アンバランス

「“どうせ死ぬなら人様に迷惑かけずに死ね”」

 屋上、身体を柵の外へ投げ出した彼女が言う。

「そうは言うけど難しくね?」

「と、言いますと」私が聞き返す。目下に広がるのは排気に塗れたコンクリートジャングルである。空を覆う鉛色の雲が、モノクロームなビル群を更に単調にしてしまった。

「迷惑の定義」彼女は懐に忍ばせていた煙草に火を付ける。やけに古めかしくて重厚そうなそのライターは、聞いたところ父親の遺品らしい。『財産一つ残せなかったクソ親父の唯一の遺品がこれだぜ、ほんと笑えるだろ』とは彼女の談である。

「それを迷惑だと思うのはそいつの主観だろ。例えば独りの部屋で迷惑なんてかけたくねー、っつって首吊って死んだとしても管理人が死ぬほど迷惑被るかもしれない訳だ。逆に今ここから飛んでコンクリの上で潰れたとしても、そこに誰もいなきゃなんとも思われずに死ねるかも分からん」

 遠い方を向いている彼女は、たぶん彼女の父親のことを考えている。彼女の父親は自分の妻を見殺しにして、借金背負って娘の前から姿を消した。らしい。そもそも彼女の母親が死んだのは交友関係の拗れであり、借金はその全責任を半ば無理矢理負わされた形であるので仕方ないのだが、彼女的にはその去り際がどうも胸のどこかに突っかかっているらしい。こんなことを言い出したのも、たぶん良かれと思ってやった父の数々の決断が娘である彼女にとっては最悪に近い選択だったことに由来しているのだろう、と思われる。まあ十もそこそこの少女が母親を引き剥がされて良い思いをする訳でもなし、かといって十もそこそこの少女から金と性の亡者と化した女をそのまま近付けておけるか、と言われると難しい判断であるのだが。

「なあ」煙を吐き出し、此方に視線を投げる。「アンタ、私が今死んだらどう思うよ」

「そりゃあ、迷惑に決まってますよ」私は溜息をつく。

「へえ、そりゃ意外だ。私が死のうと気にしない冷血人間だと思ってたが」

「馬鹿言わないでくださいよ。私だって目の前で知己に死なれちゃ夢見が悪いんです」

「結局自分の為じゃねェか」

「人間てのは例外なく皆そうですよ」

 アンタのそういうところほんとに最高だわ、そう言いながら彼女は鉄柵から離れる。咥えていた葉巻は階下へ置いてきたらしい。支えを失った彼女は気だるそうに背筋を曲げて立っている。

「オイ、襟乱れてんぞ。良い男が台無しだ」

 私は言われるがまま着ていたスーツの襟を正した。しわの目立つシャツのボタンを胸の上あたりまで開けている女に指摘されるのは変な心地だが、それが常なのだから言い返す気にもならない。

「一本下さい」

 手を差し出すと「後一本しかないんだけど」と言われた。諦めてポケットから青い箱を取り出すと、「ンだよ、あるじゃねえか」と小突かれた。

「この銘柄知ってます?」

「知らねェが」

「クソ不味いんですよ、コレ」

 彼女は吹き出した。「煙草に美味いも不味いもないだろバカが」


 ……私は知っていた。あの瞬間、迷惑か訊ねられたタイミングでNOと答えてしまえば、たちまち彼女は口角を上げ、「じゃあな」と言って堕ちていったのだと。彼女の華奢で傷だらけの肌は、今頃煙草の代わりに車輪の下敷きになっていたかもしれない。

 私達の命は細い糸でこの世と繋がっているらしい。互いが互いの張力で、やじろべえのようにバランスを取って生き長らえている。幸せなんかを目に捉えることは出来ず、そのままだらだらとその日暮らしを繰り返す。目が覚めたら最期だろうか。こんな生活に未来は無いと気付いたら、二人して谷底へ進んで落ちていくのだろうか。

 いいや、きっと気付いている。既に気付いていて、それでもなお、互いの眼だけを見つめることで現実から目を離している。それが案外悪くないからそうしているだけである。


「なんだァ、ボサっとしやがって。らしくねえな」

 彼女の声で、再び現実へとゆっくり焦点が合ってゆく。振り返ると、いつもの調子で佇む彼女がいた。

「連勤明けで寝不足なんですよ」

「適当抜かしやがって、お前元々ショートスリーパーだろうが」

 階下へ続く階段へ向け、二人は足音を小気味良く鳴らす。

 その残響は、何故だろうか、妙に物悲しい響きであった。

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