時に、繋ぎともなる


 背後から何かに突き飛ばされて地表を滑った。

 状況の理解が追いつかないままに顔を上げれば。

 鼻を突く鉄の匂い。視界を舞うは、赤の花弁。そして、その向こうに。

 淡い黄の羽毛を赤で彩り、横たわる小鳥の姿。


『ちあ……?』


 呆然と。掠れた声が小鳥の名を紡ぐ。

 だが、応えはない。その代わりのように鼻を突く鉄の匂い。

 それが血だと理解するのに、そう時間はかからなかった。


『ちあっ――!!』


 愕然とシシィの碧の瞳が凍りつく。

 鼓動が音を立てて跳ね上がった。

 悲鳴にも似た声で叫び、彼は堪らず身体を起こして駆け出した。

 もつれそうになる足を懸命に動かして、ぴくりともしないティアを目指す。

 刹那。視界の端できらめきが掠めた。

 はっと見開かれる碧の瞳。

 思い出すのは先程の出来事。

 己に向けられた、きらめく刃先の存在。

 瞬時に察する。彼女に庇われたのだ。

 碧の瞳が悔しげに歪んだ。

 そして、再びあのきらめきがシシィの視界を掠めて。

 シシィの中で、熱を帯びた何かがかっと熱い何かで弾けた。

 それは激情。


『ちあにさわるなあああ……っ!!』


 きらめきの向かう先が彼女だと気付けば、するりと喉を滑るように叫んでいた。

 獣の咆哮にも似た声。

 反射だった。

 ぶわりと全身の体毛が逆立ち、シシィの純白のそれが波打ったかと思えば。


『――――っ!!』


 シシィから水の気が迸った。

 それに、大気に含まれる微粒な水が応える。

 シシィの碧の瞳。

 その瞳孔がかっと細まる刹那、震え始めたかと思えば一直線に向かって行く。

 向かう先は、今にもそのきらめきを彼女へ振り下ろそうとする魔物。

 植物の成りをした魔物。マナに侵された植物の、成れの果て。

 根が足となりて自立し、うねる蔓や葉はまるで手の様で。

 きらめく刃先は鋭利に研がれ、硬化させた葉。

 魔物がそれを彼女へ振り下ろす――が、誤ったのか、その横へ振り下ろされた。

 身体が重く、狙いが鈍った。

 その要因を察し、魔物がシシィを振り向いた。その動作は億劫そう。

 ぽたりと滴るのは水滴。ぐっしょりと全体を濡らした魔物。

 シシィから迸ったそれに応え、微粒の水が絡むようにして魔物を濡らした。

 植物と水。密接な関係であるが、水も過多となれば毒となる。

 シシィは魔物と目が合った。

 植物ゆえに、どこかに目があるのかはわからない。でも、確かに合った。

 ぞわりと全身の毛が逆立つ感覚。

 削がれた勢い。それさえ削いでしまえば、幼い精霊などたわいもない。

 その場に縫い留められたように、シシィの足がとまった。とまってしまった。

 嘲笑うかのように、にたりと魔物が笑う。

 狙いをティアからシシィへと変え、魔物がひたと足を向ける。

 そこでシシィの思考が凍りついたように真っ白になる。

 あ。喉がつぶれたのかと錯覚するくらい、短な呼気しかもれなかった。

 どうしよう。そんなことすら、彼には感じる余裕がない。

 刹那。魔物の横を素早い何かが過ぎる。

 それは硬直するシシィを一直線に目指し、脚でがしりと掴んで飛び去った。




   *




 ばさりと翼を打つ音が響く。

 景色が流れ、木々の合間を縫って飛ぶ。

 木々の位置は風が教えてくれた。

 だが、その間にも熱が身を焦がす。

 左目が熱い。痛みでまぶたを持ち上げられない。

 それに耐えて持ち上げてみても、赤に染まった視界は役に立たない。

 ゆえに、風による状況把握を頼りに飛んでいた。

 羽ばたく度に羽根が舞う。

 左半身が熱を伴って痛みを持つ。

 あの魔物の一太刀は、運の悪いことに左目を裂いた。

 だが、多量のマナを蓄えた魔物の一太刀は、それ以外にも衝撃を与えたようで。

 マナでの一太刀。だから、他のマナにも影響を及ぼす。

 マナで構成された身体――魂の器――に亀裂を入れた。

 それはまるで、硝子の入れ物を落とし、ひびを入れてしまったように。


『……っ』


 気を抜くとすぐに身体が傾ぐ。

 それをティアは、ぐっと力を入れることにより何とか堪える。


『……ちあ、だいじょーぶ……?』


 下から視線を感じる。

 震える声だった。

 けれども。悪いと思いつつも、それを気遣う余裕はティアにはなかった。


『……大丈夫に、みえるの……かち、ら……?』


 少しだけ苛立ちをはらんだ声に、ぐっとシシィが押し黙る。

 言葉を発するだけでも苦しい。

 息が上がる。

 亀裂の入った身体に、この濃度のマナ溜まりは容赦をしない。

 身体のマナがうずく。暴れ回りたくて仕方がないと叫ぶように。

 そうなってしまえば、己の存在自体を保てなくなって消滅する。

 精霊でいう死を迎えることとなるのだ。


『……はや、く……もど……』


 呻くような掠れ声がもれた。

 早く戻らないと、精霊界に。

 でも、あの場所は。“外”と“内”を繋ぐ狭間、その境界である霧を。

 ティアと、そしてシシィは、幼いゆえにまだ喚べない。

 だから、偶発的に現れるそれを待つしかないのだ。

 問題はそれまでこの身体が持つのか。魔物から逃げられるのか。

 ひゅおと何かを告げるように風が吹いた。

 先程の魔物は撒けたらしい。だが、他にもいる気配がちらほら。

 ティアは風を操る精霊。

 ゆえに、風の運ぶ音にも敏感。先程よりかは周囲を把握出来てきている。

 もっと早くに“外”の風を掴めていればと悔やむ。

 ともすれば、遠くなりそうな意識を必死に繋ぎ留めながら。

 ティアはそれを誤魔化すように、時折翼を力強く打ちながら飛び続ける。

 その度に、きらと微かなきらめきを伴うのには気付かぬふりをしながら。

 それがマナだということは、もちろん、気付かぬふりだ。




   *   *   *




『――っ』


 ティアから呻きがもれたと思ったら、どしゃっと地表を滑っていた。

 軽く打ち付けた痛みを気にすることなく、シシィは慌てて身体を起こす。


『ちあっ!』


 駆け寄り、その姿に絶句する。

 ティアは呻きながら身体を震わせていた。

 赤で彩られたそれからは、まるで何かが漏れ出るようなきらめきが立ち昇る。

 碧の瞳が見開かれ、大きく震える。

 その光景は初めて目にするはずなのに、唐突に理解した。――マナ、だと。

 ひゅっと息が詰まった。

 だめだよと意味もなく首を振る。


『ちあ……』


 掠れた声で名を呼びながら、シシィは小さく震える前足で押し当てた。

 これ以上マナが漏れ出ないようにと。

 焦燥がじわりと滲む。


『ちあっ……ち、あ……ちあ、ちあちあ……ちあちあちあ、ちあちあ……』


 それでもマナは、僅かな隙間から絶え間なく漏れ出てくる。

 立ち昇るきらめきに焦燥が色濃くなり、やがてそれは不安を呼び寄せる。


『やだよ、だめだよ。ちあ――……』


 頼る術を求めるように周りを見渡す。

 何もないのは解っているのに。

 それでも、見渡さずにはいられなかった。

 そして、そこで“彼”は気付く。

 ここはあそこだ――と。心の奥底で何かが叫んだ。

 シシィの意識は遠くの何かを見やる。


『――――っ』


 それは慟哭。

 ここで旅を終えた。

 約束を果たすことなく、旅を終えた。

 疲れたから、少し休むつもりで。少しだけ眠るつもりで。

 なのに、随分と長いこと眠ってしまった。

 やっとここに戻って来られた。

 これでまた探せる。“彼女”を。


 ――また、みつけるから。


 交わした約束。その、続きを――。

 もう一度、と。

 あの時口に出来なかった願いの、その先を――。


『…………』


 ぼんやりとするシシィの瞳から、つっと何かが溢れる落ちた。熱いそれ。

 そうだ。思い出した。大切な約束。

 顔も思い出せないけれども、確かに“彼女”だった。

 探さないと。みつけるって、またみつけるって約束をした。

 それを今度こそ果たさないと。

 一歩、シシィが踏み出す。さく、と小さな草地を踏みしめる音。

 離れた前足からはティアのマナが溢れ出る。

 きらときらめくそれは、さながら幻想めいて見えて、純白のシシィの体毛を照らす。

 だが。そこでひとつの声が、ひとつの名を唱えた。


『――……シ、シィ』


 ティアが身動ぐ度に、ぶわと漏れるきらめきが増す。

 ともすれば、今にも暴れようとするそれを抑えながら。

 琥珀色の瞳は苦しげにゆれ、彼女は絞り出すような声で続ける。

 それは、切に。


『……呑ま、れちゃ……だめ……』


 じわと赤が滲む。

 それが風に乗り、鉄の匂いがシシィの鼻を刺す。


『――……』


 は。吐息がもれた。虚空に溶けるように。

 シシィの顔が何かを堪えるように歪んで。

 くっと呻いたかと思えば、ぎゅっと目をつむってから振り向く。

 ぼんやりした瞳。そこにティアの姿が映る。


『…………』


 やがて、瞳に朧気な光が灯って。


『……ち、あ』


 瞬き。大きくゆれて、ティアの姿をしっかりと映した。


『ちあっ……!』


 シシィの声がティアを呼ぶ。

 それに彼女は力なくふわりと笑んで、よかったと呟いた。

 駆け寄ったシシィは確かにシシィで。

 彼女の胸中に安堵が広がる。

 でも、そろそろまぶたが重くなってきたな。

 限界が近いことを悟る。


『ちあ、だめだよ……。だめ……』


 気配でそれを察したシシィが必死に呼びかける。


『ちあ』


 これ以上マナが彼女から漏れ出ないようにと、もう一度前足を押し当てた。

 けれどもやっぱり、隙間から漏れ出てしまう。

 意味のないことだとしても、何もせずにはいられない。

 ぎゅっとそれを押し当てる。

 己の前足が赤でじわりと染まる。

 それが不安を大きく膨れ上がせて、碧の瞳が涙で濡れゆれた。

 それをティアは薄目で見やる。灯る光は消え入りそう。

 不安に感じなくとも大丈夫なのに。

 これは本物であって本物でないから。

 はじまりの精霊がかの存在から身体を賜った際に。

 ヒトの祈りからうまれたからと、ヒトのそれに似せてかの存在が創った。

 ゆえに、マナで構成された身体なのに血が存在する。

 だから、見せかけに過ぎない。

 だから、不安に感じなくともいいのだ。

 そう伝えたいのに、その気力さえ、もうないようだ。

 重さの増すまぶた。それがだんだんと落ちてきて。


『――――』


 ことん。意識が落ちた。

 刹那、存在が薄らぐ。ティアという、存在が。

 シシィは敏感にそれを本能で察した。


『――……ち、あ……?』


 呆然。

 シシィの目が見開かれる。

 存在が保てなくなれば、それは精霊でいう――。

 息が詰まった。その反動で咳き込んだ。

 碧の瞳が歪み、ゆれる。

 だめだよ。幾度も繰り返した言葉。

 もう、声にならなかった。

 どうしよう。どうすれば。

 混ざる。思考が混ざる。

 掻き混ぜられ、ぐしゃぐしゃになる。

 それはやがて、白に。真っ白に塗りつぶされて。

 何も考えられなくなった。

 己の息の音だけが耳に残る。


『――――』


 その瞬間だった。碧の瞳が音もなく見開いた。

 意味もなくティアを見下ろすシシィの目に、それが視えた。

 彼女の奥の奥。その最奥に。

 本能が叫んだ。繋ぎ留めと。

 そして、シシィは本能に促されるままに、無意識に視えたそれを紡いだ。

 声にマナを絡ませて紡げば、それは言の葉となって。


『《ルイ――……》』


 魂を縛る。

 だが、時にそれは繋ぎともなる――。

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