第18話 墜落飛行機④

 コックピット前方の窓に2つの席が面している。それが機長と副機長が座る席だということは、主なき今もそのしっかりとした作りから十分に伝わってくる。専門知識がなければ手捌きできないだろうと言う程にびっしりと並んだボタンやモニター、堂々と座席前に立つレバーも、ここに座るべき者を見定めているみたいだった。


 だが今となっては、ただの頑丈な座席に過ぎない。ミナギは左側の席にどかっと腰を下ろし、背もたれに体を預けてくつろいだ。座る部分が凹のような変わった形状をしている以外は、これなら長時間のフライトに耐えられるだろうと思える座り心地だった。


 座席の後ろには段ボール箱や使っていない家電製品が積まれていた。中身を見てみると、ティッシュや洗剤、ペットボトル入りの水、毛布、電池、はたまた裁縫道具といった日用品が詰められている。来る途中で見た居住スペースといい、この飛行機は本当に彼らの暮らしに使われているんだなと実感した。


 これで手錠さえかけられてなければよかったのに、とミナギは思った。


 前方の窓からは、外の景色が見えた。左手方向には自分が歩いてきた湿地が、右手方向には何もかも吸い込んでしまいそうな真っ暗な森林が、それぞれ広がっている。


「まさかこんな場所に入れるなんて、びっくり」


「捕まったってのにまるで危機感ないな」


 ヴァーユは手錠にかけられた腕を見せつけるように揺らす。ミナギは彼の細い手首なら抜けられるんじゃないかと思ったが、どうも後一歩のところで抜けないらしい。


「起きちゃったことにくよくよしても仕方ないでしょ。それよりも、ほら、こんな所に自由気ままに座れるなんて、これからの人生ないかもしれないよ」


 ミナギは椅子の上で体育座りになって、体をゆらゆらと揺らす。しばらく入り口で突っ立っていたヴァーユも、渋々といった体で空いている右の席に座った。


 しばらく沈黙が続く。ヴァーユは何も語らないが、目の前のボタンを押してみたり、レバーを触ったりして過ごしている。


 それを視野の端で捉えるうち、先ほどまでの渋々はやはり芝居で、今やどのボタンかどの操作を示すのかについて、専ら頭を使っているようにしか見えなくなった。


「なんだかこうしてると、パイロットになりたかったこと思い出すなぁ」


 ミナギの独り言とも会話の合図とも取れぬ一言が、コックピットに響く。ヴァーユは操作盤を弄る手を止めることなく、言葉のボールを返した。


「でも、なれなかったか、ならなかったんだろ」


「結果的にはね。私は何度も夢が変わっちゃう子供だったから。けど、ならなった先の今のことは全然後悔してないな」


「わかんないな、そういうの。夢って、叶うまで追うものなんじゃないの」


「もちろんそういう人もいるし、私みたいにそうじゃない人もいる。ま、少年の10年ちょっとの人生じゃ、まだまだわからないのも当然よ。大人になったらわかる時が来るよ」


 ヴァーユはミナギに背中を向け、また違った方に配置された装置を弄り始めた。少年には少し難しい話をしてしまったかもしれない、とミナギは思った。


「でさ、かつての少女の夢はパイロットとして、少年は何になりたいんだい」


 質問を投げかけられて、ヴァーユの手が止まる。


「……今は、まだ、ない」


 ミナギはこれまでの彼の姿と照らし合わせて、その答えに驚いた。


「それは意外。勉強熱心だから、てっきり研究者とか、博士とか、学者とかを目指してるんだと思ってた」


「それ、どれも同じ意味だろ。別に、何かになりたくて勉強してるわけじゃない」


「そっか」


 言われてみると、小学校に通っていた頃に、何かを見据えて勉強している人の方が珍しいと思い直した。その最たる例が、暇な時間は本能の赴くがまま外で遊び、周囲の大人に将来のためだと諭され、時に叱られるがまま勉強していたミナギ自身だったのだから、尚のことだ。


 ドンドン、と操縦室の扉を叩く音がした。ひどく乱暴な音だ。


 それから隙間なく「おい! お前ら、ここに閉じ込められたんだろ!」という喧しい声がした。どこからどう聞いてもさっきのオオカミのものだ。


「お生憎、誰もいません」とミナギは扉の向こうに答えた。


「よし、いるな。金髪のガキンチョ、俺と取引しねえか。お前が持ってる変な色の棒っきれと引き換えにここから出してやる」


 威勢のいい口ぶりから何が飛び出すかと思えば、それはミナギ達にとっても悪いばかりの話ではなかった。


「ヤダ」


 当然ながら、ヴァーユはシンプルな否定の二文字でそれを突っぱねた。


 そのまま一方的に持ちかけられた取引が膠着していると、扉の向こうから別の騒ぎ声が聞こえてきた。「こっちにいたぞ!」という住人達の怒号だった。


「やっべ! まあそう悪い話じゃないと思うぜ。また来てやるから、良い返事用意して待っとけ」


 オオカミの足音が素早い律動を刻み、遠ざかっていく。住人達の叫び声も近づいたと思えば、オオカミを追うようにして、同様に音が小さくなっていった。


「なんなんだろね、あのオオカミ」


「あれは、きっとフクロオオカミだ。背中に縞模様があって、黄色に近い褐色のオオカミ」


「ほう、よくそんなこと知ってるね」


「でも」と、すかさずミナギの言葉を制するようにヴァーユは続けた。


「あの種はもうとっくに絶滅しているはずだ。あのオコジョの言ってた秘境の森ってのは、本当だったのか。それともーー」


 ヴァーユは、「考える人」のポーズを取りながら、再び難しい事を考え出す。フクロオオカミとやらの知識については、全く持たないミナギには、彼の思考を遮る手段を持ち得ない。


 再び沈黙が流れた。


「……ミナギさ」


「ん?」


 今度、沈黙を破ったのはヴァーユだった。


「カフェにいた時、誰かに尾行されてたって言っただろ」


「うん」


「それ、あのオオカミだったんだ。だから、あの店にいた男は、たぶん、無関係というか、まだわかんないけど……とにかく尾行してたのは、あいつじゃなかったんだ」


 ミナギは無意識のうちに傾げそうになった首を止めた。言葉をなんとか紡ごうとしている彼に茶々を入れるようなことがあってはならない。


「あの時に、断らせるようなことになって」ヴァーユは、ゆっくりと呼吸を整えてから言葉を結んだ。


「ごめん」


 そんなことを考えていたのか、とミナギはこれまた虚をつかれた気分になった。彼から謝罪されるような迷惑を被っているとは全く考えもしていなかった。あの夜、メドウの頼みとヴァーユの拒絶との板挟みになった時こそ瞬間的にそれは感じていたのかもしれないが、彼が別の案内人のもとへ連れられるのを見送ってから、すっかりその節の事は切り替えていた。


 なので、ミナギには、目の前にいる目を伏せた少年は、何だか必要以上の罪悪に囚われているように映った。子供なりに誰かを自分の我が儘に付き合わせたことを考えられるなら、それでいいとも思った。


 前方の窓から差し込んでくるはずの月光は、ちょうど雲というフィルターに遮られていたせいで、ここへは到達してこない。電灯のない操縦室は、辛うじて手元が見える程度の明かりしか残されていなかった。


 少し考えてから、ミナギは口を開いた。


「なんだ、そんなこと気にしてたの。でもまぁ、確かにちょっとショックだったかも」


 月を覆っていた雲が途切れたのか、外部からの光によって室内が徐々に明るくなってくる。


 ミナギは戯けた調子になるよう、声を弾ませてみせる。


「あの人、なかなか格好良かったからねー」


「やっぱ謝って損した」


 雲を脱ぎ捨てた月は、地上に満遍なく光を投げる。前方からスポットライトが当てられたように、操縦室の窓際は明るくなった。


「さっきも言ったけど、起こったことをくよくよしてもしょうがないって思ってるから」


 それからミナギはさっき気になったことを再び聞き直した。


「にしても、フクロオオカミだっけ?よくもまぁ、わかったもんだ。関心関心」


「読んでた本に出てきたから」


「本を読むのは良いことだ。私が君ぐらいの時は、小説の挿絵だけチェックして読んだ気になってたりしたな」


「それ読んだことにならないだろ」


「自らを温室に置いて無理せず伸ばすタイプだったのだよ、私は。その後はきちんと読むようになったからいいじゃない。なんで本を読み始めたりしたの?」


 ヴァーユはやはり側面にあるスイッチに手を伸ばして、確かめるような仕草をしている。こちらに顔を向けずに、背中で応えた。


「家の書斎にいっぱい本が置いてあるんだ。父さんの書斎。一日中ずっと部屋に籠もって、辞書とか図鑑とかを片っ端まで読んでた」


 聞きながらミナギは自分が苦笑いしていることに気づいた。


「何だか、強烈なエピソードだね。さらっと言ってのけることじゃないよ」


「そうかな」


「そうだよ。完全に偉人の伝記でいう幼少期の章に載ってる話だった」


 今も尚こちらに振り返らずに機内設備を触っているヴァーユの腕を、ミナギはまじまじと眺めた。


「なるほど、だからそんなに細くて白いわけか、これも納得。勉強熱心なのはご立派だけど、外に出て遊ぶのも子供の仕事だよ」


 ヴァーユの腕が唐突に止まった。一瞬脳や神経に関する何か良くない硬直が起こったのではないかと思うぐらいだった。けれども、再び何事もなかったように動き出した。


「……それで、俺のためにってあのキャンピングカーを父さんが買ってくれたんだ」


「それも、さらっと言ってのけることじゃないよ。お金持ちってだけじゃなく、息子想いのお父さん持ったんだね」


 手錠をかけられ、閉じ込められている状況下にあるのに、ミナギの腹の底から熱い塊が胸までこみ上げてくるような感覚があった。


「待ってるお父さんのためにも、早く帰らなきゃだね」


 ミナギはその言葉を自分にもあてはめて言い聞かせてみる。左手の薬指にはめられた指輪に、ちょうど月光が落ちて小さく輝いていた。


 しかし、この飛行機に向かってくるきっかけを思い出して、心臓が引き締められる。


 ーーでも、私たちはもう


「ミナギ様、ヴァーユ様」


 予想外の方向、座席の後ろから囁き声が聞こえてきた。振り返ると、操縦室のドアの下に出来た、配線を通すための隙間を小さな影が潜り抜けてきていた。500mlのペットボトル程度の太さの彼なら、確かにそこを潜り抜けることが容易いはずだ。


 その影が光を受けて姿を露わにする。他の誰でもないシエルだった。


「助けに参りました」

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