閑話 とある少女の話


 精霊の森からそう遠くは離れていないところに人の街がある。

 石造りの家が立ち並ぶ街並み。

 不揃いな形の石を不規則に敷き詰めた石畳の通りには、時折馬が引く辻馬車が走る。

 がやがやと外の喧騒が一層賑やかになるお昼時。

 民家前の通りを抜けた先の大通りは、天幕が立ち並び、天幕通りと呼ばれている。

 この通りの馬車の乗り入れは禁止されており、人々は花に誘われる蝶の如く、思い思いに気になった天幕へ立ち寄ることができるのだ。

 工芸品や装飾品、様々な物がそれぞれの天幕で並び、甘味処や食事処などの露天も並ぶ。

 お昼時ということもあり、美味しそうな匂いを立ち昇らせては、通りを行き交う人々を誘う。

 が、そんな喧騒など気にならない程にその少女はうんざりとしていた。

 とある民家の玄関前。

 外へ遊びに行こうとした少女を、母の声が呼び止め既に一時間程。

 もう耳をふさぎたい心境だ。

 でも、そんなことをすれば、もっと状況が面倒くさくなるのを少女は知っている。


「――それからジャジィ、暗くなる前には帰ってくること」


「……はあーい」


 だから、少女は素直に返事をする。


「あ、それから――……」


 が、まだ続く様子のそれ。

 さすがに我慢の限界というものがある。


「わかってるよ、おかあさん。もりのおくにははいっていかないこと、でしょ?」


 母が自分を心配してくれているのはわかっている。

 わかっているけれども。

 きゅっと口を引き結んで、言葉をこぼす。


「おかあさんとのおやくそくごと、ちゃんとまもれるよ」


 数えて六つになるのだ。

 自分だって、もう小さくはない。

 それに自分は。


「ジャスミンはおねえちゃんになるんだもん。おやくそくごと、まもれるもん」


 少女の金の瞳が、母の大きくなった腹に向けられる。

 ゆったりと椅子に腰掛ける母は、少女の視線を受けて優しい手付きで腹を撫でた。

 そして、母は娘を見やる。

 力強い光を宿した金の瞳が見返してくる。

 見返すというよりかは、睨んでくるような強気な瞳だ。

 母からすれば、少女はまだまだ子供で。

 心配事、不安事は尽きないし、これから先も尽きることはないのだろう。

 特にこの子の場合、より不安は増している。

 けれども、確かに娘は成長している。だって。


「ねえ、きみもそうおもうよね? ジャスミンおねえちゃんのみかただよね?」


 駆け寄った少女が母の腹を撫でながら、優しい口調で語りかける。

 その眼差しが優しい色を帯びる。

 その時だ。母は己の腹から胎動を感じた。

 それは娘も感じたようで、弾かれるように顔を上げれば。


「ねえっ、おかあさんっ! かんじた!? このこもおねえちゃんにさんせいだってっ……!」


 きらきらときらめく金の瞳があった。


「本当ね」


 くすくすと笑う母に、期待の眼差しを向ける少女。

 確かに娘は成長している。だって。

 いつの間にか、姉の顔をするようになっていた。

 なら、少しだけ手を放す時期なのかもしれない。


「仕方ないわね」


 諦めにも似た声音だった。

 そんな母の言葉に金の瞳が大きく見開かれる。


「それじゃ、お母さんと絶対のお約束事、守れる?」


「うん、まもれるよ」


「いい? ジャジィ。これだけは何よりも守ることよ――……」


 真剣味を帯びた母の声音に、きゅっと口を引き結んで、少女はしっかりと頷いた。

 少女は知っている。自分が周りと少しだけ違うことを。




   *   *   *




 天幕が立ち並ぶ通りへ目を向けることなく、少女――ジャスミンは飛び出した家の裏手へと回る。

 積み上げられた木箱や樽が目に入った。

 手頃なものに目をつけたジャスミンは、慣れた動作で足をかけて一足に駆け上がる。

 家の裏手の塀を飛び超え、裏道の細い路地をいくつか通り抜ければ、森へはもう目と鼻の先。

 とっ、と軽く塀を蹴り、ひらりと音もなく着地。

 後頭部でひとつに結った栗色の髪が、さらとやわらかな音を立てて跳ね揺れた。

 バンダナをヘアバンド代わりに、結び目は下。

 赤と白のチェック模様が彼女の髪に映える。


「きょうもいいてんき」


 すんと鼻を鳴らし、空を仰いだ。

 天気がいいと、気分も上がる。自然と顔もほころぶ。

 嬉しさに任せたジャスミンはくるりと回ると。

 そのままトレンチスカートを翻しながら、森へと一直線に駆けて行った。




   *




 精霊の森。

 大人達がそう呼ぶ森に、ジャスミンはよく遊びに行く。

 普段から母や父と遊びに行くのだが、この頃は遊びに行く機会がなかった。

 母が身籠ったから。

 父は家族が増えるのだからと今まで以上に張り切り外へ、家に居るときは母に付きっきり。

 母も出掛けるのを控えるようになった。

 家族が増えることは、もちろんジャスミンだって嬉しいことだ。

 だって、弟か妹ができるのだ。

 元気に産まれてきてくれればどちらでもいい。

 そう思っている。けれども。

 外へ出掛ける機会はめっきり減ってしまった。募るのは不満。

 特に森へ遊びに行けないのが嫌だった。

 だって、常に気を張り続けるのは、息が詰まってしまって苦しくなるから。

 息抜きは必要だ。疲れてしまう。

 だから、今日やっと森へ行く許可をもぎ取ったところなのだ。

 ここまで長い戦いだった――。


「――――」


 ふうと息を吐いて、すうと森の空気を鼻から肺いっぱいに吸い込む。

 仰げば、陽の光に透けた木の葉が揺れた。

 その眩しさに目を細めながらも、何かが満たされる感覚に知らず頬が緩んだ。

 どうしてなのか、森は心が落ち着く。

 もしかしたら、己に流れる血がそう感じさせるのかもしれないとジャスミンは思う。


「……ここなら、だれもいないよね?」


 きょろと辺りを見回し、耳もそばたてる。

 が。


「……あんまりおとがひろえないのが、ひとのみみのいやなところだよね」


 どうしても人の耳では拾える音の範囲が限られる。

 不満げに眉をひそめ、仕方ないとジャスミンがその場に蹲る。

 かと思えば、小さな両の手で地に触れて目を閉じた。


「…………」


 振動は感じない。微細なこの揺れは、森に住む動物達だ。

 この付近に人間はいない。

 そう結論づけると、ぱちっと目を開いて勢いよく立ち上がった。


「んんーっ!」


 思いっきり伸びをして、ジャスミンはヘアバンド代わりのバンダナの、その結び目をしゅるりと解く。

 そして現れたそれは、ぴょこんと元気に立ち上がった――獣の耳。

 横髪の膨らみがなくなったのは、そこに普段は人の耳を隠しているから。

 これなら耳の形が変わっても気付かれにくい。


「いきがつまっちゃうもんね」


 そう呟いて、次に手をかけたのはトレンチスカートのベルト。

 それもほるりと緩めると、すとんとスカートが落ちる。

 そして目を惹くのが、ふわとゆれる獣の尾。

 彼女の髪色と同じ栗色をした尾。

 ホットパンツの方が動きやすいのだが、普段はこの尾を隠すためにスカートを履いている。

 バンダナのヘアバンドも同じ理由で、周りからその耳を隠すため。

 彼女はまだ、人と違う成りをしたそれらを隠す術をうまく扱えないのだ。


「いきができるぅーっ!」


 多少叫んでも街にまで声は届かない。

 常に気を張っているのは結構疲れるものなのだ。

 少しでも気を抜くと、ひょんな事ですぐに部位隠形術は解けてしまう。

 そう、例えば嬉しいことがあったりとか、驚いてしまったりだとか。

 感情の起伏ですぐにぴょこんと耳は立ち上がるし、尾は尾で揺れるし飛び上がるし。

 これでもわりと大変なのだ。

 だから、こうして人の寄り付かない森にて、たまに息抜きをしているわけなのだ。

 と、そんなことをつらつらと考えていた時。

 かさりと小さく草が揺れ動いた。

 耳が立ち上がり、音の方を向く。

 瞬間、ぱちりと目が合ったのは野うさぎだった。

 あ、可愛い。ジャスミンの頬が緩む。

 だが。


「あ」


 脱兎の如くとはまさにあれのこと。

 動いた、と彼女が思った頃には、そこに野うさぎの姿はなかった。


「……にげられちゃった」


 ちょっと寂しいなと思えば、正直な彼女の耳と尾がしなと垂れ下がる。

 正直なそれを恨めしく思いながら、仕方無いよねと自分に言い聞かせる。

 だって、己に流れる獣のそれは、狼と呼ばれるものらしいから。

 らしいというのも、何となく本能で察しているだけであって。

 母や父から教えられたわけではないから。

 時に人をも襲う獣の狼。

 けれども。己に流れるそれは、厳密には獣でないことも知っている。

 本能がそう訴えている。

 人のそれよりも余程鋭いそれで。


 ――自分は人と、人ならざるものの合の子だ。




   *




 ジャスミンが精霊の森と呼ばれる森に来るのは、何も息抜きだけが目的ではない。

 この日も彼女は探していた。

 手頃な木に駆け上り、十分な太さの枝に腰掛ける。

 ぶらんと足と尾を垂らして座れば、彼女を迎え入れるように、さわと穏やかな風が吹き抜けた。

 彼女の髪や頬を優しく撫でる風がくすぐったく、思わずふふっと声をもらす。


「くすぐったいよ」


 首をすくめてみせれば、風は静かになった。

 代わりにざわと腰掛ける木が身を揺らす。


「――うん。きょうもさがすの」


 それに応えて、ジャスミンは幹に寄りかかった。

 いつも森は優しく彼女を迎え入れてくれる。

 何だか波長が合うというか、気が合うというか。

 時折、懐かしさが胸を焦がす時がある。

 どうしてなのかはわからない。

 けれども、その心地は嫌いではなかった。


「…………」


 ジャスミンは目を閉じ、木の胎動を肌で感じ取る。

 己の中のオドは土と相性が合うらしくて。

 こうして触れることで、微細なそれを感じ取ることができる。

 木は地に根を張るから、生き物の気配を感じ取りやすいのだ。


「――――」


 目を開く。覗いた金の瞳がきらめいた。

 どうしたのかと問いかけるように木がざわめく。

 それにのろのろと首を振りながら、ジャスミンはぽつりと呟いた。


「――なんだかね、あっちからかんじるんだ……」


 一点を見据え、彼女は繰り返す。


「ジャスミンのさがしもの……あっちにある……」


 すとん、と飛び降りて。

 放っていたスカートやバンダナを手にして駆け出した。

 地を蹴り上げる度に速さは増す。

 それはまだ、幼い少女が走れるそれではなくて。

 かっと金の瞳が見開かれた。

 それが、次の瞬間には紅へと転じる。

 くんと鼻を鳴らせば、様々な匂いが。

 耳をそばたてれば、様々な音が。

 彼女に情報として様々なことを与える。

 それを無意識下で処理、取捨選択をし、必要な情報を彼女へ伝える。

 何かわからないのに、それでも。

 それでも、そこに在るとわかる。

 どうしてだか、そこに在るとわかるのだ。

 ずっと探していたもの。

 遠い時の向こうで、またみつけるからと言葉をくれた。

 でも、今度は自分もみつけたいと思って、自分も探すねと言葉を交わした。

 だから、今度は自分からそこに行きたい。

 今の自分には、駆ける足がきちんとあるから。


「――――」


 短く息を吐いた時。

 その場に彼女の姿はなくて。

 既に駆けるというより、疾走の域に達していた。

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