第37話 花子
「朝から花子が元気がないと報告を受けて、検査したらドラフル陽性だったの」
「そんな……もしかして、俺がうつしたのですか? コカトリスが脱走した日、ワイバーンの世話もしていました……」
「分からないし証明もできない。それは考えたらキリがないこと。大事なのはこれからどうするかよ」
檻の向こうでは花子が隅で縮こまっていた。
こんなに怯えている花子は見たことがない。彼女にしてみればいきなり檻に入れられ白い服の集団に見知らぬ場所に連れてこられたのだ。怖くないはずがない。
「花子……!」
名前を呼べば、反応してこちらを向いてくれた。目が合うと花子の震えがぴたりと止まる。俺だと気づいてもらえた、と喜ぶのも束の間、その目には元気がない。
〝陽性〟〝発症したら致死率七割〟。嫌なイメージが次々と湧き上がり頬を噛んだ。
「俺に何かできることはありますか?」
「コカトリスたちと同じ、世話と治療補助をお願い。花子、注射が大嫌いなの。さっきはどさくさに紛れて打てたけれど同じ手は無理。次に打つ時、なんとかなだめてちょうだい」
「分かりました」
花子は見るからに弱っていた。いつもだったら馬肉を貪って食べているのに、今はまったく興味をまったく示さない。点滴が命綱だ。二度目の注射も何一つ抵抗せず、されるがままだ。そんな彼女を俺は見ていることしかできなかった。
「花子、また明日来るから」
その日、やるべきことをやって花子に声をかけ、隔離室から出て行こうとしたら、背後から花子の弱々しい声がした。
戻れば花子がおぼつかない足どりで倒れそうになりながら檻まで近づいてきていた。そして、檻に頭を当てじっとこちらを見る。
『置いていかないで』
そう、目が訴えていた。
「相澤さん、お願いがあります。今日の夜、俺をここにいさせてください」
隔離室から出ようとしていた相澤さんは、俺の提案に驚いて眉をあげた。反対されるかもしれない。そばにいても意味がないなんて言われるかもしれない。でも何を言われても絶対に譲らないとグッと唇を引き結んで返事を待てば、相澤さんはふっと息を吐いた。
「怪我をしないこと、無茶をしないこと。いい?」
「はい!」
相澤さんから借りた寝袋で花子の檻の前に陣取る。檻越しに向き合って一緒に寝るなんてまるで、ウイスキーを飲みあったあの日のようだ。
「花子、元気になったらさ、またウイスキーを一緒に飲もうな」
返事はない。ただ静寂の中、花子が息遣いだけが聞こえる。うつらうつらと寝て、時折目を覚まし、花子を見る。ちゃんと生きていると確認してはまた眠りについた。
翌日も花子の容態は変わらなかった。
尾上さんが用意した特性馬肉ジュースも手をつけようとせず、ほとんど動かない。コカトリスたちの世話をしている最中も花子は大丈夫だろうかと気が気でなかった。気が散ってしまい、器を交換しようとして餌を床にぶちまけてしまうこともあった。
そして今日も花子と一緒に寝るぞと寝袋を抱えていたら、隔離室の扉からヌッと防護服をきた人間が現れた。
背丈からして相澤さんではない。一体誰だとゴーグルの奥をのぞき目を疑った。ヒゲだった。
「五十嵐……さん……? どうしてここに?」
「お前が今にもぶっ倒れそうだと相澤から聞いたからだ」
「でもワイバーンたちはいいのですか?」
「尾上さんたちに頼み込んできた。それよりお前だ。なんだその目の隈は。二日酔いした時よりもひどいぞ」
「だって……」
喉が詰まり、代わりに目からボロボロと涙が出てきた。
「花子を見ていないと……不安で不安でしょうがないんです」
目元を拭いたいのにできないまま、ゴーグルの中に水が溜まっていく。
「目を離したら、あのコカトリスみたいに死んでしまうんじゃないかと怖くて……だから……」
泣いていることがばれたくなくて顔を下に向ければ、ポンと頭に手が乗っかった。
「花子を心配な気持ちは分かる。俺も同じだ。だから今日は俺に任せて欲しい。何かあればすぐに呼ぶから、お前は寝るんだ。前も言っただろう? 俺を信頼して欲しいって」
嗚咽が込み上げてくる。何か言おうとしても言葉にならずただ黙って頷いた。
それからドラゴン病院の仮眠室で倒れ込むように寝て、目が覚めた時には朝の十時をすぎていた。
急ぎ防護服に着替え、隔離室に急げば午前中の作業はあらかた終わっており、花子の檻の前に五十嵐さんが立っていた。
「花子がお前が来ないと心配していたぞ。お前が花子を不安にさせてどうする?」
「すみません……」
「お前は相変わらず計画性がなく行きあたりばっかりで、どうしようもない」
「何も言えません」
「向こうみずで無鉄砲。でもだからこそ、そんなお前の気持ちが伝わるんだろうな。花子を見てみろ」
五十嵐さんが花子をちょいちょいと親指で指した。
「さっき、ようやく食べ物を口にしたぞ」
その日から花子の体調は少しずつ回復していった。最初は細かく刻んだ馬肉をようやく一切れ食べれるぐらいだったが、段々と食べられる量が増えていき、数日後にはいつもと同じ量を平げるまでになっていた。
そして花子が病院に担ぎ込まれてから、二週間が明けた。
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