第5話 蝶々の指揮者
「あちゃー……こりゃ散らかり放題だね」
シエルがミナギ達を外へ案内してくれると言った時には、もうすっかり日が暮れていた。ミナギもシエルも活動量はまだまだ限界に達してはいないものの、視界の悪い森の中、少年を引き連れて行き急ぐほどの理由はなかった。
そういう訳で、今、ミナギ達は寝床の第一候補とも言えるキャンピングカーを視察しにきていたのであった。
車体は元々あった山の頂上から豪快に滑り落ちはしたが、奇跡的に元の向きを維持したまま着地していた。今思い返せば、落下時に立てていた音も、車が致命傷を負うほどのそれではなかった。タイヤから先に接地し滑り込むようにして下山したことで、被害を最小限に抑えることができたようだった。
しかしそれでも激しい揺れと衝撃に見舞われたために、車内は混沌としていた。キッチン設備の棚やトイレの扉は開き、ソファやテーブルの上にあった照明のリモコンや雑誌といった小道具は床に散乱している。
ミナギはかつて経験した地震を思い出していた。学生時代、机の上に積み上げていた参考書や本が無慈悲にも全て崩れ落ち、日頃片付けをしなかったツケがここで回ってきたか、と後悔した記憶がある。
もっとも、今この状況を引き起こしたのは、自然災害の類ではない。何者かによる車の山の杜撰な積み上げ方が原因のひとつに違いなかった。
そしてもしかすると、いや、もしかしなくとも、ミナギが登ったことでその崩壊のタイミングが早められたことも否定できないのであった。
「ごめんなさい。まさかこうなるなんて予想つかなくて」
この子が車の所有者って訳でもないのだろうけど、と思いつつも、ミナギは視察の最中にタイミングを図ってヴァーユに謝罪した。
「なんであんたが謝るの」
ヴァーユは、床に落ちているスナック菓子やウェットテッシュの袋を拾いながら、こちらに顔も向けずに返した。その言葉は、まるで他人事に響いた。
「あんな場所に車が移動してた理由も、中に俺がいたってことも、知らなかったなら不可抗力だと思うけどね。それに不幸中の幸いにして怪我なく済んだんだし」
彼なりの私見が淡々と述べられてゆく。だが、それらはミナギの事を慮っているというより、彼女の謝意を躱そうとしているように聞こえる。「知らなかったなら」という言葉に強勢が置かれていて、そこはかとなくミナギへの警戒心が残っていることも感じせた。
そうは言っても、ミナギとしては申し訳なさを感じる。ただ、ヴァーユは不用意にこの件を引っ張る気もなさそうだ。そこで、彼女はひとまず感じた疑問を口にしてみる。
「車があそこにあった心当たりとかないの? あんな大きな車、運ばれている最中に気づきそうなものだけど」
「全然。覚えている限り車が移動した感じはなかった」
「ふーん……元々ヴァーユはどこにいたの?」
少し間を空けてヴァーユは答えた。
「……近場のキャンプ場。こんな山積みの車が置いてある森では確実になかった」
ミナギは自分と同じだと思った。彼も元は全く無関係の場所にいて、いつの間にかここへやってきていた。移動手段もわからず、ここにいる理由もわかっていない。
「うーむ。これは謎ですなぁ。シエル先生なら何かご存知?」
ミナギはシエルに視線を投げかけてみる。
「そうでしょう。神隠しというのは人智を超えていて、ワタクシにも実態は掴めません。まさしく『神のみぞ知る』現象なのです」
この黒き燕尾服の模様を持つ森の案内人も、お手上げといったポーズを取る。それから、その真っ白な毛並みの顔を頷かせ、見えもしない「神」なる存在に対する畏敬の表情をありありと浮かべた。
この超常現象のメカニズムは彼にもわかっていないのか。ミナギは持て余した好奇心の捌け口を見つけられず、焦ったい思いに駆られていた。が、そんな時はいつもの如く次なる行動に出るのが、彼女の習性だった。
「頭使っても仕方ない、か。ま、今日はもう寝よう」
誰に対するでもなく、欠伸を交えてミナギはそうつぶやいた。
遮光カーテンを端に寄せた窓から、月の光が漏れてきている。空は桔梗色に染まり、ミルク色の細かな粒がぽつぽつと散りばめられていた。夜の森は確かに真っ暗闇ではあるが、その分、雄大な空の光は地上の光に邪魔されることなく地上に降り注いでくる。
田舎暮らしをしたことのないミナギにとっては、自然の中、キャンピングカーに居る今の状況がちょっとした冒険のようにも感じられた。
一点、異常を認めるとするなら、光と共に窓からチラつく蝶のシルエットだ。焚き火の側を離れると、再度蝶達は目標に引かれてきた。
その目標というのが、目の前で後片付けをして、小さな後ろ姿をこちらに向けているヴァーユらしいのであった。
彼が車の奥へと進んでいくと、蝶達も同じ方へとスライドしていく。ヴァーユがゴミ箱に捨てようとミナギのいる入り口付近にくると、やはり蝶達もひらひらとこちらに寄ってくるのであった。
月の光を受けた蝶の羽は、ただでさえ美しい青の煌めきをより一層際立たせる。その上、各々がその羽を異なるタイミングで発光させており、窓ガラスを隔ててちょっとしたイルミネーションショーを催しているようでもあった。
「じゃま」
しばらくその光景に見惚れていたせいで、ミナギは自身がヴァーユの進路を塞いでいたことに気づいた。反射的に体を避けると、そのすれ違い様、ミナギの目はヴァーユのシャツの胸ポケットに向かった。
そこには1本のペンが差してあった。ポケットから透き通った紺碧色の筒が顔を出していて、くるくると渦を巻いたような彫刻が表面に施されていた。
オフィスで仕事をしていると、胸ポケットのペンなんて珍しくもないが、たいていは飾り気のないデザインで面白味もなく、持ち主も会社から支給されたものをとりあえずそこに収めたと言った姿勢でみんな使っている。使う者、見る者双方にとって記憶に留める価値もない、些末な消耗品でしかないのだ。
けれども、この少年の胸にあるペンは、なんだか大切に仕舞われているみたいに見えた。月光を浴びてぴかぴかと輝くと、紺碧は忽ち空に化け、材質が透き通るガラスでできていることを主張した。
ふと、ミナギの視線に気づいたのか、ヴァーユは窓の前で立ち止まり、ペンを手に持った。白いシャツにスラックスというフォーマルな出で立ちの彼が細い棒を手にすると、指揮者に似ているとミナギは思う。
その指揮者はペンを右に振った。すると、蝶達はさっき以上に強く発光し、それを追った。羽の動きは俊敏になり、どうやら興奮しているみたいだった。
「さっき気づいた。こいつら、俺のペンに引かれて集まってる」
そして、ヴァーユは微かに得意げな表情を見せた。一瞬のことだったが、出会ってから一貫して低い調子を保っていた彼が見せた年相応の表情は、ミナギの心に軽い衝動をもたらすのに十分だった。
「きれい」
気づけばそんな言葉が口から零れていた。
それがヴァーユにどう受け取られたのかはわからない。彼は窓に張りつく蝶を見つめ直し、話題を変えてしまったからだ。
「もう寝るんでしょ。上の寝台は俺のだから、あんたは下ね。あと、勝手に覗いたりしたら追い出すから」
「『勝手に覗いたら』っていうセリフ、どっちかっていうと私の方が似合っていると思うんだけどな」
ミナギが返答を言い終える前に、ヴァーユは奥の寝台スペースに歩いて行った。
寝台は二段ベッドのような配置になっている。上の寝台へは梯子で登り下りでき、カーテンも備え付けられていた。子供の頃ならワクワクしたに違いないであろう、屋根裏部屋チックなスペースに多少興味はあったが、この車における決定権限は彼にある。
ミナギはやれやれと思いつつも、遭難1日目の夜をベッドという文明的な場所で過ごせることに、密かにありがたみを覚えるのであった。
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