第34話 那由他母視点 大罪

 那由他を産んですぐに、少しだけ気がついてはいたのだ。この小さくて頼りない赤ん坊が、別に特別子供が好きでもなかったはずなのに、とても愛おしいと感じていることに。


 夫の里田京(さとだおさむ)さんが、子供ができない体であることを知ったのは結婚から4年目のことだ。私は結婚してすぐにでも子供が欲しかった。京さんはご両親が共働きいつも夕食がばらばらで寂しい思いをしたから、子供と日常的に食卓を囲むような暖かい家庭を築きたいと結婚前から言っていた。

 私はそれを叶えてあげたかった。だけどなかなかできなくて、子供は授かりものだから、と言う京さんには黙って検査をした。私は普通に病院でうけて、何も問題がなかった。京さんはもしそうだとして言えないから、こっそり京さんが寝ている隙に病院ではなく郵送でしたそれは、百パーセント正確ではなく目安程度と言うことだったその検査は、結果、0パーセントだった。誤差があったところで、絶望的なその数字。


 京さんの夢を叶えられないとわかってすぐに、私はこのことを京さんには伝えず、一人で子供を作ろうと決めた。もちろん不特定多数で病気をもらう訳にはいかないし、何かあって知られてしまって京さんを傷つけてはいけない。だけどちょうど、京さんが尊敬し憧れる仲良しの高校からの先輩がいた。私はその先輩が大嫌いだったけど、京さん先輩みたいな子供なら喜ぶだろうし、彼は京さんの子供の父親になれるなら、と応えてくれた。

 たった一回で成功したそれ以降、先輩とは一切連絡をとっていないし、ちょうど転勤の話があったらしく京さんも会うことがなくなった。それでよかった。何もかも思い通りで、あとは私が黙ってさえいれば、幸せな家庭が作れるのだと思っていた。


 私は元々子供好きではなかったどころか、どちらかと言えば苦手だった。だけど京さんが自分の子だと信じて可愛がる、京さんの子供なら、きっと愛せるだろうと思えた。京さんのことは本当に、大好きだったから。彼の為なら、世界一嫌いな男に抱かれることすらできるくらいに。


 でも、那由他が生まれて、心から笑える幸せな日々はほんの少しの間だった。首が座り寝返りをうち、少しずつ成長していく日々は忙しくて大変で追われるような目まぐるしさだったけれど、そのすべてが幸せだった。

 だけどある日、はいはいができるようになって、そして、私の目を見て、指をつかんで、『まま』と発声したその時。気が付いてしまった。京さんのことを関係なく、私はこの子を心から愛していて、愛おしいわが子として、世界で一番幸せにしてあげたいと感じていることに。


 そしてそんな子に、産まれた瞬間から『不義の子』と言うとんでもないレッテルを背負わせてしまっていると言う、私の大罪を自覚した。もし、将来それを知ったら? いつか愛する人ができて、それを理由に結婚できない可能性もあるのでは? 


 こんなこと、誰かに相談できるはずがない。他の何でも相談できる、世界一頼りになる愛しい京さんに言えないことなのだから。そして同時に、京さんへの裏切りでもあることにも、今さらになって苦しんだ。

 あの時は、それしかないと思った。京さんを傷つけずに、幸せな家庭をつくる唯一の方法で、自分さえ少し我慢したらいいことだと自己犠牲だのようにすら思っていた。血液型は同じだし、黙っていたらわからないのだと、そんな身勝手なことを考えていた。

 私の裏切り知った時、どれだけ傷つくだろう。その時、那由他をどう思うだろう。那由他は? 那由他は、私をどう思うだろう。


 そう悩み、私は結論をだした。可能なだけ黙っていよう。本当に死ぬまで知られなければ、それはそれでいい。だけどもし、知ってしまった時のために、私は那由他のいい母親であってはならない。

 全身全霊をかけて愛しているのだなんてことが伝わらないようにしなければならない。もし私の愛が伝わってしまえば、那由他が真実を知った時、私を恨みにくくて苦しむかも知れない。だから、その時に備えて、憎んでしまえるような母親でいなくてはならない。


 そう思って、これまでやってきた。もちろん知られずにいる可能性もないことはないのだから、丸っきりおかしなほど無関心を装ってはおかしい。それに那由他が苦しんでいるときはついつい、素がでてしまいそうになるのは仕方ない。

 だから褒めるとか言動は基本的には普通にして、過剰なスキンシップやなんでも肯定することだけはしないようにしていた。実際に那由他はなにかを感じていたのか、京さんには素直に甘えて聞き分けはいいのに、私には反抗的な面もみせてくれていた。


 個人的には、それすら可愛らしいとすら思う。我が儘ぶって、悪童ぶって、それでも隠しきれない善性が、血がつながっていないはずなのに仕草のあちこちにある京さんらしさが、幼い頃の私に似た顔つきが、何もかも愛おしい。

 先輩に似て発育はよかったけれど、それはそこまで気にならなかったし、京さんが憧れた運動神経の優れた体に似たならそれこそ、我慢した甲斐があるというものだ。


 そして那由他が可愛くて愛おしいほど、京さんと仲良くして、幸せな家庭であるほど、私は罪悪感にさいなまれ、同時にこの幸福が消えてしまう恐怖に襲われた。

 それでも何年もそんな感情を抑圧していれば、胃が痛くなるのにも、苦しみで悪夢を見るのにも、段々体がなれていった。



 成長した那由他は成績も文句なく、常にほとんど満点だった。がんばり屋で、席につくのが苦ではなく、自分から宿題をみてほしいとせがむような子だから当然だ。

 那由他が誇らしい。もちろん、誇らしいほど、苦しみも沸き上がるが、それはもうなれたものだった。最近では時々冷や汗がでるほどの胃痛に襲われることもあったが、自分の罪のせいで家族に心配をかけることはできないから、診断はうけなかった。


 だけと那由他の卒業が近づくにつれて、少しだけ不満があった。那由他はその恵まれた体躯に反して不思議と運動が苦手だった。意識上で苦手なのは仕方ないと思えた。私は京さんほど運動音痴ではないけど、別に好きでもないからだ。だけど跳び箱もろくに飛べず、大縄飛びで足を引っ張るのはさすがにやりすぎだろう。やる気とか以前に鈍すぎる。

 もう少し頑張れないのか。と思わず苦言を呈してしまった私に、他ならぬ京さんが言うのだ。僕に似たなら仕方ない。運動なんかできなくてもいいさ、と。


 それを聞いた瞬間、私の中で何かが溢れてしまった。学生時代、結婚して子供ができたら、先輩みたいにスポーツが得意な子に育てたいね。と言ったのに。それを覚えていたから、真っ先に大嫌いな先輩が浮かんだのに。


 それじゃあ、どうして私は那由他を産んだのよ!


 そう、言いかけて咄嗟に口をふさいだ。八つ当たりだ。京さんにそんなつもりはなく、もう忘れてるくらいの何気ない雑談に過ぎなかった。ただ私が、大好きな京さんの言葉だから覚えてただけだ。

 それに、どうせ他に人選はなかった。京さんに自分かバラしたり私に脅しをかけるでもなく、この後ろ暗い取引を受けるような人は先輩しかいなかったのだから。


 だけど口はつぐんでも、涙がとまらなかった。ずっと閉じ込めておいた感情が、行き場のない、名前もない混沌とした感情が涙となった。それと同時に、私は言葉がでないほどの苦痛を感じた。

 私は京さんに抱き上げられるようにして車にのせられ、そのまま病院に行かされた。


 肉体的にも精神的にも、病名がつけられた。もはや隠しようがない。私は限界だった。いや、とっくに限界がきていたのかもしれない。車のなかで、口から血が出た時に観念した。何もかもが終わってしまったのだ。


 私は京さんに何もかもを白状して、離婚してほしいとお願いした。知られてしまった以上、京さんはもちろん、那由他にも合わせる顔がない。

 だけど首を縦にはふってくれなかった。何故かそれに、腹の底から怒りがわいてきた私はベッド脇に飾ってある花瓶を床にたたきつけた。何をしているのか自分でもわからなくて、ただ叫び声をあげていた。


 これがなんの感情によるものなのかわからない。なにもわからない。ただ苦しい。なにもかも忘れたい。死にたい。那由他なんて産まなければよかった。全てをやり直したい。那由他に会いたい。那由他に謝りたい。

 大好きなはずの京さんが、何故か憎らしくて仕方ない。彼さえいなければ、こんな苦しみはなかったのに、京さんはいまも那由他と暮らしているのだ。どうして私は会えないのか。妬ましい。

 私なんかが会うべきではない。いますぐ死んだほうがいい。


 そんな風に思考が散らかり、自分で自分が制御できないまま、私は体の治療が終わっても病院から出られないまま、日付の感覚もないまま日々を過ごした。


 この時の私はきっとくるっていたのだろう。だけど少しずつ、眠りから覚めるように時々思考がはっきりすることもあった。そして季節が変わるころには、自分がいつの間にか精神病棟にいることに気が付いていたし、京さんが根気強く私のお見舞いに来て支えてくれていることにもわかっていた。

 だけどもう、申し訳なかった。ただただ、申し訳ない。このまま消え去りたくて、だけどそんな勇気はなくて、京さんに会えたらそれだけで嬉しくて、那由他の話を聞けるのが楽しみで、時々不安になってしまうけど、生きていたいと思えるようになった。


 お医者様から、ずいぶん落ち着いてきて、そろそろ外出許可が出せるようになったと言ってもらえるようになった。外出にもなれれば、近いうちに退院だってできるそうだ。もちろん薬は当分必要になるだろうけど、社会復帰可能なようでほっとする。

 今まで通りになんて贅沢はのぞめないにしても、このままではいけない。お金だってかかっているし、京さんに遠くの病院まで頻繁に来てもらっているのも申し訳ない。那由他とはもう会えないなら、せめて働いて仕送りくらいはしたい。


 そんな風に、少し前向きに、今後のことを考えるようになった。そんな夏の日。お盆の時期、京さんがお見舞いに来てくれた。それは嬉しい。ここは電話ができないから、手紙で話すことしかできないからちゃんと外に出てからのことを話しあいたかったから。

 だけど挨拶を交わしてすぐの京さんの言葉に時が止まった。


「実は今日、那由他も来ているんだ」

「……え……?」


 そして京さんが子供を作れない体なこと、血がつながっていないことも全部話したそうだ。どうして? 前回会った時も手紙でもそんなこと言っていなかったのに。急すぎる。


「会ってくれるかな?」

「あ……」


 会いたくない!!!

 そう叫びそうになった。だって、那由他にすべてを知られてしまっているなら、私を嫌っているに決まっている。わかっている。その為に、恨まれるために意識して生きてきたのだ。覚悟をしていたつもりだったのだ。


 でも、全然できていなかった。那由他に嫌われたくない。那由他を泣かせてなじられて、想像するだけで気持ち悪くて吐きそうになってくる。

 わかっている。その怒りを受け入れるのも、私の受け入れるべき贖罪の一つで、当たり前のことだ。怖い。泣きそうだ。体が震えてくる。会いたくない。いやだ。


「体調が悪いのか? 那由他にもその可能性は伝えているし、無理強いはしないが」

「う……」


 口元を押さえてしまう私に、京さんがそう優しく声をかけてくれる。

 怖い。たまらなく怖い。それでも、私の奥底から正反対の感情もまた湧き出るのだ。


 ……会いたい。那由他に会いたい。話を聞いているだけでは、全然満足できない。顔が見たい。元気にしているのか。あれからまた背は伸びているのか。声が聴きたい。話がしたい。

 那由他が私を憎んでいてもいい。那由他に会いたい。怒鳴り声でもいい。那由他と話したい。殴られてもいい。那由他と触れ合いたい。


 那由他に、会いたい。


「あ……会う、わ。那由他に、会わせて」

「大丈夫なのか?」

「え、ええ……大丈夫。急だったから、少し気持ちが高ぶっただけよ。いつかは、必要なことだもの」


 京さんが席をたち、一度部屋を出る。深呼吸をして、少しでも気持ちを落ち着ける。水を飲む。ふうふう。

 那由他に会う。会える。那由他に会えるんだ。喜びが恐怖の隙間からはい出るように出てくる。どんな目に会うとしても、那由他に会えるんだ。


「お。お邪魔します……。あ、お母さん。その、ひ、久しぶり、だね。えへへ」

「那由他……那由他!」


 気まずそうにはにかんで、頭を搔きながら部屋に入ってきた那由他。その姿を見て、我慢が出来なかった。スリッパをはくのも忘れて、私がベッドから飛び降りた。

 ろくに動いていなかったから、着地もうまくできず思わずそのまま膝をついた。痛い。でも関係ない。顔をあげて、那由他にもう一度近寄ろうとして、先に那由他が抱き着いてきた。


「お母さん! ……会いたかったっ」

「那由、他……」


 ぎゅうっと、服が汚れるのも気にせず膝をついて私を抱きしめた那由他。その強さに、私は涙が出た。まだ私を、お母さんと呼んで抱擁してくれるのか。


「私も、会いたかったわ。ごめん、ごめんなさい、那由他。本当に、最低な母親で、ごめんなさい! あなたを、愛してる。本当に、愛してるの。ごめんなさい。今更、本当に、ごめんなさい。ああ、会いたかった。顔を、顔を見せて」


 支離滅裂になっているのがわかっても、もうこの感情をどうしようもない。私は那由他の頬を手でさするように持ち上げる。那由他が力をゆるめてくれて、正面から顔をあわせる。


「少し……痩せた?」

「そうかな? わからないけど。……と言うか、お母さんの方がやせてるよ。大丈夫? 病気、どうなってるの?」

「大丈夫よ。あなたの顔を見たら、元気がでてきたわ。……本当に、ごめんなさい」


 もう、それしか言うことができない。何を言うべきか、頭の中が散らかっていてわからない。ただ、那由他に申し訳ないとしか言えない。

 そんな私に、那由他は微笑んだ。


「……もう、謝らないでよ。血がつながってないのびっくりしたけど、でも、お父さんは関係ないって言ってくれたよ。だから私は、いいよ」

「い、いいよって。そんな軽く」

「えっと、じゃあね、お母さんのこと大好きだから、許してあげる。だから、いいよ。私のこと、愛してるって言ってくれて、嬉しいから」 

「っ、那由他……っ!」


 それから私は、目が溶けてしまうくらい泣いた。那由他に頭を撫でられて、どっちが親かわからないくらい泣いてしまった。それから、たくさん話をした。お盆期間、ずっといてくれた二人と、たくさん話をした。

 まだ、私は京さんの妻で、那由他の母親でいられる。その幸せをかみしめた。

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