第4話 少年と神隠し
「あんた、誰?」
その少年は鋭く切り出した。眉をひそめ、唇を硬く硬く結んでいる。突然の来訪者に対する警戒と疑心の色が表情にありありとにじみ出ている。
少年の髪は少し長い、麦の穂を思わせるブロンドだった。頭頂部から伸びた髪で耳は覆われていて、ほんのりと赤みを帯びた耳たぶがちらりと見える。白い肌は彼の遺伝子上の形質なのだろうが、あまり陽光に当たっていない暮らしをしてきたという履歴書めいた特徴のような気もする。色素のうすい顔色は1対の翠玉の瞳を引き立てており、網膜に焼き付くぐらい美しく映えていた。
その翠玉がこちらを睨んで、押し黙ったままでいる。背丈は150センチ前後といったところで。ミナギに比べると頭1つほど小さい。アイボリー色のシャツに黒いサスペンダーを身につけ、チェック柄のスラックスを履いている。足下の紺色のソックスと茶色い革靴に至るまで、服装はすべて上質な素材でできているのが距離を置いていてもわかる。見たところ年は11か12といったところだろうが、おいそれと手を出せないような雰囲気があった。
ミナギはしばらく人の姿を見ていなかったために、特に少年の姿を物珍しく眺めてしまっていたことに気づいた。軽い咳払いをしてから、ようやく言葉を発した。
「ごめんなさいね、まさか人がいたなんて思わなくて。えーっと、私はこの車を開けて欲しいって頼まれてここへ来たんだけど。キミはこの車の持ち主……なのかな?」
「答えになってないよ、それ」と、少年はトゲのある物言いで返してきた。「まずは名乗るのが筋ってものでしょ。それからここへ来た理由だけど、それも漠然としていて何がなんだか」
少年は声変わりもまだの幼ない声色で喋っているのに、子供らしい抑揚といったものが必要最低限しかない。そのせいか、まるで見ず知らずの大人と話すような緊張感が場に流れた。外から入ってきた蝶達はその間も空を泳ぎ、少年に懐いているかのような仕草を見せていた。
先ほどまでオコジョ相手に平然と会話していた一方で、同じ種族の人間相手にこうもツンケンな態度を取られるとは。
ーー人間失格。実はオコジョ社会向きだったりするのかな、私は。
しかし、こちらとてこの少年の不安や警戒はなるべく和らげたい。ミナギはすーっと息を吸い直してから続けた。
「これは失敬。私はミナギって言います。よろしくね。ここへきた理由……は、正直私も何がなんだかわかっていないんだけど、その蝶達が追いかけている物を私の旅の同行者が探していたの。それでここへ辿り着いて、何だかわからないナゾナゾを解いて、今に至る、と。私から話せる情報は以上」
ミナギが自己紹介をしている最中も変わらず注意深い眼差しを向け、一定の距離を保っていた少年だったが、「同行者」という単語に反応を示した。そしてミナギが「ナゾナゾ」と口にした途端に、喋る時以外は頑なに紡いでいた口許が綻んだ。
「同行者って誰? あのクイズを解いたのもその人? あんた、どういう関係?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問にミナギは手応えを感じた。しかし「同行者はオコジョです」などと正直に答えては、この少年の興味を殺ぎ、挙句に拒絶されてしまうのではないかという想像も脳裏を過ぎる。
一体、何を、どうやって、どこから話せばいいのだろう?
ミナギはしばらく悩んだ。再び両者の間に沈黙の時が流れる。
ミナギが最適な解答を見つけ出すよりも先に、少年が沈黙を破った。少年は少し苛立ちを隠せない様子で言った。
「考えるのはいいけどさ、ドアは閉めてくれない? さっきからずっと蝶が入ってきているんだけど」
ミナギは後ろを振り返った。青い蝶は、今も止まることなく目標目掛けて扉をくぐってきていた。その目標というのは、目の前にいる少年のようだ。蝶達は少年が立っているよりも奥の寝台があるスペースには行こうとせず、少年の周囲を漂っている。青白く発光するそれらは、まるで地球の周りを回る月を思い起こさせる。月と違うのはその数が今も増え続けているということだ。
「げ。ごめんごめん」
扉を閉めようと振り返って、慌てて踏み出した。
それと同時に、何かが決壊する音が足先から伝わってくるのをミナギは見逃さなかった。彼女の頭の中で、さっきの金属の軋む音を聞いた場面がフラッシュバックしていた。
刹那、咄嗟に、少年のいる方へと向き直り走った。
驚く少年の表情と叫び声を制しながら、彼を抱き上げ、外へと走り出す。
次の瞬間には、ミナギの耳から音は消え、目の前には眩しい夕焼け空が広がっていた。身体は傾いたキャンピングカーから脱出し、足場のバンを強く踏んだ。
鳴るはずだった鈍い音は、より激しい衝突音によってかき消された。先程まで乗っていたキャンピングカーが下山を始めている音のようだった。後ろを振り向いている余裕はないが、その音から推測される質量と運動量、そしてこの状況を鑑みれば、自明のことだ。
一度強く前のめりになったミナギの身体はもう後に戻ることが許されない。黒いバンを踏み台に飛んだ先は、下段の赤い軽自動車。両足で着地するも、万全の状態でなされたわけではないせいで、安定を取り戻すべく次なる着地点を身体は求める。更にその下にある青い自動車、更に更にその下にある緑の自動車、と踏み込んではミナギは跳躍した。
まるで奔放な表現を得意とするアニメーション映画の主人公にでもなったみたいだ。極少の時の切れ間に、そんな独り言が頭の中を駆け巡った。
山の下から見ていたシエルからすると、右に車が、左にミナギ達が、ほぼ同タイミングで山の頂上から滑り落ちていく画が展開されたはずだ。きっとこれが画面の中で起こる出来事で、自分は視聴者という立場だったのなら、滑稽なシーンだったに違いない。
それほどの大立ち回りを演じたアクションスターのミナギ。最後の踏み台の車から飛び降り、無事に着地することに成功した。最初から最後まで何の算段もない動きだったが、華麗にやり遂げた自分を褒めてやりたいと、ミナギは自身を労った。
シエルはそこからしばらく茫然自失といった様子で直立したまま硬直していた。息を切らしたミナギが視線を投げるとようやく我にかえり、四足歩行で走り寄ってきた。
少々無理やりな姿勢で抱き抱えられていたこの少年は、こんな危険に見舞われて流石に気が動転しただろうか。あるいは、咄嗟の機転をきかせて助けてくれた年上の女性に対し、恥じらいを見せながら感謝の言葉でも述べてくれるだろうか。
だが、少年の反応は、ミナギの脳内シミュレーションが編み出した予測を外れるものだった。
彼はゆっくりとミナギの体から離れると、近くの車の山を目に留め、呟いた。
「……ここ、どこ? 何、あれ」
「そうか、キミも迷子か」
少年の言葉は、ミナギが初めてこの森にやってきた時の感想と全く同じだ。自分がどこにいるのかも、なぜここにいるのかもわからない者が抱く、驚きを超越した驚き。人間、度がすぎるとかえって感情を表に出せないものだ。ミナギは改めて思った。
「お二人共、お怪我はありませんか?」
シエルが安否を気遣ってくれた。焦らせないように努めてくれているのか声は落ち着いているものの、そのつぶらな瞳は若干潤んでいるようにも見える。
山を見ていた少年は、ゆっくりと声の主のいる方へ顔を向けた。少年とオコジョの目と目が合った。オコジョは再度、
「初めまして。ワタクシ、シエルと申します。お体の方は大丈夫でしょうか?」
と、丁寧に挨拶と心配の言葉をかけた。
「うぇっ!?」
未知との遭遇を果たした少年の声は、黄昏時の森にこだました。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「さあ、私は名乗ったし、同行者の紹介もしてあげたでしょ? 今度はキミの番」
そう言ってミナギはジェスチャーで作り上げた架空のマイクを少年に向けた。
ミナギ、少年、シエルの2人と1匹は、焚き火を囲んで座っていた。あれから少しして、日は沈み、動植物も静まり返った。今はもう辺りは暗く、ひんやりとした風が吹いている。目の前の焚き火は、光と温度不足の両方を解決すべく、ミナギのバックパックに入っていたアルコールコンロを使って点火したものだった。
焚き火をつけると、さっきまで大量に舞っていた蝶達は近寄ってこなくなった。シエル曰く「火が苦手なのです」とのことだった。
マイクを向けられた少年は、ありもしないマイクはおろか、実在するその持ち手のミナギにさえも目を向けず、ポツリと呟くようにして名乗った。
「ヴァーユ」
知らない大人と常識破りの動物を相手に人見知りでも発動したのだろうか。この不貞腐れた表情と素っ気ない態度は、怒涛のゴミ山脱出劇を経ても特段変化を見せることはなかった。
けれど、とにかく彼から名前を聞き出すことはできた。ずいぶん小さいが、関係は一歩前進したはず。
「ヴァーユ……か。洒落た名前だね。一度聞いたら二度と忘れられないインパクトもある」
名前という取っ掛かりを得て、そこから深いパーソナリティにまで踏み込んでいく。それで身の上話でも重ねれば、緊張もきっとほぐれるはずーー。しかし、そんな彼女の目論見は、少年から発せられた問いかけによって路線変更を余儀なくされる。
「あんた、どうしてあのクイズが解けたの?」
「ん? あぁ、あれはーー」
そう言えば、この少年はなぜあんな車に閉じこもっていたのだろう、と本来抱くべき疑問を思い出した。それにあのナゾナゾは何のために出題していたのだろうか。出会ってからすぐ身の危険を感じるトラブルに見舞われ、聞きそびれていたのだ。
だが、今はこの少年ヴァーユがミナギに対して向けている警戒心を払拭するのが先決だと思った。
「鍵の在り処は“He”と“Sea”にあるって書いてあったけど、私も瞬時にはわからなかった。でも、裏に書いてある”Z”っていうヒント。写真にあった1から118の数字。この豊富な人生経験を振り返って考えてみたら、それが元素記号だって気づいちゃったんだよね」
「豊富な人生経験……ね」
「で、”He”はヘリウムを意味しているから、原子番号”Z”の数字は2。後の”Sea”だけど、これはシーとも読める”Si”に掛けてある言葉遊びで原子番号は14。」
「でもさ、“Sea”と同じ読み方ができる元素記号なんて、他にもあるよ。炭素の”C”とか。」
「そこであの出題文が役に立つって寸法ね。“Sea”の文字だけ、よく見たら『二度』書きした形跡があった。”Sea”と同じ読みが出来る元素記号のひとつ目は仰る通りの”C”だけど、ふたつ目は私の言う“Si”だからね」
自信満々、得意満面といった面持ちで解答を突きつける。ナゾナゾなんて解くのは久しぶりだったけど、正解を堂々と言ってのけるのは気持ちがいい。世の中には、これで生計を立てる猛者がいるのも頷ける。
「なかなかいい頭の体操だった。結局あの写真に書かれてた番号を全部調べれば、頭使わなくてもいけたんだけどね」
「そう……正真正銘、自力で解いたんだ」
答え合わせを終えると、ヴァーユからはさっきまでの興味深げな表情が消えていった。ミナギの高揚と反比例するかのように、ヴァーユは目を伏せ、とうとう体育座りで揃えていた膝に顔を埋めた。
焚き火の光に当てられた彼の髪は、一本一本が黄金の糸のように見えた。けれど、その持ち主の顔色は全く窺えない。
何か彼の気に障るようなことでも言ってしまっただろうか?と、ミナギは自分自身の発言を脳内でリピート再生する。しかし、ヴァーユの求めるがままクイズの答えをお披露目する自分しかそこには映らない。それとも、クイズを簡単に解いてしまったことが彼の癪に触ったのではないかとも考える。
風に揺られた葉のざわめき。焚き火の中から弾ける火花の音。頬と耳をすうっと通り抜ける空気の心地。静寂のせいで、微かな自然現象がミナギの五感によって強く知覚される。
夜。しかも、話し相手は項垂れている。お陰ですっかり寂しい会合になっていた。
その空気を打破したのは、ミナギの右隣でそれまでずっとブロック状の非常食を齧っていたシエルだった。
「あの、お二方に重要なお話があります」
ここまで一貫して丁寧語のシエルが、殊更襟を正して話し始めた。もっとも彼の燕尾服はただの模様な訳ではあるが。
襟を正した甲斐あってか、ヴァーユも顔をゆっくりと顔を上げて、話を聞き始めた。
「ミナギ様は先ほどヴァーユ様に『キミも迷子か』と尋ねられていましたよね」
「私、ここへ来た憶えなんて全くないのに気付いたらここにいて。ヴァーユも車から出た時に予想外って反応だったから」
「やはり」
ミナギの返答に対して、シエルは語気を強めた。
「申し訳ございません。今まで、もしかしてと思いつつも、目先の仕事に集中して聞きそびれていました。ですが、あなた方はやはり遭難されていたのですね」
遭難。ミナギにとってその言葉は頭の中で何度か浮かべたものの、いざ他人から言われると、しっくりこないなとも思った。その言葉にイメージとして付随して然るべき極限状態にはまだ陥っていないせいかもしれない。
いきなり森で目覚めたミナギは、このオコジョと出会い、蝶の大群を目撃し、この少年と出会い、ゴミの山から滑り落ちた。1日目にして不可解な出来事が起こりすぎているせいで、当初の目的だった「水源を探し当てる」とか、「人里を見つける」といった目標も意識下から隅に追いやられていた。
「そんなところ。何がどうしてこうなったのかはサッパリ分かんないけどね」
「無理もありません。ここへ迷い込んできた方々は皆一様にそう言いますから」
ーー迷い込んできた方々? 皆一様に?
ミナギはさもありなんといった口ぶりで噛み合わない返しをするこのオコジョに、これまでにも何度か違和感を持ってきた。それがここにきてやっと核心に迫りつつあるような予感がした。
「にわかには信じ難いかもしれませんが……心してお聞きください」
と、シエルは声を低くし、眉間にシワを寄せた。もっとも彼には眉毛と呼べるものはない訳であるが。その可愛らしい顔は、無理やりに凄みを持たせようとした結果、殊更可愛いことになっている。そんなシエルの尻尾が激しく左右に揺れ始めた。
シエルは仰々しく口を開いて事を告げた。
「あなた方は神隠しに遭ったのです……ここは神隠しにあった人々がくる、地球上のどの地図にも載っていない秘境なのです」
「へえ、そう」
「へっ? 驚かないのですか?」
力んでいたシエルの顔はふにゃりと元に戻り、体をのけぞらせた。
「まぁー、これだけ変なことに遭遇し続けたらそりゃね、驚きよりも納得でしょ」
ミナギも自分自身で淡々としすぎているかな思うくらいに、心の波形は乱れなかった。喋るオコジョも、不思議な蝶も、人類の目を逃れた秘境で育った末の産物とすれば、幾分得心がいく。意思に反して別地点にジャンプした自分達も、そういう超自然現象のせいにする方が、かえって安心できるものだ。何より、ミナギは好奇心をくすぐるような話題には自ら飛び込んでしまいたくなる性分でもあった。
シエルはゴホンと咳払いをした。照れ隠しのつもりなのかと眺めていると、シエルは再び真剣な表情を取り戻した。今度は無理やりに作られた表情ではない。いつも通りの彼の顔だ。
それまで黙って聞くばかりだったヴァーユも話に加わってきた。
「それで、俺たちは一体どうなるの? 助けとか呼ぶ手立ては見た所なさそうなんだけど。持ってた携帯も使えないし」
「ご安心ください。ワタクシが森の出口まで案内いたします。それがワタクシの役目なのです」
かくして、この森から抜け出す冒険が再び始まった。ナマイキな少年と、紳士的なオコジョ。珍奇なパーティだけれど、奇妙な縁で結ばれた不思議な生命線だ。
ミナギはふいに左手の薬指にはめた指輪を見る。真っ先に自分を心配するであろう、家で待つ夫の姿が浮かぶ。
ーー早く帰らなきゃ。
この時のミナギとヴァーユには知る由もなかった。そこが神隠しの秘境などではなく、世界の秘密が交差する場所であることを。
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