第263話 逃げ出してみた。
油断していた為バランスを崩し床に尻もちをついてしまう。
肩をどついてきたのは、勿論大奥様。
大奥様のその行動は、誰も予想していなかったようで、みんな唖然として大奥様の事を見ていた。
「貴女が男児を産まないから養子の話になったのでしょうッ!? だから相手に付け込まれたのよ!! 貴女のせいですからねッ!!!」
大奥様の大絶叫に、そこにいた誰しもが何も言えなくなってしまい、口をつぐんでしまった。
まさか、速攻で私に責任転嫁してくるとは思っていなくて、私も驚いて言葉が出なかった。
いや、もう少し、こう、何かあるかと思ったけど。
そんなものなかったな……ある意味凄いや。
「大丈夫ですアンドレウ公爵、メルクーリ伯爵。もうすぐ離婚しますから。いえ、この場で離婚させます。そうなればすぐに再婚させ、男児をもうけさせますわ。養子は取りません。
だからもう少し、もう少しお時間をいただけないでしょうか?」
私を
この事に、さすがのアンドレウ夫人も扇子で表情が隠しきれていなかった。
三人が何も言わないせいか、大奥様は再度クルリと私の方へと向き直ると、物凄い
「さあ、聞いたでしょう? 今すぐ離縁しなさい。この場で申請書にサインなさい」
地獄のような声でそう語る大奥様。我慢しきれなくなったのか、大奥様の頬と唇の端が上がっていた。笑ってるよ……この状況で。この人ヤバいわ。本当に。
「侯爵夫人……さすがにそれは……」
口を出してきたのは、クネリス子爵だった。さすがに大奥様の暴走を見てられなくなったか。しかし、倒れた私に手を貸すんでもなく、ただおずおずと進言しただけ。
「全ての元凶はこの女なのですよ? アティにも危険が及びますし。いない方がよろしいのではなくて? ならすぐにこの場で処分してしまった方がよろしいですよ」
大奥様のそんな言葉に、速攻で封殺されてた。
あのさ……『処分』って。
……まぁいいわ。
流れ的に最高。
私は顔を抑えてうつむき、肩を震わせた。
そして
「ごめんなさいっ……」
私はそう吐き捨てると、すぐに立ち上がって談話室を飛び出した。
「セレーネ!」
そんなツァニスの声が聞こえたけれど
「放っておきなさい!!」
そんな大奥様の声が続いて聞こえてきた。
顔を抑えて廊下を走った時、途中であの人形顔男性使用人とすれ違う。彼は何の表情も浮かべない顔で、私を避けて廊下の端に寄っただけだった。
私は構わず廊下を走りぬけ、そして厩舎の方へと向かって行った。
***
まだ満開までにはもう少しかかりそうなのに。物凄く美しいな。
私は、辿り着いた場所──薄紫の花の蕾を無数につけた木を見上げながら、ふとそんな事を思った。
桜のような木だった。唯一の違いは花びらの色の違いぐらいか? いや、桜よりももう少し花が大きい。まだ三分咲きといった感じ。蕾の方がまだ多い状態だったけれど、それでも薄紫が空の色に映えてとても美しかった。
そんな木が、この丘をはじめ周辺に広がっている。
全ての木が満開になったら、そりゃ壮観だろうな……早く、アティたちに見せてあげたいな。
私は横にいる馬の背中をサラリと撫でた。手綱を木などに結んでいないにもかかわらず、大人しく私の傍にずっと
馬が二頭──そう、ここに来たのは私だけではない。
マティルダと一緒に来た。
マティルダも、薄紫の花の木を黙って見上げている。
私は彼女から少し離れた場所に馬たちと
どれぐらい経った時だっただろうか。
複数の馬の足音が聞こえてきた。
私とマティルダは、その音の方へと振り返る。
「飛んで火に入る夏の虫」
そんな冷めた男の声。
その声と同時に、私とマティルダの方へと数名の男たちが馬から降りてワラワラと近寄ってきて、周りを取り囲んだ。
私は勿論、冷静に回りの男たちの事を見る。人数は、一、二……ふむ。七人。思ったより少ない。猟銃は持っていないようだけど、もしかしたら拳銃は持っているかも。油断しないようにしよう。勿論刃物は持っているだろうし。
みんなそれぞれ──使用人たちの制服を着ていた。大奥様たちが連れてきた使用人たち、そしてクネリス子爵たちが連れてきた使用人たちの制服を、ね。
屋敷からそのまま急いで来たんだね。さすがに着替える時間なんかなかったか。ここが正念場だしね。
一番の獲物である侯爵夫人が一人になったチャンスは見逃さないよね。
周りを取り囲んだ男達の中の一人が、私とマティルダの方へと一歩前に出た。
「あなたは……」
私は両手を口元で覆い、まさか、という声でその男──人形のように整った顔の男を見た。
その若干胸焼け気味のイケメン顔──大奥様とイチャコラしていた使用人、ディミトリ、とかいう、あの男の顔を。
彼は綺麗な顔に綺麗な笑顔を浮かべて、私とマティルダの事を見ていた。
あー。コイツが敵集団の取りまとめだったんだ。
納得納得。敵集団の音頭を取る人間が、一番の
しかも、顔がイイ。
大奥様、たぶん手玉に取られてたんだろうな。若いイケメンにアレコレちやほやされたら。息子から謹慎言い渡されて
「こんなチャンスが来るとは思わなかった。本命が一人になるなど。今までは必ず誰か男が張り付いていたのに」
人形顔男性使用人──ディミトリが、私たちに向かって嬉しそうにそう零す。
ああ、そうだね。私の影には今まで必ずアレクが張り付いていた。アレクがいない時には、獅子伯が遣わしてくれた護衛がそれとなく傍にいてくれたし。
今は男は誰もいない。いるのはマティルダだけ。
「今まで散々警戒していたのに、最後の最後にこんな美味しい状況を作ってくれるなんてな……所詮、馬鹿な貴族の女だったな。期待して損した」
そう言いつつ、ディミトリはその美しい顔に侮蔑の色を浮かべた。
「それ以上近づかないでください。人を、呼びますよ」
私は少し声を抑えつつ、それでも少しキツめの声で、
しかし、彼は鼻で笑っただけだった。
「呼べるものなら呼ぶといい。誰もいない場所に逃げてきたのはお前たちの方だろう? バカだな。
奴らが来た頃には──事が終わっているさ」
ディミトリは、キレイな顔をニヤリと歪ませて、そう答えた。
すると、周りを取り囲んだ他の六人が、私たちに見せつけるようにナイフを抜いた。
私とマティルダがナイフを警戒して動かない事をいいことに、彼らは私たち二人の方へと近寄って来る。
「ま、殺されないから喜べ。お前を一目見たいと伯爵様が仰っていた。良かったな」
そんな事を微笑ましい声で呟くディミトリ。何が『良かったな』だ。つまり攫って人質にするってこったろ。
ま、私もこんな事を計画するド外道のツラを、ちょっと拝んでみたいけれどもね。
一歩引いた所に立ったままのディミトリが、ナイフを顔近くに突き付けられたマティルダ、そして続いて私の方へと視線を移動させる。
「こっちの侍女は……伝言板だな。侯爵様に、伯爵からの言葉を伝えてもらおう」
そう言いつつも……男たちの
マティルダが、少し困った顔で私を見た。
その瞬間
「動くな」
ディミトリがイラっとした顔でマティルダにそう吐き捨てる。
彼がすいっと手を動かすと、私たちの回りを取り囲んでいた男のウチ一人が、私の背後へとスルリとまわり肩を掴みつつ、ナイフを前から首元へと突きつけてきた。
「どうした? 大人しいな。この状況では、さすがに『北方の暴れ馬』だの『カラマンリスのダチュラ』だの呼ばれるアンタも動けないか」
ディミトリが、少し楽しそうな表情になってそう声をかける。
私たち二人は、何も言わなかった。ただ黙って、男たちを睨みつけるだけ。
それを、私たちが怯えているんだと判断したのか。
周りの男たちの緊張が一瞬、途切れる。
私はそれを待っていた。
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