第109話奏介と土岐と過去と現在
弾力がある何かを潰したような、鈍い音がした。はっとして我に返ると、目の前にはこめかみから血を滲ませて倒れている菅谷奏介がいた。意識は失っているらしく、動かない。
「う……うあ……わ、わたし……?」
震える手でモップの柄を見ると少量の血がついていた。
「あ、ああ」
怒りで理性が飛んでしまった。まさか、彼は死んでしまったのだろうか。その恐怖にブルブルと震える。
と、その時。
「あれ、開いてるね。お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
入ってきたのは椿水果と須貝モモだった。彼女達はモップを手に震えている土岐に眉を寄せる。
「どうしたんですか、せんせ」
水果の目が見開かれる。
「菅谷っ」
「菅谷君っ」
二人は慌てた様子で彼のそばにしゃがむ。
「……あ、大丈夫。生きてる」
水果が彼の口元で呼吸を確認したようだ。
それからこちらを睨んできた。
「土岐先生……」
「まさか、菅谷君を」
モモが青ざめる。
「モモ、誰か呼んできてっ。出来れば男の先生をっ。あと、救急車」
水果が鋭い声で言う。
「わ、わかったわ」
モモが飛び出して行くと、水果はそばにあった長めの箒を掴んで剣道のような構えを取った。
「動くな。これ以上菅谷に近づいたらこっちも容赦しないよっ」
水果が威嚇すると、土岐はその場に座り込んだ。
「ち、違う。違うの」
モモはすぐに戻ってきた。一緒に入ってきたのは奏介のクラスの担任、山瀬だ。
「菅谷っ」
彼は奏介のそばに膝をついた。
「大丈夫です。息はしてます。それより土岐先生を」
水果が静かに言う。
「っ! なんでこんなことを」
山瀬が焦ったように言う。
「違うのよ。そう、わたしは彼に襲われたの、とっさにモップで。これは正当防衛で」
山瀬は拳を握りしめた。
「菅谷はそんなことをするやつじゃないですよっ」
怒鳴られて土岐は震え上がった。
やがてサイレンが聞こえ、救急車と警察が到着し……。
土岐の手首に手錠がかけられたのだった。
○○○
数時間後。
市内の病院の一室にて。
「生きてたか、俺」
ベッドに寝たまま、頭に包帯を巻かれた奏介がそう呟いた。
そばでタオルを畳んでいた詩音が顔を引きつらせる。
「目が覚めて五分で不吉なこと言わないでよ……」
奏介の母親は急いで担当医を呼びに行っているところだ。詩音は無理を言ってその母親についてきたのである。
「いや、殺人罪に出来なくて残念だ」
「奏ちゃん……」
「で、土岐は?」
「ああ、うん。逮捕されたよ」
奏介は息を吐く。
「そっか」
「奏ちゃん、さすがに無謀だよ。自分を犠牲にしてまで」
「あの頃、俺がどれだけ辛かったか、俺にしかわからないだろ?」
詩音は反論しようとして、諦めたようだ。
「…………そだね。わたしにとやかく言う権利はないかも」
「小学校の頃のことは今でも夢に見るんだ。過去が変わるわけじゃないけど、あいつは許さないし思い知らせておかないとな」
「宣言通り、土岐先生の人生潰したよね……」
「別に目が覚めなくても、それはそれでよかったんだけどな」
「奏ちゃんっ」
見ると、詩音が真剣な顔をしていた。
「そんなこと言わないでよ。皆、悲しむよ」
しばらく詩音の顔を見た後、奏介はふっと笑った。
「そうだな。まだ制裁加えてないクラスの奴らが十人以上いるし、死ぬわけに行かないよな」
「穏やかな表情で言わないでよ!?」
「いじめの証拠は全部取ってあるからな。今度はその辺りから責めるか」
「あぁ、もう」
詩音は額に手を当てた。
やがて母親が戻ってきて、担当医が診察を始めた。
後日。
風紀委員会議室にて。
弁当を持って中へ入ると、皆揃っていた。
「あっ、菅谷くんっ、大丈夫!? 心配したんだよっ」
そう声をあげたのはヒナである。
「まったく、あんたの行動力と執念は本物だわ」
わかばが言って、
「よかった」
モモが胸の前で手を合わせる。
「後遺症とかなくてよかったね、菅谷」
水果の笑顔に少し申し訳なくなる。
「いや、演劇部の劇、延期になったんだったよね。ごめん、俺のせいで」
「いいさ、菅谷が無事だったからね」
「とりあえず、こっそり退院お祝いのケーキ持ち込んだから、食べようっ」
詩音が白い箱を天井に掲げる。
「す、凄い。どうやって持ち込んだの?」
「それより半日、どこに置いておいたのよ?」
「家庭科室の冷蔵庫だって」
それぞれヒナ、わかば、モモである。
「ケーキ?」
「皆で金出しあって、伊崎に任せたんだよ。予想外の来たよなー」
真崎がいつものように笑っている。
確かに、と奏介は思う。
自分にこれ以上の何かがあったら、このメンバーは悲しんでくれるだろう。
それは凄く、嬉しいことだと思った。
そして、
『菅谷はそんなことをするやつじゃないですよっ』
意識を失いながらも山瀬の言葉が耳に残っている。後で、改めてお礼に行かなければ。
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