おわりよければ、すべてよし

「ぁあははッ」

 口元を歪めて笑う彼を見て、彼女の背筋に寒気が走る。

 純朴であった筈の彼の瞳は酷く淀んでいて、その笑みは狂気を孕んだ物へと変じていた。

「やっと、ああやっと、此方を見てくれましたねお姉様」

 その手は血に塗れている。足元には死体が転がる。先程まで生者だった者の死体が。

「アンタがやったの」第一皇女は言葉を振り絞る。

「誰をでしょう、言わなきゃ分かりませんよお姉様」第三王子は煽るように笑っている。

「父上と母上よ」拳を握り締める。「私と貴方の肉親を、アンタは殺した……ッ」

 途端、彼は再び笑い始める。かつての上品な所作等何処にも見当たらない、甲高く下品な笑い声。

「良いですねェ、お姉様のその顔が見たかった」

 彼が凡そ正気ではないことを、開かれだ瞳孔が物語っている。

「なんだってこんなことをしたのよ!?」

 実際、彼女の頭には理由となりそうな事柄が浮かんでいなかった。何事も卒無くこなす弟に、父母との確執があったとは一度も聞いたことがない。自慢ではないが、宮廷内で起こる事は全て私の耳を一度は通るようになっている。父も母も、彼を否定するような事は言わなかった筈だ。であればどうして。

「ボクが父上や母上を殺す理由は無い」歪み切った口元が更に歪む。「そう思ってらっしゃるようですねぇ。ええ、ええ、その通りでございます、ご推察の通りなのですよ姉上。では何故でしょう? 父母に問題が無いのなら、どうしてそんなことをしたのでしょうか?」

「訳が分からない」そう答える彼女の口元は震えていた。彼女は既に、得体の知れないモノと相対したときの恐怖に屈している。「死ななくても良かったじゃない」

「……少し話は変わりますが」突如として神妙な面持ちとなった彼に、皇女はまた別の畏れを覚えた。その場に足が竦んで、ぴくりとも動けない。さながら、蛇に睨まれた蛙である。

「姉上は、私の名をご存知ですか」

 それは、あまりにも普通の質問で、簡単な質問だった、筈だった。

「それは勿論、───」

 これほどまでに彼女は言い淀んだ。これほど簡単な質問であったのに、仮にも血の繋がった実弟の名が彼女の口より出ることは終ぞ無かったのである。

「そう」次に彼は悲しそうな顔をした。それは彼女のよく知る、……否、視界の片隅に時折ちらりと映り込んでいた、あの気の弱そうな第三王子が浮かべていた表情であった。「貴女は私の名を知らない」

「だから、何よ」彼女は戸惑いを隠せない。「だから何、それでお父様とお母様は殺されたっていうの!?」彼女の語調は明らかに怒りを孕んでいた。当然と言えば当然である。彼女が弟の名を知らなかった、ただそれだけの為に実の両親を殺したという理屈は、最低でも彼女の中で成立し得るものでは到底なかった。しかし転じて彼は一層悲しみに満ちた目をしている。

「では名乗りましょう。私の名を知らぬお姉様。

 私の名はソティス・アンドレ・ミュージニア。この家の五人目の子として生を受けた、しがない第三王子でございます」

 「そう」その名を第一皇女であるマリアは知らなかった。「素敵な名前ね」

 彼は笑った。穢した両の手からは想像もつかぬほど儚く悲しい笑みであった。

「本当に存じ上げておらぬとは、改めて現実を突き付けられるとこうも苦しいものなのですね」

 彼の顔から、笑顔がすうと消えた。触れるもの全て殺さん、というほどに冷淡な顔をしている。そして次の言葉が、彼女を少し揺らがした。

「私は貴女に恋焦がれておりました」

「は……?」

 混乱する彼女を余所に弟は話を続ける。

「しかし貴女は婚約者がいる。更に言うならば貴女は私のことを“いつも宮廷にいる誰か”としか認識していない。ならばどうする? 私は悩みました」

「それで、殺した?」

 彼女が口を開く。

「結局アンタの度胸が足りなかっただけじゃない、そんな下らないことのために、───何も、その手を汚す必要なんて無かったじゃないの……」

「お優しいのですね、姉君は」彼は笑う。「その優しさは、己の身の可愛さからですか」

 彼の細めた目が、彼女を今再び睨む。彼女はまた動けなくなる。

 おかしいと解っている。この論理が間違っていることぐらい解っている。人を殺す程の話でもないと、そう解っている。解っている筈であるのに、その瞳を見ていると、自身が間違っているかのような錯覚に陥りそうになってしまう。

 彼女は本能的にそう感じて目線を外そうとしたが、生憎ながらその目線は彼に吸い付けられたかのように動かなかった。

「……まあ、それだけでは無いと言えばそうなのですけれどもね」

 彼が、これまた唐突にそう零す。

「例え意中の人で無かったとしても、血の繋がった者に名をも知られぬのは辛いものですよ」

 彼女はそのとき、ある推論をした。

 彼の悪評を聞かなかったのは、彼が愚直なほどに真面目であったから。

 ……それ以前に、誰も彼に興味を持たなかったからではないのか?

 両親との確執を聞かなかったのも、そもそもお父様とお母様が彼に興味を持たなかったからなのではないか?

 しかしながらその孤独の真たる苦を、彼女は終ぞ理解出来ないままであった。それほどまでに核心へと踏み込みながらも、「それでもやはり殺すほどの事では無かった」と口走ってしまったのである。

 しかしながら、彼は激高するような真似を見せなかった。寧ろ、「それが普通の人間の思考だ」と肯定してみせたのである。自らの価値観が狂い歪み尽くしているとそう宣ったも同然なのに関わらず平然としていられる弟を見た彼女は、酷い眩暈にでも遭った気分でいた。

「分からなくても良いのです、」彼は血に塗れた短刀を握り直す。

「代わりに、」緩やかな歩調で近付いてくる。彼女の足はその場に根を張って動かなくなっていた。そうして声も出せずにいる想い人に、彼は無情に刃を向ける。

「……代わりに、ボクの顔を見ながら死ねば良いのです」


 鮮血が吹き出す。

 青白い月光が創り出す幻想性を、舞い散る紅い血が穢してゆく。


「こうすれば、貴女が私の名を忘れることはありませんから。」

 皇女の亡骸が崩れ落ちる。零れた涙は恐怖か憐れみか。しかし彼はその意図など知らずとも良かった。ただ窓の外より射す柔らかな明りに照らされ、彼はうっとりとした表情を浮かべている。

「これで貴女達の最期の記憶は私です」

 今度は刃物をぐるりと回す。

「父上も母上も姉上も私も、」

 口角が上がる。満足気な笑みは、ただ純粋に幸せを噛み締める少年のように澱みない。

「最期まで家族と共にいたのだから、本当に幸せ者です」


 宮殿最奥、妃の寝床、深夜三時を回る頃。

 そこには四つの抜け殻、それに静寂が横たわっていた。

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