第19話 2章8話-二律背反の愛情-2
アーシェ・ユスティニアが魔王オディナ・ウシュナハに攫われたのは、17年前、1799年の春の事。
当時16歳のアーシェは神童と言われ、控えめに言って舞い上がっていたし、有り体に言えば驕っていた。自分の才能と女神イーリスの教義、この二つが絶対の正義であり真実であると信じて疑わず、当然、自分を攫った魔王に心を開くことなどなかった。相手が思いの外に真摯な紳士であり、ウェルス神教の教理にある破壊と蛮勇の化身とされる魔王、その姿と大いなる齟齬があっても、アーシェはなんらの疑いなくオディナを邪悪なる魔王と断じた。
魔王はアーシェを捕囚ではなく賓客として扱った。神族にとって魔族は討伐と殲滅の対象であり、見つかれば魔女狩りのごとく、この上なく凄惨に殺されるというのに、魔族であるオディナのほうが慈悲深く寛容な態度をとること、それすらもアーシェは神に対する下劣な魔族の媚びであるとしか見定めなかった。
アーシェは何度もオディナを罵り、
あなたに世界を支配する現実の一端を見せよう、ある日魔王はそう言ってアーシェを連れ出した。
暗黒大陸アムドゥシアス南東の要害拠点。そこをアルティミシアから渡ってきた軍隊が襲っていた。魔神戦役の激化は新羅狼牙一行が旅立ったあとのことであり、この当時まだ人類圏の反撃は散発的なものでしかない。それでも人類の軍は数に勝って小集落を落とす。そもそもこの集落は見張り台的なものであり、実際に戦闘力をもった魔族は少なかった。
見ていなさいと、魔王は言った。彼が介入すれば人間たちなど瞬殺であったろう、だがあえて手を出さず、アーシェに現実を見せた。
それは略奪と放火と暴行という、この世でもっともおぞましい行為の三重奏。あのときの魔族たちが犯され、焼かれ、腹を割かれ、ほとんど抵抗できず遊び半分に殺されてゆく姿を、アーシェは忘れることはない。
そして、魔王の見せた横顔もまたアーシェの心に強い印象を残した。銀の蓬髪をたなびかせた優美なる魔王は、厳しい瞳で人間たちの行いを見ていた。ただの一挙動も見逃さないとばかり、同胞の無念を決して忘れないとばかりに。その視線には血を吐くばかりの痛みと憎しみが宿っていた。
その結果として。
アーシェ・ユスティニアは自ら女神イーリスに背教、魔王オディナと肌を重ねた。オディナの行為はあくまでも優しかったが、アーシェは自分を人間という
そして魔王オディナ・ウシュナハは新羅狼牙にアーシェを託すべく、ひたすらに「聖女を
ともかくも、魔王は滅び、聖女は勇者に救われた。おとぎ話ならば幸せな結末だが、この聖女は魔王を憎むのでなく愛していたためにおとぎ話とは趣を異にする。魔王オディナが首を取られたとき、逆上して全力の神力波・
そしてアカツキ京師太宰につれられ、アーシェは狼牙の妻に迎えられる。狼牙としてはアーシェを放っておけなかったからだが、アーシェにしてみれば憎い怨敵の妻になど言語道断、笑止千万だった。舌をかんで魔王の後を追おうかとも思ったが、ノイシュがいる以上無理な相談だった。精神の不均衡を来している状況では、一人で息子を育てることも難しい。だからアーシェと狼牙の新婚生活は、本当はギスギスとした妥協の産物だったのである。少女時代の牢城雫はこの当時のアーシェから赤子の辰馬を抱かせてもらい感動したものだが、そのときアーシェの心がこうもささくれ立っていたことを知ったらどう思うか。
さておき。
オディナが命名したノイシュという名前を勝手に「辰馬」と変えたことにもアーシェは強い憤りを覚えたが、古ユーグ語・・アムドゥシアス語。ラース・イラのユーグ語と同根だが、文法に違いがある・・の名前は魔族の血筋を疑われかねないと言われれば強くも否定できなかった。
オディナとの一つ一つが、雪解けのように消えていくようでいやだったが、それは雪解けのように彼女に新しい芽吹きをも齋した。1年2年が過ぎていくうち、アーシェは狼牙の優しさにもまた惹かれるようになる。そして狼牙に惹かれるアーシェは、また人類の庇護者たる自分の価値を再認識し、人間の価値観の中に戻されたことで人類のために魔族伐つべし、と考えをもとに復すに至る。
だから
だから、こう叫ぶ。
「わたしは決して、あの子を見捨てません! あの子が・・あれだけ世界と同胞を愛したあの人の子が世界を壊すなんて、絶対にあるはずがない。世界を
素早く、
「っと、あぶね・・。かーさん、なんか考え込んでるから不安になっただろ!」
「逡巡してごめんなさい、辰馬。・・でも、もう迷いはありません。縛につきなさい、竜の魔女!」
嬉しそうに悪態をつく息子に応えつつ、アーシェは聖杖をかざす。染み渡る清浄の気。焔が、イナンナが立ち上がる。アーシェの動静を見守っていた狼牙も、自分たちの三角関係に少し複雑なものはありそうながらアーシェが息子殺しを犯さずにすんだことで安心して天桜を構え直す。
「ふふ・・そう。歴史はそちらに流れる、か・・。まあそれもいいわ。だけどここでやられてあげるわけにはいかないから・・帰るまでの準備が出来るまで、少しだけ本気で相手をしてあげる!」
竜の魔女、ニヌルタはバサリ、漆黒のマントを脱ぎ捨てた。背中から竜の巨翼を生やす。天井まで4メートルそこそこという玄室内、空を飛ぶために翼を
ひぅ!
それなんぞ神速なる哉。速さなら絶対の自信を持つ辰馬のお株を奪う、超高速。一番手近にいた辰馬の顔面を、竜鱗に覆われたかぎ爪の豪腕がわしづかみにして、一気に反対の壁面まで引きずると壁に叩きつける!
「ぐぁ・・!?」
新羅辰馬ともあろうものが、受け身もとれずまともに食らう。今の身体が仮のものでなじんでないとか、そんないいわけがどうでもいいレベルの圧倒的速さだった。腕力による上乗せダメージも、尋常ではない。一瞬頭が割れたと錯覚したほどだ。
それでも。
腕をつかみ、肘を支点にして下から反転、顔面めがけて蹴りを打つ。しなる鋼の鞭を思わせる
アーシェから
しかしそのすべてが、通用しない。はじかれる。ニヌルタの中に潜む。圧倒的ななにものかの力によって。
ニヌルタが腕を持ち上げ、くん、と軽くひねった。ただのそれだけ。その一挙動で発動した威力が、狼牙たち超一流の戦士を無様に這いつくばらせた。
「『祖竜』の力もだいぶなじんで来たわね・・あなたたちを殺すことが目的ではなかったのだけれど、あとあと五月蠅いし。この場で始末しておくかしら?」
「まあ待て待て・・おれを、忘れんなって・・」
アーシェに支えられて、立ち上がる辰馬。頭の血は治癒魔法でふさがれたが、内部に浸透した衝撃までは抜けない。足下がふらつく。
まあ、一撃だ。それで決める。
勇を鼓して、歯を食いしばる。
「いい目ね。でも・・。無理でしょ。この狭い場所であなたの大技を使うわけにはいかない。私の天地分かつ開闢の剣とおなじでね。
そして、術がつかえない状態、フィジカル勝負では、あなたに万の一つも勝ち目もない。終わりよ。この勝負はもう詰んでるの。
あなたはまだ勝ちの目があると信じて王将を動かし続けている、滑稽な道化に過ぎない」
「人の限界を、お前がかってに決めんな、ばかたれ」
悪態をつきつつ、気息を整える。間合いは2間(6メートル)。辰馬の足なら一足の距離。
たん、と床を蹴る。
一撃、当てればなんとかなる。なんとかなるし、なんとかする!
振りかぶらずに、ごく小さいモーションから、寸打を打ち込む。ニヌルタはそれを軽く受け止め、馬鹿にしたようにため息を・・つく寸前、飛び退こうとするが襲い。
「文字通り、全身全霊だ・・食らいな、シャクティ(力)!!」
準備も詠唱も必要ない、ただ自分の命を力に変換して、流し込み、叩きつける。盈力の総量という点において比類ない辰馬がいざというときに使いうる、対単体の最大火力。天雷ともいうべき純然たる破壊のエネルギーは、圧倒的強者、ニヌルタ相手にも確実にダメージを与えた。問題は辰馬の命。命を触媒としている以上そこが一番大きいわけだが、今ここで出し惜しむ場合ではない。
「か・・ぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ッ!?」
竜の断末魔ともいうべき絶叫を上げるニヌルタ。しかしなお倒れない。
両者、離れる。
辰馬もニヌルタも、互いに膝をつく。
今のでやられてくんねーか・・いかんな、もう一発ぶんの力は・・たぶんない・・。
「本当に・・最高に愉快ね、新羅辰馬・・。あなたが一番の安牌だったはずなのに、まさかこんな隠し球をもってくるなんて・・」
「あんたが詠唱なしで力を使ってたのを見てな。命を削ってるんだろーって気づいた。ま、おれのは自前だけど、あんたのは人のもんだよな? そーじゃなきゃあんなにボンボン、気軽に使えない」
その言葉に、ニヌルタは薄い笑みを返して答えとする。
「それはそこにいる竜の巫女さまに聞くといいわ。そろそろ『跳べる』ようだし、じゃあね。また会いましょう」
辰馬がどうにかしてもう一撃のシャクティを絞り出す算段を考えているうちに、ニヌルタは闇に溶けるように消えた。
逃げた・・つーか見逃してもらった、か。おれもまだまだだな、もっと強くならんと・・。
呪縛から解けた三人が立ち上がって、辰馬に寄ってくる。安心した辰馬の身体に、反動が来た。全身の気道から汗が噴き出し、膝がガクガクと震える。脳がひりつき、胸が割れ鐘をうつ。また、片膝ついたが。それでも気分は晴れやかだった。母が自分を愛してくれていた、それがわかっただけで、ほかはいらない。
・
・・
・・・
「お疲れ様、ニヌルタ」
「あら、心外。そんなに疲れたように見えるかしら、わたしが?」
かけられた声に、ニヌルタはまだ余力のある態度で答えてのける。新羅辰馬のシャクティで受けたダメージはかなり大きかったが、彼女の命にかかるダメージのほとんどは『祖竜』が肩代わりする。それでもこれだけの威力を通してくる新羅辰馬という少年の潜在能力には、驚嘆するしかないが。
「新・学生会はまだ始まったばかりだもの。早々にあなたに欠けてもらっては困るわね」
ここは蒼月館学生会室。
執務机に座り、色気のない縁めがねをくいと持ち上げて。学生会長・
「それは、わたしを正規の学生会メンバーとして認めてくれる、ということかしら? それは嬉しいこと。今後ともよろしく、会長さん」
ニヌルタもニヌルタで、底の見えない笑顔を浮かべてのける。
文の傍らに控える栗毛の少女、当代の聖女ラシケス・フィーナ・ロザリンドは、ニヌルタという怪物にうすら寒いものを感じる。文はこの魔女を飼い慣らせるつもりのようだが、ラシケスにはそれが可能とは思えないのだった。そもそもが、男子排斥という文の思想に本気で追従する女子がどれほどいるのか。文への恩義から彼女を見限ることの出来ないラシケスだが、女尊男卑の管理社会に希望があるとは思えない。
先代聖女の息子、新羅辰馬を思う。同級生であり、アーシェとのつながりがあるとはいえ、そこまで親しくはない。だが差別や格差、旧弊といったものを打破する精神には、共感するところがある。聖職者は往々にして保守的なものだが、その中にあって開明的なラシケスとしては今後辰馬のような人材にどんどん排出して欲しいところだ。神の否定という辰馬の命題に関しては、うかつなことは言えないわけだが。
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