第73話 いつまでも…

 引っ越し作業を終えて家族で夕食をとって家に帰り、疲れていたけどなんとなく今日が名残惜しくて、ダイニングテーブルに腰をおろして休憩することにした。


「ふぅ……」

「お疲れ様です、千鶴さん」

「うん、那由他も……那由他ちゃんも、お疲れさま」

「え? ど、どうしたんですか、急にそんな」


 私たちが結婚してから、長い時間がたった。今日、私たちの子供ー愛子(あいこ)が大学進学の為に家を出て行った。もちろん女同士なので養子だけど、本当の子供として育ててきた。色んなことがあった。だけど今思い返せば、どれもいい思い出だ。

 那由他ちゃんが23歳、私が32歳の時に腕に抱いたあの小さな子が、一人前になって家を出ていく。私は50歳になっているのだ。年をとったな、と思う。


 ある程度愛子が大きくなったころに、ちゃん付けはやめてと言われた。30を超えてちゃん付けをされるのが恥ずかしくなったらしい。当時の私にとっては何も変わらない可愛い女の子だったけど、子供が呼び方を真似するのもあってちゃん付けはやめた。

 だけどもう、いいだろう。愛子はもういないのだ。私にとってはいつまでも可愛い女の子だからずっと、那由他と呼び捨てにしてもちょっとした違和感が心の中にあった。


「人間はね、一定以上年を取ると今度は子供になっていくらしいよ。だから、もうちゃん付けで呼んでもいいでしょ?」

「えぇ……いや、さすがに恥ずかしいですって。もう40超えてるんですよ?」


 那由他ちゃんは私の隣に座って、そっとグラスを並べながらそう苦笑気味に否定した。


「ありがとう。珍しいね、那由他ちゃんからお酒の用意をしてくれるなんて」

「今日はなんとなく、飲みたい気分なんです。と言いますか、飲むの自体久しぶりじゃないですか」

「まあ、愛子がお酒の匂いが好きじゃなかったしね」

「はい。ですから、今日までいい親、お疲れさまでした、と言う意味でのお酒です」

「那由他ちゃんも、お疲れさまでした」


 お互いに軽く頭をさげあって、目をあわせて笑いあう。穏やかな時間。愛子が大きくなってからは多少時間に余裕はできたとはいえ、どうしたって中心は愛子だった。でも今日からまた二人だ。もちろん気持ちの上で愛子と言う大事な存在はいるけど、生活の中心ではなくなった。

 心の中に寂しさはある。やりきったような充実感や、目的を失った喪失感や、言葉にできない色んな感情がある。だけど、悪い気持ちではない。


 これからはまた、二人の生活に戻るのだ。あの頃とは何もかもが違う。私は年を取った。昔に比べて体力はもちろん、色んなことができなくなった。もう那由他ちゃんをお姫様抱っこなんて考える事すらできない。那由他ちゃんの一挙手一投足に慌ててドキドキしてしまうようなこともなくなった。だけど、不思議なくらい落ち着いた気持ちの奥に、私の心の土台に、那由他ちゃんへの愛がある。

 私から見て、那由他ちゃんも年を取った。目じりの皺や、皮膚の張り、仕草や態度のひとつひとつ。那由他ちゃんは成長して変わっていき、私と同じだけ年をとった。それはわかる。那由他ちゃんは母親としての貫禄だってある。だけど不思議なくらい、こうして彼女と二人で過ごせば私の目には可愛らしい少女に見えるのだ。

 だから、少しだけ昔みたいに、親としての距離感ではなく、近い距離を測りなおしたっていいだろう。


「で、話を戻すけれど、ちゃん付けそんなに嫌? 外では呼ばないけど、二人の時くらいはいいでしょう? 自分はずっと呼び方も何も変えていなかったんだから」

「そう言われると。でも、やっぱり恥ずかしいです。それに今からそんなことして、愛子が結婚しておばあちゃんになっても呼ぶつもりですか?」

「おばあ、ちゃん、って呼ばれるのはいいんでしょう?」

「もう……わかりました、降参です。好きに呼んでください。もう、千鶴さんはいつまでたっても、変わらないんですから」


 目を見ながらなおもお願いすると、呆れたようにしながらも那由他ちゃんはそう了承してくれた。お酒を入れてくれたので、受け取って口をつける。


「ありがとう。でも、そうかな? これでも年を取ったつもりだけど」

「もちろんそうです。とっても素敵なお年の召し方をされていると思います。でもやっぱり、お話の仕方とか、その悪戯っぽい目とか、昔と変わらず、その……とても、好きだな、と思いました」

「なに照れてるの、今更」


 昔はあんなに毎日大好きと言っていたのに、何をいまさら、好きと言うだけで照れているのか。

 那由他ちゃんは自分も口をつけて、用意したおつまみのナッツをつまみながら私にジト目を向けてくる。


「今更って、今更だから照れるんじゃないですか。なんだか急に、恋人みたいな顔をして」

「那由他ちゃんも、そんな気持ちでお酒を用意してくれたんじゃない? そんな気持ちが全くなかった人だけ、手をあげてください」

「……もう、意地悪なんですから」


 那由他ちゃんもまた、私の軽口に昔ほど簡単にときめいたり動揺したりはしない。普通に微笑んで、意地悪だなんて言う。でもそんな冷静な対応も、今は愛おしい。

 今座っている席だってそうだ。四人掛けのテーブル席で、いつも私と那由他ちゃんははす向かいで愛子を真ん中にした三角形だった。でも今、当たり前みたいに那由他ちゃんは私の隣に座った。

 那由他ちゃんだって、今日までと違う気持ちになっているから、そうしたのだろう。


 私はカップを空にして那由他ちゃんに差し出す。何も言わずともおかわりを注いでくれた。


「ありがとう、那由他ちゃん」

「いえいえ。……今日から、また、よろしくお願いしますね」

「うん。こちらこそ、よろしくお願いします。那由他ちゃん、愛してるよ」

「ふふ。そう言ってもらうのも久しぶりですね。はい、私も愛してますよ」


 那由他ちゃんは笑ってからそう応えてくれた。その優しい微笑に、包み込むような温かさに、胸が温かくなる。

 思いを伝えあって、どきどきすることなんてない。もはや私たちの間でそれは当たり前のことだから。だけど、言葉にすると嬉しくなる。もっとたくさん言っておけばよかった気にさえなるけど、愛子に聞かれたらさすがに恥ずかしいから、やっぱり無理かな。


「那由他ちゃん、明日も休みでしょ?」

「はい、そうですね。何かしたいことでもあるんですか? 朝、何時に起きられます?」

「もう愛子はいないんだから、朝からちゃんと起きてしっかり朝ごはんを用意してあげる必要もないんだよ。だから、寝坊しよう」

「え?」


 突然の私の提案に、那由他ちゃんはきょとんとした。その少女みたいな仕草にちょっと笑ってしまう。ほんとに、いくつになっても可愛いんだから。

 ちょっと前から、時々考えていた。愛子が家をでてから、どんなふうになるのか。どんな家庭にしようかと。寂しくて静かなのは嫌だ。元々私たちは二人だったのに、二人に戻っただけで急に寂しくてしょんぼりしてしまうなんて、少しの間でももったいないじゃないか。


「朝からだらだらして、お昼過ぎに起きて、ちょっといい服をきて、デートをしよう。もちろん食事は外食。たまにはハンバーガーなんてどう?」

「そんな、若者みたいなことを」

「何を言ってるの。まだ私、50歳だよ? 人生100年。まだまだ仕事だって続けていくし、これからも那由他ちゃんにはずっと隣にいてもらうんだから、年寄ぶってたら飽きてしまうよ。親業は終わったんだから、また仲良くやっていこう」

「えぇー……」

「嫌?」

「まあ……確かにあんまり食べる気にならないとはいえ、もう何年も食べてませんし。その、隣にいるのは当たり前ですし。構いませんけど……」

「ありがとう」


 だから、那由他ちゃんと二人でも楽しめるように、明るく行こう。それが当たり前になるように、最初は少し騒がしいくらいに。人生はまだまだ続くんだから。

 那由他ちゃんは私の切り替えの早さに少し引いていたみたいだけど、また恋人らしくなるのを嫌とは言わなかった。


「那由他ちゃん、目を閉じて」

「はい」


 素直に目を閉じて少し身を寄せてくれる那由他ちゃんにキスをする。那由他ちゃんの肩に手をのせ、肩を抱く。


「ふふ。キスも久しぶりだね」

「いや、キスはしてるでしょう」

「でもこんな風に、する前に気持ちを盛り上げてするのは久しぶりでしょ?」


 小さい愛子の世話もあり、那由他ちゃんとのベッドはその頃から別になった。それからもしていたけど、愛子に一人部屋をあげたと言っても隣だし、さすがに愛子がおおきくなってきたら夜更かしも増えてそう言う雰囲気がなくなって何となく回数が減り、最近ではご無沙汰になっていた。今回は修学旅行に愛子が行った時っきりなので、もう一年以上してない。

 それでも結婚してすぐにできた習慣はなくならず、挨拶として毎日一回はキスをしていたけど、本当に形だけで寝る前に軽くするだけだ。あんまりして、したくなったら困るから意図的にそっけない感じにしていたのは自覚している。那由他ちゃんはそれにどう思っていたのかわからないけど、私は昔ほどではなくても、那由他ちゃんへの欲がゼロになったわけじゃない。

 でももう遠慮することはない。出てすぐと思われるかもしれないけど、でも今日だからこそ、気持ちを切り替える必要があると思う。今日いつも通りだと、変えるタイミングを失ってしまうからね。


「ん、えっと、するんですか?」

「明日お寝坊するってことは、今日は夜更かしするってことだからね。これからは沢山、寂しさを感じないように一緒に寝よう」

「寂しさって。別に隣でずっと寝てたじゃないですか。今更すぎません? と言いますか、急ですし」

「え……い、嫌なの!?」


 普通に喜んで受け入れてもらえると思ってたばかりに、さすがに驚いて声をあげてしまった。まあまあアブノーマルなのも好きで愛子が来るまでママプレイどころか、最終的に色んなことにはまってたような那由他ちゃんが、そんな……。

 驚愕を隠さない私に、那由他ゃんは呆れたような怒ったようなしかめ面になる。


「嫌なんて言ってないじゃないですか。もう。私だって、愛子がいなくなるのは寂しいですけど、それはそれとして、また二人っきりになるんだって思ってましたし、そういうことだって意識してました。ですけど……」

「生理はまだ先じゃなかった?」

「違います。そうではないですけど……その、さすがにこんなにすぐだと思ってなかったので、下の処理が……と言うか、こんなこと言わせないでくださいよ。千鶴さんだって女性なんですから、察してください」

「えー、ごめんごめん。お詫びに、私がしてあげるから一緒にお風呂はいろうか」

「は? いや。それはちょっと」


 那由他ちゃんは普通に嫌そうに断ってきたけど、ちょっと待ってほしい。昔、那由他ちゃんがママプレイにはまってたときは無理やり丸剃されたことすらあるのに、純粋な親切心で言ってる私を拒絶するとか理不尽じゃない?

 と言うのをオブラートに包んで言うと、那由他ちゃんはさすがに顔を赤くした。


「そ、そういう昔の黒歴史を出してくるのは反則ですっ。あれは、その、気の迷いといいますか」

「さすがに愛子が来てからはママぶることなくなって、正直ホッとしたよね」

「さすがに、ホントに乳飲み子のお世話しながらあんなことしてたら頭おかしくなりますよ。私の胸からじゃないとは言っても、ミルクあげてるわけですし。と言うか、ホッとしたってなんですか。している時は千鶴さんだってノリノリだったじゃないですか」


 那由他ちゃんは顔を赤くしつつもそう不満そうに顔をゆがめた。あー、可愛い。こういう顔本当に久しぶりに見るけど、子供っぽくてほんとに可愛い。懐かしいし、頭なでなでしてあげたいけど、ここで機嫌を損ねてはいけないので我慢する。


「それはそうだよ。だって那由他ちゃんのことが大好きだったからね。もちろんいまもだけど、だからどんな那由他ちゃんだって全力で受け止めて愛するよ」

「う……またそんな、私ばっかり悪者にして」

「悪者にはしてないでしょ。怒らないで。可愛いね」

「……言っておきますけど、私が特殊性癖だとして、それは千鶴さんのせいですからね。千鶴さんが全部悪いんですからね」


 むくれる那由他ちゃんはそうさらに私を責めてくるけど、まあおおむねその通りだ。否定できない。特殊なのを植え付けた気はないけど、小学生時代にその気にさせて好奇心を育てさせてしまったのは私だ。

 でも、それこそすっごい今更だなぁ。だいたいそう言うところも好きって言ってるのに、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。今回指摘したのも、私のことを剃毛しておいて、私の剃毛は受けられないのか、ああん? と言うことで性癖そのものを責めた気はないんだけど。


 ちょっと面倒になってきたので、私ははいはい、と那由他ちゃんの頭を撫でて誤魔化すことにする。


「はいはい、全部私が悪いって。わかってる。だから責任とって、これからまた何でも受け入れるからさ。一緒にお風呂行こうか」

「……もう。本当に、仕方ないですねぇ。わかりました。結局、私は千鶴さんに勝てないんですから。諦めます」


 那由他ちゃんは眉尻を下げてから笑って、そんな風に私の手を受け入れたけど、その言い方がおかしくてちょっと笑ってしまった。


「なに、勝つって。勝ち負けなんてないでしょ」

「だって、よく言うじゃないですか。惚れた方が負けだって」


 それは多分、私の方が負けてる。でも、那由他ちゃんの方が負けてるって思うくらい私に惚れてると自覚してくれていることはにやけてしまうほど嬉しいから、それには突っ込まないことにして最後のお酒を飲み干した。


 私は那由他ちゃんと久しぶりに愛し合って、そして宣言通り若い頃みたいなルーズでいい加減な休日を過ごした。これからもずっと、こんな風に続けていけるよう努力しないといけないな。そう、改めて思った。


「千鶴さん、何を難しい顔をしてるんですか?」

「ん? まあ大したことじゃあないけど、那由他ちゃんとずっと一緒に、一生幸せにいたいと思ってさ」


 夜になって寝る前、そんなことをぼんやり思ってるとテレビを見ていた那由他ちゃんがちらっと私の顔を見てそう尋ねたので、軽くそう答えた。すると那由他ちゃんは一瞬だけ驚いたみたいに目を見開いてから、とろけるように微笑んでベッドの上に放りだしている私の手と手を重ねた。


「ふふ。本当に、大したことじゃないですね」

「え?」

「だって、私たちは一緒にいられるならもうそれだけで幸せでしょう? 今更、他にいりますか?」


 ぎゅっと手を握りながら言われた、その当たり前の言い方に笑ってしまった。その通りだ。色んな幸せがある。美味しいものを食べる幸せ、那由他ちゃんと色んな時間を過ごす幸せ、愛子がいてくれる幸せ。数えきれないくらいの幸せがある。

 だけど私の幸せは、那由他ちゃんがいてくれることが前提条件なんだ。お互いにお互いがいなきゃ幸せじゃなくて、いてくれたらもうその時点で最低限の幸せはもう約束されているんだ。


「ふふ。あはは! 那由他ちゃんは賢いねぇ」

「ちょっと、やめてくださいよ。一緒に寝るのやめますよ」


 なんだかおかしくなって笑い出しながら那由他ちゃんの手をひいて抱きしめ、ベッドに転がるように上体を倒すとテレビが見えなくなるし姿勢も苦しいからからか普通に文句を言われた。

 だけど、そう言われている今さえ、幸せだ。当たり前の幸せすぎて、見過ごすところだった。そうか。私は、那由他ちゃんと出会って、結婚して、ずっと、一秒も逃さず、幸せだったんだ。そしてこれからもずっと。


「那由他ちゃん、キスしよう。顔向けて」

「もう。勝手に人を倒して、勝手なんですから」


 突然の私のお願いに、那由他ちゃんは文句を言いながらも微笑んで素直に従った。唇を重ねて、私は幸せの味を噛みしめた。

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恋に落ちると言うこと 川木 @kspan

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