はスマホの画面を見つめたまま硬直していた。

 コンロの上。塩水を入れた鍋がぐつぐつと音を立てていた。

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