ネネルの涙 後編

「エセリア=フラザント=レーヌ=ド・リオネングは、私に喜んで身体を捧げたのだ……この私、ディオネネル=ズゥ=マシャンヴァルにな……。たまに表に出る、もう一つの人格……それがエセリアだ。しかしそれも何年保てるかは自身でも分からぬ……」

「つまり、いつかは姫さまの魂は天国に行っちまうってことか?」

「そういうことだ。エセリアの魂が浄化されるまで……と言った方がいいかもな。だから私自身、故郷を捨てて、この地で人として生きようと決めたのだ」


そう言うとネネルは突然、俺の身体をぎゅっと抱きしめた。

彼女の髪から、柔らかな花の香りが俺の鼻腔をくすぐる。ジールがつけてた香水みたいなキツい匂いじゃない。ずっとこの場所にいたくなるような、懐かしくて温かな、そんな香り。


「エセリアは……あいつはもっと生きたかったのだ。自分の足で立って、自分の手で書物を読んで。そして姫として、一人の女の子として生きたかったのだ……だから私は彼女となって生きていこうと決めたんだ……。あいつは最期に笑顔で私に言ったんだ……『これからの私になってくれて、ありがとう』って……」


胸に顔を埋めたネネルの肩が、小さく震えていた。

「お願いラッシュ……この身体をぎゅっと抱きしめてくれ」

言われるがままに、俺は彼女の小さな身体を抱きしめた。

「ときどき、怖くなるんだ……私のしたことはエセリアにとってよかったのかって」

「姫さんは死ぬときは笑顔だったんだろ?」

「だが……いつか私の中からエセリアがいなくなった時、私はこのままエセリアとしてやって行けるのかって……怖いんだラッシュ! だから……」


庭園で会ったおてんばな女とは全く違っていた。これが……本当のネネルなのかは俺には分からない。

小さな、少しだけ意地っ張りで、とっても泣き虫な女の子の姿がここにはあった。

「強く抱きしめてくれ……震えが、この涙が止まるまで……」



……………………

…………

……



ネネルと別れても、あの温もりはしばらくの間俺の胸に残り続けていた。

アイツは別れ際にこう言ったんだ。「ラッシュ、お前が好きだ」って。

しかし俺にはこういう感情はイマイチ芽生えたことがないんで……あ、いや。以前ジールに顔をなめられたときに感じたときくらいか。

俺は興味ないっつーか……身分が違いすぎる。お前はお前でそっちの世界を生きるんだからって答えたんだが、その思いはネネルもエセリアも一緒だとのこと。マジかよ。ってことは俺は二人の姫様に好かれちまっているのか……

「たとえお主が興味なくとも、妾はずっと思い続けているぞ」って、別れ際にあいつは……俺の鼻先にキスしたんだ。

なんだろう、すっげえ複雑な気持ち。

つまりはさっきまでここにいたのは、これから刃を交えることになるであろうマシャンヴァルの女であって、しかも余命残り僅かのこの国の姫であるエセリアを合意の上食っちまった。だけども姫の意識は当分の間生き続けているって……もうそこからワケわからねえし。

とどめに俺はあの女に好きだって言われたしで。でもこの前習ったしな。祖とする神様が違うから結婚したって子供もできねえし、それこそ無駄じゃねえかって。


「ラッシュ、忘れたのか? リオネングには素敵な愛の物語があるということを」

「なんだ、その素敵な物語ってのは」


ネネル……いや、エセリア姫が馬車に戻る直前俺に言った言葉だ。


「エイセルとディナレの物語じゃ」


満月の光に照らされた彼女の姿に、

俺は……その時、ちょっとだけ、


心臓の鼓動を操られた感じがした。

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