第109話 往生際

 テーブルを駆け、バーカウンターに足をつくその瞬間。

 ヴィズの背中に刺すような痛みが走り、その次には痺れを極限レベルにまで高めた痛みが走った。

 神経を乗っ取られたように体が萎縮し、脚がバランスを失い、さながら撃ち落とされた鳥のように酒棚へと飛び込む。

 酒とガラス片に塗れ、背中の痛みに加えて、肋骨も負傷したらしく痛覚が危険信号を発する。


「クソ………酒塗れで死ねるなんて、まるで聖人の扱いだ」


 だが、彼女は痛みを無視できるように鍛えられた過去がある。痛みが気勢の枷にはならず、肉体はまだ戦闘の緊張を解いていない。


 だが、過大なダメージの中で身悶える彼女の耳に敵の迫る音が届いた。


ギィッ。


 バーカウンターのスイングドアが開かれ、足音の無い気配だけがヴィズに迫る。


 アルコールとガラス片の中で体を起き上がらせ、敵と対峙するヴィズ。


 床を強烈なウーハーサウンドが震わす中、ヴィズは手でピストルを真似ね、敵に向ける。その効果は、一瞬だけ相手を怯ませた。


「バン! バン!」

 

 銃声もハンドメイドだ。


「what.will you do?」

【何のつもりだ?】


 日本語訛りの英語の問いかけに、ヴィズはわざと大きく息を吸い、時間を無駄にかけてから答えた?


「I mead a time to say Tallyho」

【時間稼ぎさ、やっちまえて言うためのな】


 ヴィズは、わざとテーブルに飛び乗ってここまで移動した。そうして目立つ事で直前にはぐれたローレンシアに、状況と敵の存在を知らせたのだ。

 椿は、ヴィズを手負いにした攻撃の興奮が、状況認識能力を麻痺させ、もう1人の存在を失念していた。

 そして、そのツケとして不意打ちを仕掛けられた。


「…………——くっ!?」


 ヴィズに後一歩まで迫って椿は、カウンター越しに誰かに手を掴まれ、体勢を崩すと、猛烈な力で頭をバーカウンターに叩きつけられた。

 物理的なダメージは装備が分散したが、椿の備える判断能力は混乱に陥り、気がついた時には、カウンターから引き摺り出されていた。

 

————————————————————


「ヒーローは遅れてやってくるってね!!」


 ローレンシアはそう言うながら、椿の体をバーカウンターの上で引き回し、そのまま壁に投げつけた。


「くっ……… 竜巻に飲み込まれた気分」


 椿は痛みや怪我を負わず、意識を釈然としていた。


「おぉ! まだ動けるのね!」


 それが、かえってローレンシアを喜ばす。


「おい、そいつとまともにやり合うな」


「安心して、から」


 ローレンシアは、その大義名分の下に、カウンターの奥から届く制止の声を無視して、椿と相対する事を選んだ。

 

「あなたが丈夫なのは、その銀色の変態ちっくな皮膚のおかげ?」

 

「…………そうだよ。近くで見てみる?」


 徒手空拳なら勝算があると踏んで挑発する椿。


「近くで見ないと、どの程度まで耐えられるか分からないからね。特に、中身の方が!」


 ローレンシアは、その誘いに半分掛かった。

 椿にとって想定外だったのは、彼女がタックルしてきた事、そして、そのまま壁を突き破った事。


 浮遊感に包まれた椿は、武術の稽古で投げられた時を思い出した。懐かしく感じるほど慣れ親しんだ感覚だ。


 咄嗟にローレンシアを掴み返し、空中で上下を入れ替える。


バンッッ!


 音圧が伝播し、2人の人間が空から地に落ちた。

 下敷きにされたローレンシアの身体には、地上2階からの落下速度と2人分の体重がそのままダメージとなる。


「投身自殺ね、お嬢ちゃん」


 クッション代わりがあった椿は、よろけながらも地に足をついていた。


「うっ……」


 クッションにされたローレンシアは、うめき声と共にねっとりと油膜のような血を吐きだす。


「………内臓が潰れたようね。せめてものなさけで、楽にしてあげましょう」


 椿は、再びローレンシアに覆いかぶさりその首を絞めようと手をかけた。

 が、その手をありえない怪力で握り返される。


「な、なんだ、なんなのあなた!?」


 絞め殺そうと組んだ手が無理矢理押し広げられ、無防備に晒すことに顔面にローレンシアの頭突きが炸裂。

 分散されきらなったダメージが椿の到達し、口の中に錆びた鉄の味が広がった。


「たかが、胃か腸が破裂しただけだよ。この程度じゃ、私はおろか吸血鬼だって死にはしない」


 唖然とする椿を突き飛ばすと、ローレンシアは、食道と口に余った血を吐き捨てた。


「さぁ、続きをやろう。衝撃に強いあなたと治癒能力の高い私。生きる事に汚い者同士、最終戦争ラグナロクを先取りしちゃおうか!」


「…………そうね。首をねたらどう回復するのかみてあげようじゃない」


「その疑問、私もずっと抱えてるんだ」

 

————————————————————


「あーー、クソ痛え」


 ローレンシアと椿の戦いが場所を変えた時、ヴィズはなんとか自力で立ち上がりこの建物から出ようとしていた。

 右腕は、指先まで問題なく動くものの、肘か先は垂れ下がったまま。背中の痛覚は這うように痛みを芽吹かせ続けている。


「アドレナリンが足りないんだな、いっそ、酒かモルヒネが欲しいくらいだ」


 足の感覚は鈍く、立っている事、歩ける事は視覚で確認しながらでないと進めない。

 バーカウンターから抜け出すと壁に体を寄かかる。


「片手が使えないのが忌々しい」


 そう言って、左手で右肘を撫でる。そうすると肘の頂点からズレた位置に、上腕骨の膨らみが確認することが出来た。


「これなら、行けるか?」


 改めて骨が折れたのではなく、関節が外れている事を確認した。

 骨を折るよりも、関節を外す方が簡単だ。骨を折るには、骨自体に耐えられない力をかける必要があるが、関節なら想定されていない方向に力をかけるだけで簡単に外す事ができる。

 だが、脱臼は骨折よりも治すのも簡単だ。


「関節が捻られてない。見事な腕前だ」


 この場合は、椿の腕の良さも応急処置のしやすさに繋がっていた。

 彼女は、必要最小限の力でヴィズの片腕を使い物にならなくさせたが、無駄のない的確な攻撃が、かえってヴィズの負ったダメージを“ただの脱臼”に済ませてしまったのだ。

 

 ヴィズはそれから、骨同士の位置関係を確かめ、右手を左手で持ち上げて、手すりを握らせる。

 そして、体重をかけながら腕を伸ばしていき、骨と関節が元の位置に戻るように手を加える。


ポキッ。


「………入った!」


 腕が思い通りに動く。ヴィズに積み重なった問題の一つは解決だ。

 この後、他の傷の手当てと、ローレンシアと合流、名古屋に赴き、もう一つのグループと合流もしなければならない。

 

「とりあえず、手当は後回しだな」


 手を荒療治で治したヴィズは、そのまま店を出た。

 無数の赤いパトランプが泣き叫びながらかけまわり、規制線の効果で道路交通は麻痺し始めている。


「チッ。本当に急がないと無菌室に取り残されるぞ………」


 素早く周辺環境を探ったヴィズ。そして、空車とパネルを焚いているタクシーが目に止まった。

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