どーして、ヴィーが?
「ヴィー……?」
驚きと困惑を滲ませたスイレンの声。
焦燥がにじり上がる。
ヴィヴィがどうしてここに――?
彼女は精霊界からは出られぬ身なのだ。
こんなヒトの街中に居るはずなど。
だが、己の腰に飛び付いて来た少女の気配は、どう感じ取っても彼女のもの。
スイレンがヴィヴィの気配を間違えるはずはない。
困惑ばかりが降り積もる。
「――兄ちゃんは、そのお嬢ちゃんの家族かい……?」
警戒の色を滲ませた硬い声に、スイレンははっと顔を上げた。
彼の腰に飛び付いたヴィヴィがぎゅっとしがみつく。
あやすようにその頭を撫でながら、スイレンは言葉を発する。
「ああ、そうなんです。ずっとこの子を探していて……」
「探していて?」
男が眉根を寄せた。
警戒を強める。
「……お嬢ちゃんも、家族を探していると言っていたが?」
硬い声に緊張もはらむ。
「迷子じゃないとも言っていたが……兄ちゃんは、本当にお嬢ちゃんの家族かい……?」
周囲の空気が重くなるのを肌で感じる。
周辺の人々が警戒の色を強めたようだ。
これは参ったなあとはスイレンの談。
何だか妙に警戒心を持たれてしまったらしい。
ぎゅう、と。ヴィヴィがしがみつく腕に力を込めた。
視線を落とせば。
戸惑いと少しの怖れをはらんだ瑠璃の瞳。
それが、おそるおそる周りの様子を伺う。
スイレンが小さく息を呑んだ。
彼女の、その瑠璃の瞳が揺れ動いていた。
何だか少しだけ、泣きそうな雰囲気をまとった瑠璃。
スイレンの空の瞳が微かに見開いたかと思えば、すぐに自責で眇められる。
当然と言えば当然だった。
彼女がこの場に存在するという事実が先立ってしまっていたが、彼女が“外”へ出るのは初めての経験。
怖れの感情がうまれるのは当然だ。
どうして早くにそれに辿り着けなかったのか。
自責の念も相まって、空の瞳に不穏な影が差して、口端もにいと小さく吊り上がった。
突破しようと思えば、この辺り一体を弾き飛ばすことも出来る。が。
空の瞳に宿った影がふと和らぐ。
それは得策でもないし、最善でもない。
ならば、と。ふうと短な息ひとつ。
「いえ、実は迷子は俺の方で」
顔を上げたスイレンは苦笑を浮かべた。
「は?」
「スイレン……?」
呆気をはらんだ男の声と。
思わず顔を上げてしまったヴィヴィの声が重なる。
周囲の人々もざわめいた。
「よく迷子になる俺を、この子が迎えに来てくれるのが常で」
恥ずかしいことに、とはにかんだ顔をする。
その際、ぽんとヴィヴィの頭に手を置いて、ちらと一瞬彼女を見やる。
彼女にはそれだけでスイレンの意図が伝わった。
――話を合わせて欲しい。
「……あー、お嬢ちゃん……? 兄ちゃんの言ってることは、その……本当なのかい……?」
怪訝を多分に含んだ男の声がヴィヴィに向けれる。
「…………」
ヴィヴィはきゅっと口を引き結んだのち、くるりと向き直った。
「はい。それはもぉーっ、苦労をかけさせられています」
ん? と、小さく首を傾げたのはスイレンだ。
もぉーっ。というところに、多分な力が入っていた気がするのは、気のせいだろうか。
「ふらりと出かけて行ったのかと思えば、外で楽しみを見つけてなかなか帰って来ませんし……私がどれだけ心配して、寂しかったのかなんて知らずに……」
言葉尻に近付くにつれ、萎んでいくヴィヴィの声音に。
男を含め、周囲の人々も彼女に同情めいた目を向ける。
うると潤んだ瑠璃の瞳が男を見上げた。
それが決定打だったに違いない。
しばしその瞳を見つめていた男は、突然がしりとスイレンの肩を掴んだ。
その力強さに思わずスイレンは顔をしかめる。
男はスイレンを覗き込むように見ると、うむとひとつ真剣な顔をして頷いた。
「――兄ちゃん。こんな可愛い妹ちゃんに、こんな顔をさせちゃぁーいけねぇーなぁー」
諭すような、言い聞かすような。そんな声だった。
「……なんか、論点ズレてきてません?」
「いんや、この際それはどぉーでもいーんだ」
ちらりと男がヴィヴィを見やる。
「妹ちゃん、大事なんだろ?」
「……まあ、それは……はい……」
「じゃあ、心配かけちゃだめだろ? 寂しい思いもさせちゃぁーだめさ」
うんうんと一人で頷く男に、どこか遠い目をしたスイレンは、諦めの境地で同意を示した。
「――――……はい、そーですね」
「うぉしっ! わかればよろしいっ!」
ばんばんと叩かれる肩が痛い。
この男、わりと力がある。
にかりと笑う彼は、たぶん、悪いヒトではないのだろう。
だが、何か。何だろうか。形容し難い気持ちになった。
駄目な兄。みたいな烙印をおされたような。
いや、俺は兄じゃないけどさ。
でも、ヴィーが言ってるのは嘘でもない。
途端に己が駄目な奴に思えてきて、情けない心境にかられる。泣きたくなってきた。
そんなスイレンの様子を見て、男は彼の胸中を察したのか、どんっと肩を強く叩く。その姿はどこか満足そうだ。
「まあ兄ちゃん、頑張りな」
「………………はい」
スイレンが項垂れそうになった時、それまで成り行きを見守っていたヴィヴィが口を開いた。
「……あの」
おずおずと声を上げたヴィヴィへ、周囲の視線が向けられる。
それにびくりと肩を震わせ、すがるように彼女はスイレンの服の裾を掴んだ。
「ヴィー、どうした?」
柔らかな声で問うスイレンの声に、ヴィヴィは心底ほっとした表情をして男を見上げる。
「あの」
「ん、なんだい? お嬢ちゃん」
「あの……スイレンなのですが」
「うん」
「スイレンは私の兄ではなく、私のつが――」
瞬間。もごとヴィヴィは言葉を紡げなかった。
咄嗟にスイレンが彼女の口をふさいだから。
そこからのスイレンの動きは早かった。
「じゃ、じゃあ、俺たちはこの辺で……!」
何事かと驚きで硬直するヴィヴィを抱き上げると。
そのまま彼は脱兎の如く去って行った。
残された彼と人々は、目を丸くして首を傾げるだけだった。
「なんだ……?」
◇ ◆ ◇
通りの端。
一目散に走ったスイレンは、家屋の壁に寄りかかって一息ついた。
ヴィヴィを抱き上げたままの彼は、すぐ横から聞こえたくぐもった声で彼女の存在を思い出す。
「あ、ごめん」
さっと手を退けば、ヴィヴィは苦しげに息を吐く。
数度呼吸を意識して、ようやく落ち着けた。
「……だいじょーぶか?」
気遣うように見やる空の瞳に、ヴィヴィはこくりと頷き返して、怪訝な瞳を向ける。
「どうしたの……? スイレン」
「どうって?」
「だって、急に私の言葉を遮って走りだすんだもん」
「あー……それね……」
わかってないだろ、こいつ。
肩をすくめ、スイレンの顔に呆れが浮かんだ。
それを雰囲気で察したのか、面白くなさそうに眉をひそめるヴィヴィに、スイレンは小声で忠告する。
「――ヒトの世にはヒトの世の決まりってやつがある。言葉には気を付けるんだ」
真剣な眼差しの空の瞳をしばらく見つめていたヴィヴィは、やがて、あっと小さく声を上げ、合点がいった顔で頷いた。
「わかりました」
「わかってくれればいーんだ」
ほっとして、スイレンの表情が緩む。
が、次のヴィヴィの言葉で慌てることになる。
「番、ではなく、あの場ではスイレンは私の夫と言うべきでしたね」
「……はぁ!?」
思わず叫ぶ。これは反射だ。
通りの端とはいえ、人の行き交いはある。
スイレンから上がった声に、近くを通る人々の好奇な視線が突き刺さる。
だが、ヴィヴィはそんなスイレンの様子には気付かずに続ける。
「あ、もしかして、私はスイレンの妻と名乗った方がよかったですか?」
刹那。ざわと周囲がざわめいた――気がした。
だって、思い出して欲しい。
スイレンは現在、ヒトの姿をしている。
それはヴィヴィも同じくで。
そして、スイレンは青年の姿をとる。
一方のヴィヴィは少女――それも、顔立ちはあとげなさを残す、幼女寄り。
となれば――?
そんなことは考えないヴィヴィは、こてんと首を傾げ、呑気にさらりと結った白の髪を揺らす。
その顔はどこか沈んだ面持ちだった。
「すみません、スイレン。昔、あなたからヒトの世や言葉のことは聞いていたのに……」
「ちょっと待って、ヴィー」
「ヒトの世では、番のことは夫婦と呼ぶのでしたね」
反省です、と瑠璃の瞳が落ち込んだように伏せられる。
けれども、スイレンはそれどころではなかった。
ひそひそとささやく声が彼の耳に届く。
――え、つがい……?
――夫婦……?
――夫に……妻って……
――あの人、まさかそーいう趣味が……それで……
――あの子はまさか、拐われてきたとか……?
詰め所から騎士様を呼んだ方がいいのかとの声も聞こえて。
スイレンはまたもや脱兎の如く、ヴィヴィを抱えてその場から逃げた出した。
騎士なんて呼ばれたら、それこそ面倒事でしかない。
面倒過ぎて全部弾き飛ばすぞ。
だが、その後の方が余計に面倒事だ。
だから、逃げるに限る。
「…………俺にそんな趣味はない」
ヴィヴィは周囲の音に紛れた、そんなスイレンの声を聞き留めたが、意味はよくわからなかった。
*
はあと息を弾ませながら、天幕通りを駆け抜けたスイレンは、そのまま細い通りに入った。
その通りにも小さいながら天幕がいくつかあり、どうやら中に入って休めるようで。
ちょうど空いていた小さな天幕を見つけ、スイレンは滑り込むように中へと入る。
石畳の通りに張られた天幕とはいえ、敷物があり座れるようになっていた。
ちょこんと可愛らしい印象を持った小さな丸テーブルの周りには、ふかふかそうなクッションが囲うように配されている。
座って談笑を楽しみながら、天幕通りで買った食べ物を持ち寄ったりも出来そうだ。
落ち着いて話をするには丁度良いかもしれない。
抱きかかえていたヴィヴィをそっと下ろすと、スイレンもその隣へ腰を下ろして、手頃なクッションを背もたれ代わりに移動させる。
その様を見た彼女もしばし近くのクッションを見つめ、そろおと手を伸ばして背もたれにしてみた。
が、何だか座り心地がいまいちな気がして、うーんと小さく首を傾げたところで。
ひょいとスイレンに抱え上げられて身体が浮いた。
困惑と戸惑いで瑠璃の瞳がぱちくりと瞬いた頃には、再びすとんと座らせられていた。
クッションの上に。
ちらとヴィヴィがスイレンを見上げれば、くすりと彼の空の瞳が笑っていた。
何だかそれがむずとくすぐったくて、ぱっと目を逸らしてしまう。
仄かに、頬に熱が灯った。
けれども同時に、座りやすくなった状況にあたたかな心地に包まれる。
「…………」
「…………」
それぞれが腰を落ち着けてしばらく。
遠くの喧騒は聞こえるが、天幕内には沈黙が降り積もる。
はっきり聞こえるのは互いの息づかいだけ。
どうしよう。何か言葉を口にした方がいいだろうか。
ヴィヴィが思案を始めた頃。
スイレンが丸テーブルに手を組んで置き、ふうと深く息を吐き出した。
ぴくとヴィヴィの身体が跳ね、瑠璃の瞳がスイレンを見やると、彼の瞳も彼女を見ていた。
その瞳は真剣な眼差しで、ヴィヴィの背筋も自然と伸びる。
そんな中でスイレンが口を開いた。
「……ヴィーはどーして、“外”にいるの?」
精霊王は精霊界の“外”へは出られぬ身。
精霊界を支える大樹を支る存在が精霊王だから。
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