次はお前の番だと言わんばかりの、
「碌な菓子も出せなんだ、わざわざ訪ねてきてくれたのに申し訳ないね」
「いやいや、爺さんが元気そうで結構だよ」
日曜の昼下がり、窓の外で蛙鳴く雨の日。丘の向こうには海が広がっているが、生憎ながらここから見えることはない。キッチンでお湯を沸かす老人とその向かいで椅子に座る若者が、穏やかな口調で会話を交わす。
「ああ、そうだ、生憎珈琲の豆を切らしていてね」
「へえ、あの爺さんが珍しいな」
「歳なのかねぇ、あと一袋あったと思ったんだが。
それで買いに行ったがご丁寧に売り切れの文字が書かれてあった。そんなところでこれを見つけたんだ」
取り出したのはインスタントコーヒーの箱だった。恐らく未開封。
「昔は『口に合わないから滅多に買わない』とかなんとか言ってなかったか?」
「いいや、あれは涼香が嫌な顔をしたからだね」
涼香、というのは老人の孫である。彼女は家族一緒にこの地域に住んでいたのだが、高校卒業と共に新天地へ単身飛び出して行った。
「爺さんの趣味じゃなかったのか」
「私は飲めればなんでもいいんだよ」
習慣になっちまったから毎日挽いてたんだけどね、と老人は笑う。
「というかアイツ、そんなに舌肥えてたっけか」
「いいや? けれど、何故かあの珈琲にだけはいたく拘りがあった」
「やっぱりよく分からないな」
二人で顔を見合わせて笑う。薬缶が震えるより先に火は止められていた。
「いやー、相変わらず人が少ないなこの辺は」
若者は少し間の抜けた顔をしながらそう言った。「土砂降りだから、かも知れないけども」
「東京に越したから余計そう思うんだろう」
老人は微笑みつつ、静かにそう言う。「こんな田舎は嫌いかね?」
「いーや、こっちの方が落ち着いて良い。人が多いとイマイチ落ち着かないんだよなぁ」
老人が薬缶からカップへ湯を注ぐ。いつもとは少し違った匂いが部屋を包む。
「しかし、お前さんがこっちに帰ってくると連絡してきたときは驚いたよ。まさか実家だけじゃなくこっちにも顔を出してくれるとは」
若者は「爺さんには世話になったからなぁ」と笑う。部屋の片隅には少し埃を被ったトロフィーが置いてある。
「あのときボールを蹴ってた爺さんとアイツに会わなきゃ、俺は人の役に立つ切っ掛けを持てなかった。そういう意味で、運命の出会いだったのかもなぁ」
「いいや、そんなことはない。私に出会わずとも、可夢偉はきっと誰かのためになろうとしていただろうさ」
老人は笑う。柔らかな笑みの暖かさに、青年は部屋に差してくる日光を錯覚した。外にはまだ雨が降りしきって止まないが、その部屋の中だけは少し気温が上がるような、そんな雰囲気をかつての恩師は醸し出していたのだろう。少し面食らったような顔をしていた教え子も、そのうち緊張が解けたような顔をして「親馬鹿かよ」と冗談めかして笑ったのだった。
そのうち老人はコーヒーカップを二つ持って椅子に座った。若者から見て、机を挟んだちょうど向かいである。コーヒーからは良い香りがした。
テレビは地球のどこかの今の様子を映し出している。それなりに熱の篭った歓声が聞こえる。
「応援には?」
「両親が行っとるよ」
「留守番で寂しくねえの?」
「南米までこの歳で行こうとは思わんよ」
カメラの向こう、ぴりりと引き締まった表情をした一人の女がいる。蒼に袖を通した彼女は、あの頃膝小僧をボロボロにして泣いていたアイツだった。
「緊張しとるのかね」
老人が悪戯っぽく笑ってそう聞く。
「それは無いでしょ。アイツ、底無しのバカだから」
若者は笑う。それは少年のように無邪気な笑みだった。
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