第6話 つとめて失踪

「おやすみ」


 と声を掛けてみても案の定、上からの返事はない。


 一方、ベッドの近くに置いてある籠からは、「おやすみなさいませ」と落ち着いた声が返ってくる。


 籠といっても中には上物のクッションが敷かれており、小動物にとってはベッド同然の代物である。当然、そこに横たわっているのは、かのシエルだ。


「そんな即席ベッドでいいの? スペースに多少余裕あるよ」


 ミナギは彼がベッドを作っているのを見て何気なくそう提案してみる。しかし間髪入れずにシエルは声を震わせる。


「ワ、ワ、ワ、ワタクシ……流石に! で、で、出会ったばかりの婦女の寝る間に、軽はずみに居合わせるなど!そのような不埒者ではありません!」


 しどろもどろした口調ながら彼女の提案をはっきりと拒否した。


 彼の反応を受けた後、ミナギは呆気に取られながら自分の発言を反芻してみた。そこでやっとマズいことを言ったかもしれないと気づいた。


 彼は見た目こそ犬や猫と変わらぬ愛嬌を持ち、十二分に愛玩動物の条件を満たしている。が、意思疎通が可能である点においては、ヒトに等しい存在なのだ。声も、人間なら成人していると思うくらいには成熟している。そう考えれば、シエルはオスというよりも男性であり、出会って日も浅い男性に対する言葉としては、先の文句は無神経に違いなかった。


 動揺する彼にその反省を伝えると、シエルはすぐに納得してくれた。


「こちらこそ取り乱して申し訳ございませんでした…。とはいえ、『ここ』ではあまり性別は関係ないのですけどね」


 例の如く彼の言葉に若干引っかかるものを覚えつつ、ミナギはベッドに横たわり「おやすみ」と告げたのであった。


 シエルからのおやすみ返事を最後に、車内を静寂が支配した。しんとした時間とまどろんでゆく意識の中で、ミナギは上の寝台を見つめた。


 ーーまったくもう、ナマイキなガキンチョだな。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「ちっちゃかった頃は、ミナちゃんを寝かしつけるのに苦労したもんよ」


 と、彼女は言う。


「ハヤちゃんは電気消したらすぐに眠ってくれるのに、ミナちゃんはずーっと起きてるのよ。起きてても静かにしてくれる子だったから、それはよかったけどね」


 もう何回も聞いたことのある話だった。そうなんだ、と私は平淡な返事をする。


「そうそう、覚えているかしら。ハヤちゃんを産むためにママが入院してた時、あたしの家で泊まってた時のこと」


 さも新しい話題を思いついたように口にする。けれども、これだって何回も聞いた。彼女はその自覚もないかのように、微笑みながら話を続けた。


「夜遅くにふと立ち上がって『ママ、ママ』ってリビングの方に歩いていったの。まだ2歳くらいだったのに、お母さんがいないのをわかってたのね、きっと」


 当然、このオチだって知っている。聞き手が特に心動かされているわけでもないのに、彼女は毎度嬉しそうに喋っている。ミナギは釈然としない面持ちで聞き流す。


 落語家やコメディアンだったらネタのレパートリーの貧困さを突っ込まれる事だろう。おまけに、観客にウケているかどうかもあまり考えていないとあって、その道で食べていくのは随分と厳しいに違いない。


 ミナギは頭ではそんな想像をして、口では「へぇ」とか「ふうん」と言った色気のない感嘆詞を次々と生成していった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 寝覚はよく、頭はすっきりしていた。空模様も呼応するかのような晴天だ。なかなか好い出発日和に思えた。


 先に起きていたシエルは「おはようございます」と丁寧な挨拶をしてくれた。


「おはよ。シエルは朝型なのか」


「ええ、生活時間には毎日気を遣うようにしております。有事の際はそうはいきませんが。ミナギ様は夜型なのでしょうか」


「いんや。朝型と夜型を兼ねた万能型と言えるかもね、私は。朝は1秒でも長く、そして夜も1秒でも早く寝たい」


「それは……なかなか苦労の多そうな体質ですね」


「まー、やらなきゃいけない事があると、不思議と脳も体も活性化する体質でもあるけどね。普段は仕事も忙しいし、今はこうして遭難中なわけでしょ。眠いなんてなかなか言ってらんないさ」


「遭難の件はご安心ください。本日より、ワタクシ、責任を持ってミナギ様とヴァーユ様を出口までお連れいたしますゆえ」


「頼りにしてるね。本日よりよろしくお願いいたします」


 ミナギは白黒の毛並みを持つ小さき案内人に頭を下げ、手を合わせた。


 それから朝食の準備を始めた。バックパックに入っていたドライカレーの素とアルファ米、コッヘル、アルコールコンロを取り出して説明を読んだ。


 ヴァーユはまだ寝ているようだった。起きてすぐに声を掛けてみたが、返事はおろか起きている気配もなかった。


 沸騰したお湯をアルファ米に注ぎ、食べられるようになるまで待つ。その間に、カレーの袋を熱湯で温める。ミナギは、その食品のあまりに親切な設計に感心した。普段とはまるで異なる環境でも、火と水とちょっとの料理器具があるだけでそれらしい料理ができる。生まれてこの方都会暮らしの彼女にはちょっとした驚きだった。


 後は盛り付けて食べるだけというところで、再びヴァーユを起こしに車の中に入った。


「朝食ができたよ、少年」


 まだノンレム睡眠の最中かもしれない少年に少し声を張り上げる。しかし、室内に反響した自分の声は何ら状況に変化をもたらさない。シーツのずれや寝息といった微細な音すら一切聞こえてこなかった。


 ミナギは沸き上がった違和感に背中を押されるようにして、上の寝台のカーテンを開けた。


 そこに寝ていたはずの少年の姿はなかった。シーツにできた皺が、そこに誰かが寝ていたことを示すのみだった。

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