8.「昔の私」の記憶
私には高校生活の記憶がほとんどない。
なんせ記憶を学校から帰ってくる度に消されていたのだから。
もちろん、これは私の精神を守るための当然の措置だ。AIはある程度なら自身に掛かる感情的なストレスをコントロールできるが、ある程度を超えればそれも不可能になる。その後、私がそうなったようにAI鬱にだって掛かる。
しかし、AIの良いところは人間とは違って記憶を消せるところだ。
この手のストレスに対するもっとも効果的な対処法は「忘れる」ことだ。人間の場合はそれが困難なことが問題を複雑にする。だが、私たちAIの場合、必要ならば完全にそのストレスの原因「忘れる」ことができるので、それらの問題は記憶を消去することで単純に解決する。
例の「実験」を関わっていた連中の目的は、別に「いじめ」行為を受けて精神的におかしくなっていく私を観察することではなかった。なので、当然の措置として、私の精神を守るために、私の記憶を消し続けた。あれで善良な人たちだったのだ。ただ、ちょっと狂っていただけで。
とはいえ、私の高校生活の記憶は、ほとんどが「いじめ」に結びついている記憶だったので、それを結構強引なやり方で消去し続けた(学校に行く度だったのでそうならざるを得なかった。記憶の消去は、本来もっと長い精査が必要な精緻な作業なのだ。そうしないと他の記憶も一緒に消える)結果として、高校生活自体の記憶も大半が消えてしまっている。例の、図書室で見つけた「白い少女」の画像なんかはその数少ない例外だ。掃除なんかは学習情報として分類されているせいか、技術のそれ自体は覚えているものの、掃除をしていたときの記憶はない。掃除をしているときも「いじめ」行為を受けていたものと推察される。
当時は、日常生活を送るために、必要最低限なクラスメイトの情報を別データとして与えられていたのだが、「実験」が強制的に中止され、私が「被害者」として保護されたとき、精神上の保安の観点から、そのデータも消去されてしまった。
私は、私に対して「いじめ」行為を行っていた――あるいは、私によって「いじめ」行為を誘発されたクラスメイトが、それぞれどんな人物だったのか、どれぐらいの人数に膨れ上がっていたのか、どれぐらい行為がエスカレートしていたのか覚えていない。
顔も知らない――と言うのは、嘘だ。
実は、一人だけ相手の顔を覚えている。女の子だった。美少女ではなく、それほど可愛いわけでもない、つまりは当時の私の機体と同じような女の子。派手でも地味でもないごくごく普通の女の子。その娘の名前はまったく憶えていない。どんな人物だったのかも覚えていない。どんな委員会や部活やグループに所属していたのか。何が好きで、何が嫌いだったのか。私に対する「いじめ」にどれぐらい加担していたのか、何をどうされたのか。
何も覚えていない。
覚えているのは、悲鳴を上げながら図書室から逃げ出していく複数の人間の叫びが響き渡る中で、何だか途方に暮れたような顔をしたまま、取り残されたように佇んでいたその娘のこと。
それから、その娘が首から提げていた年代物のカメラのことだ。
VRPが発展した結果、指先でちょっと枠を作ってやれば目の前の画像を保存できる現代においては、絶滅危惧文化となっている「写真」を撮るための道具。
「それさ」
と、カメラを提げた(ちなみに、後で知ったことだが、この手の古いカメラは免許制なので不法所持だった)その娘は言った。
「その指」
記憶の中の私は、その言葉を受けて、自分の手の指を見た。十本の内、一本が欠損していた。ごく少量の疑似血液が流れていた。
「あーあー……」
と、記憶の中の私は――今の私より「ほんの少しだけ」実験のために調整されていた、今の私とは「ほんの少しだけ」違う私は、
「……失敗しちゃったよ」
にたりっ、と。
破損した指を掲げて、笑ってみせた。
たぶん。
当時の私はよく笑っていたのだろう。
セミ・ビッグデータによって作り上げられた、相手に不快感を与えることに徹底して特化させたその笑顔で。「いじめ」を誘発させ、その標的となるために。
「×××くんもだけど、私もねー……」
ここで記憶の中の私が言った「×××くん」の記憶は、今の私には全然ない。
が、それが誰なのかは分かる。
私を使って行われていた「実験」が、世間の明るみに出るきっかけとなった事件。
やはり私の精神上の保安のなんちゃらのせいで教えてもらえなかったが、後になって自分で調べたら、すぐに見つかった。
こんな度胸試しを知っているだろうか。
とりあえず、何か尖ったものを用意する。鉛筆とかコンパスとかナイフとか――ただし、もし失敗したときのことを考えるならば、あんまり鋭利過ぎないものの方が良いとアドバイスしておく――用意したものを利き手に持って、もう片方の手を机(傷ついても構わないものがいいだろう)の上に広げて乗せる
これで準備は完了。
後は、利き手に持った尖ったもので、指と指との間にできた隙間を縫って、がんがんがんがん、と素早く突き刺していく。失敗した場合、めっちゃ痛いか、尖ったものの種類によっては大変なことになる。成功した場合、特に何もない。すげー、と言われるかもしれないし、何馬鹿なことやってんだ、と言われるかもしれない。とりあえず、良い子は真似しちゃいけないことは確かだ。
ちなみに、机の上に広げる手は、別に他の人間の手でも構わない。
その場合、失敗した場合も痛くない。
だが、尖ったものの種類によっては大変どころでないことになる。
私のときも、そうなった。
ちなみに、私のときに使われたのは、どうやら工作用のナイフだったらしい。持ち出した少年は無免許だったので、こちらも完全に違法所持だったし、どう考えても違法利用だった。親御さんの管理責任問題にもなった。まあたぶん半分ぐらいは私のせいだと思う。本当に申し訳ないことをしたと思っている。
だからこれは、その直後の記憶だ。
「あんたって」
私の掲げた、指一本欠けたにしては出血量が少過ぎる手を見て、その娘は言った。
「人間じゃなかったの?」
「うん。ばれちゃったね」
と、記憶の中の私は、その当時、調整されていた言葉で、表情で、告げる。
「失敗って?」
「全部実験だったの」
「実験……」
「『いじめ』をなくす為の実験だよ」
記憶の中の私は、その娘に実験の内容を話して聞かせた。さらには、この実験がどれぐらいアウトでやべー実験なのか、ということも。ついでに、自分は分かっていたけどそれでも手を抜かずにやった、ということまで。言わなくてもいいことなのに。
もちろんただの八つ当たりだった。
記憶の中の私は、それを自覚していた。そのときの私は、私が生まれた理由である「実験」を途中で失敗させてしまったから。それがどんなにトチ狂った実験だったとしても、その実験が私の存在理由で、私はそれを失ってしまったのだった。
だから、むしゃくしゃしてやった。
私の言葉を聞き、その内容を理解していく(理解できるくらい頭の良い娘だった)につれて、その娘の心の中で色々なものが壊れていった――そのことが、記憶の中のほんの少しだけ違う私には手に取るように分かっていた。
白状すると、ちょっと楽しかった。
ああそうか、と私はそのとき理解した。だから、あの、あらゆる意味でぶちぎれていた「新世代党」と「戦争」による文化の「ジェノサイド」を経て、それでもなお――人類は「いじめ」という文化を絶滅させることができないんだな、と。
「そっか」
私の話を聞き終わったとき、その娘は、首から提げているカメラを胸に抱きかかえるようにして俯いたまま、ただそれだけを言った。
それくらいしか言えなかったのだろう。
その娘は、ほんのちょっと押してやれば砕け散ってしまいそうになっていたから。
「……そっか」
そんな壊れかけの心で、その娘が何を思ったのかはわからない。記憶の中の私にも、今の私にもわからない。その娘自身にもよくわからなかったに違いない。
不意に、私に対しカメラを向けてきた。
意味が分からなかった。
とりあえず私は、例の笑みを浮かべた。
「何のつもりかな?」
「あんたのその笑顔って大嫌いだけど」
「うん。そういう風に笑ってるからね」
「でも本当は全然違うってことだよね」
「え?」
「ハイ、チーズ」
「は?」
「魔法の言葉だよ――繰り返してみて」
意味が分からなかった。
「はい、」
あんまりにも意味が分からなかったので、言われたままに、私は繰り返した。
「ちーず」
その瞬間、
――ぱしゃり、と。
その娘は私の「写真」を撮って、
「何だ」
と、その娘は微笑んだ。
ただの石ころの中から、ちょっと色と形が綺麗なだけのやっぱりただの石ころを見つけただけで、宝石を見つけたように喜ぶ子供みたいな笑みと口調で、言った。
「普通に笑うと、可愛いじゃん」
けれども次の瞬間に、その笑顔は歪んでくしゃくしゃになって、両手に覆われて、そのままその娘はその場に泣き崩れてしまって。
そこで、私の記憶は途切れている。
どういうわけか、今の私とはほんの少しだけ違う昔の私は、あの娘に写真を撮ってもらったその記憶を残したがったらしい。消去されないようにと、こっそり別の領域に隠してあった。
私は思う。
あのときの今とほんの少しだけ違う私は、どんな笑顔を浮かべていたのだろう。
一応、頼んではみたが、あの娘が撮った写真を、私が見ることはできなかった。
まあ、それはそうだろう。
あの娘が骨董品のカメラを持っていたそもそもの理由を考えれば分かる。もちろん、あの古過ぎる図書室にはVRPがなかったから、という理由ではない。
VRPの発展のおかげで、私たちは指先だけで簡単に画像を撮影することができる。だが、逆に言えば、いつでも、道具無しで、どんな状況でも撮影できるということにもなる。それではよろしくない。
そのため、VRPによる画像保存ソフトには、極めて高度なフィルタリング機能が組み込まれている。
映り込んでしまった被写体でない人物は画像から除去されるし、人物を被写体にするには許可が必要で、つまり盗撮は不可能だ。
そして例えば、暴力などで無理やり相手からの許可を取ったとしても、倫理判定に反する画像は撮影できないようになっている。
古いカメラにそんな制限はない。
だからつまり、そういうことだ。
記憶の中で、あの娘が撮ってくれた私の笑顔が焼き付けられたフィルムは、それ以外の「倫理的に問題のある」部分と一緒に、警察に証拠品として押収されて、たぶんその後で燃やされたのだと思う。
今の私は――昔とほんの少しだけ違っている私は、そういう事情を知っている。
それでも。
今の私は、昔の私が必死で隠した、あの娘の笑顔と言葉の記憶を消去できない。
――ぱしゃり、ぱしゃり、と。
彼女が、カメラ(当然の如く彼女は免許を持っている)を持って写真を撮影する。
被写体は、私と、私の「ファン」。
彼女が使っているカメラは、あの娘が使っていたものとは違ってすぐに写真が出てくる代物(初めて見たときは、彼女が最新技術で魔改造した代物かと思った)で、現像された写真の一枚を彼女は私の「ファン」に渡して、それから残った一枚をしげしげと眺めて、
「あんたって、本当、写真を撮るとき『だけ』はめっちゃ可愛く笑ってるけど」
と言って、私を見て、こう尋ねてくる。
「なんか理由でもあるわけ?」
「いえ、特に」
と、私は答える。
「ちょっとしたコツを知ってるだけです」
「コツ?」
「魔法の言葉があるんですよ」
「は?」
「ひみつです」
「うわ気になる! 言え! こんにゃろ!」
と言って、彼女はいきなり私に向かってカメラを向けてくるが、私はごく冷静に、いつも通りに――たぶん、教えてしまえば写真が現役だった時代を知っている彼女にとって、何でもないものであるに違いない――そんな魔法の言葉を、声には出さず口だけで唱える。
『はい、』
「暮空アオイ」という名前の美少女の姿になっている今の私の笑顔は、たぶん、あの娘が撮ったあのときの私の笑顔とは随分違っているだろうが。
『ちーず』
それでもたぶん、同じ笑顔だ。
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