第187話 熊がやってきた。

 過去の恐怖がオーバーラップした。

 あの時は、どうしたんだっけ?


 そうだ、後ろに飛びのいてなんとか避けたんだ。でも顔を庇った腕の皮が引き裂かれたんだった。

 引っ掛けられた程度だったのに、私の腕には消えない大きな傷が残った。

 でも、今は振り返りつつ立ち上がろうとしていたから飛び退けない。


 ヤバイ、終わった。


 そう思った瞬間だった。


 ガーーーーーーーンッ!!

 すぐそばで鼓膜を破らんばかりの破裂音がする。


 ギャァ!!

 熊の悲鳴。次の瞬間、私へと伸びてきていた手が玄関の小窓から消えた。


「大丈夫ですか、セルギオス殿」

 そう私に声をかけてきたのは、ライフルをコッキングして弾を装填し直したヴラドだった。

「ヴラドさん……」

 私は、力なくその名を呼ぶ。

 すると彼は、猟銃を玄関窓に向けたまま、横目で私を見て小さく笑った。


「こんな状態になっているのに、何故お声を掛けてくださらなかったのですか」

 彼はそばにいた護衛やサミュエルに指示して、棚を動かして扉の前にバリケードを作りながら、そう私をとがめる。

「でも貴方はまだ傷が……」

「こんなのはかすり傷だとお伝えした筈です」

 嘘つけ! 足に血がにじんでんの見えてるぞ! 無理に動いて傷が開いたな! しかも確か、熱まで出してた筈なのに! そんな状態の人に頼れるか!!


 いかん! そっちに気を取られてる場合じゃない!!

「みんな! 二階へ!! 早く!!」

 私は、リビングで呆然と固まっている子供達の所へと走り寄る。

 エリックの護衛さんは、エリックを肩に担いだまんま、いの一番に二階へと走った。

 アンドレウ夫人は侍女たちに手を引かれつつ、アティはマギーが抱き上げたので、私はニコラとゼノの手を掴んで二階へと走る。

 そして、二階で一番広い部屋──アンドレウ夫人の部屋へと、使用人を含めた全員を入れた。


 最後に入った使用人の背中を押して部屋に押し込むと、エリックの護衛さんが外に出た事を確認してから、念のため後ろを振り返って、もう誰もいない事を確認する。

 エリックの護衛さんに先に下に戻るように指示をしてから、部屋の方へと向き直って真剣に声をかけた。

「扉を閉めたら、念の為に棚やテーブルでバリケードをして。扉だけではなく窓にも。扉や窓からは離れて部屋の真ん中にいる事。扉は、誰か人間が声をかけない限りは絶対に開けないで」

 私が持つ危機感に恐怖を感じたのか、マギーに抱き着いたアティが、まん丸に見開いた目に溢れんばかりの涙をため込んでいた。

 私は、口元を隠した顔でも分かりやすいように、目を細めて笑いかける。

「大丈夫だよアティ。私は貴女をどんな危険からも守るから」

 そう声をかけると、アティはコクコクと一生懸命に首を縦に振った。

 凄い。泣かない。怖いのにね。強い子だなぁ、アティは。

「おかあさまも」

 こんな時に私の事まで心配してくれんのー?! アティもう女神超えた存在じゃーん!!

「セレーネも部屋から出ないように声をかけておくから大丈夫だよ」

 私がそう返事をすると、アティは心底安心した顔をしてマギーにぎゅうっと抱きついた。

「マギー。みんなが静寂に耐えられなくなってきたら、小声で何か話をしてください。童話などで構いません。

 ただし、変な物音がしたら声を出さないで。じっとしていてくださいね」

 そうお願いすると、マギーはコックリと頷いた。

「皆さんは絶対に助けます。だから、待っててくださいね」

 私はそう念押ししてから、扉を閉める。

 すると、扉の向うからガタガタと家具を動かす音がし始めた。


 よし、これで大丈夫。

 外に一人、そしてコテージの中で戦えるのは、私、ヴラドさん、エリックの護衛さん、か。

 少なっ。

 管理会社に電話連絡して応援を呼ぼう。……まだ、こっちに人が残っていれば、だけど。

 いや、でも、まあいい。

 最悪、三人が餌食になれば、獲物として持ち帰る為に一度熊も退く筈。その間に討伐隊が帰ってきて、二階のみんなは助かるだろう。


「セルギオス」

「はぅっ!!」

 背中から声をかけられて、心臓口から飛び出るかと思った!

 驚いて振り返ると、そこには──え!? ちょっと待ってなんでサミュエルが部屋の外にいるの!?

「何故中にいないのですか!?」

 サミュエルは護身術ぐらいしかまだ使えないんだから、熊と戦うのは無理中の無理だよ!?

「私も、アティ様の為に何かしたかったんです。アナタと同じように」

 サミュエルは、今まで見せた事がないような真剣な眼差しで、私を見返していた。

「それに、ここでアナタやアティ様に万が一の事があったら、ツァニス様に顔向けが出来ません」

 そう力強く答えるサミュ──

 ん?

 今、なんてった?

 

 ちょっと待て。

 今私は男装してて、セルギオスの格好してるのに?

 なんで、『セレーネとアティ』じゃなくて『アナタとアティ』って言った?

 いや、もしかしたら言い間違いかもしれない。そうだ。きっとそうだ。


「サミュエル? セレーネならまだしも、私は──」

「もう誤魔化さなくていい。本当はもう一人の兄なんていないんだろう?」

 バレとるーーーーーーーー!?

 え!? なんで!? アレか!? もしかして、私がセレーネが部屋に引っ込んだ途端にセルギオスが現れたから!?

「この間、暴漢に襲われた時、セルギオスについている筈の痕がセレーネ様についている事で気づいた」

 そっちかァーーーー! 言い逃れできん証拠掴まれた! しまったそうか! そりゃ気づくか! しくじった! そこまで考えてなかったァ!


 ああ、でも、どうしよう! 今はそれどころじゃない!!

 チクショウ!!

「無事に生き残れたら、全部話します。だから、絶対に死なないで」

 私は、腰に差していた剣を外してサミュエルの胸へと押し付ける。

「これは攻撃用ではありません。この剣はサミュエルの身を守る為に使って。下手に攻撃しようとしても、その前に貴方の首がなくなります」

 それだけを告げて、私は一階へと走って戻って行った。


 剣はもうない。あとは細いナイフ一本だけ。ヨシ、包丁を取りに行こう。

 一階に戻ると、猟銃を構えたヴラドさんが、玄関扉の隙間から少し距離を取りつつも、外の様子を伺っていた。

 エリックの護衛さんが、雨戸が締まったリビングの窓から少し離れた所で、散弾銃を構えて外の音に耳を傾けている。

 私はその隙にキッチンから包丁を何本か失敬した。流石に抜き身では危ないので、布で簡単にくるんでベルトに差し込んだ。


 しかし……ここからでは外の様子がうかがい知れないし、突撃されたらひとたまりもない。

 私は電話のところへとコソコソと移動すると受話器を取って管理組合に繋げた。

 すぐさま繋がったものの、殆どの人間は山狩りに行ってしまったので、先程木の上にいたウチのコテージを守ってる人間以外は、もう殆ど人がいないとの事だった。

 ま、だろうなとは思ったよ。

 仕方がない。

 あー。スマホとかトランシーバーがあればなァ。山に行ったメンバーに連絡取れたのにっ!!

 連絡──そうか!


 私は素早く暖炉へと駆け寄る。

 そして暖炉脇に置いてあった薪の束を掴んで、キッチンの脇に置いてある、水が汲み置きされた金属製のバケツの中に突っ込んだ。

「何を?!」

 後から追いついてきたサミュエルが驚きの声を上げた。

「山へ行った人達にこちらの異変を伝えます」

 私はバケツを片手で掴んで、焚き火に火をつける為の他の着火可能なものや、乾いた薪を小脇に抱える。

 そして二階へとダッシュした。


 二階のベランダに出て、バケツから薪を出して水を捨てる。

 そのあとバケツの中に着火用の素材をぶち込んだ。

 マッチで火をつけ、吹いて大きくする。薪をくべてある程度火が大きくなった所に、湿気しっけた薪を突っ込んだ。

 追いかけて来たサミュエルが辿り着いた頃には、バケツの中で燃える焚き火からモウモウと煙が発生し始めた。


「……狼煙のろし?」

 私が何をしたのか気づいたサミュエルが、感嘆の声を漏らした。

 ホントなら杉の葉とか使いたかったけど今ここにはない。だから、湿気しけらせた薪と、金属以外の燃やしたら煙が出そうなものをあるだけ持ってきた。

「サミュエルは狼煙のろしを上げ続けて」

 背後にいるサミュエルにそう声をかけて、私はベランダの手すりに登る。

 そこからジャンプして、屋根の縁にしがみついてなんとか屋根の上へと上がった。

 屋根の上を移動して、下の方の様子を伺う。


 すると、リビング側へと回って、壁にガリガリと爪を立てている熊の姿が見えた。

 バキバキと、雨戸を壊す音がする。

 そして熊の身体が建物の中へと吸い込まれると同時に

 ガーーーーーーーン!!

 銃声が鳴り響く。あの音は散弾銃! エリックの護衛だ!

 いけない!!

 私は屋根からベランダへと戻り、手すりをヒラリと乗り越えた。

「セルギオス!」

 サミュエルの驚き声。私は手すりから手を離さず、一度壁を蹴って落下を止めると、一度手を離してベランダの床を掴む。そして地面へと飛び降りた。

 四つん這いで地面へと着地する。まだ柔らかい雪があってよかった!!


 顔を上げると、壊された窓の向こうに赤黒い毛が生えた熊の背中が見えた。

「コテージに入るんじゃねえテメェ!!」

 私は腰ベルトに挟んでいた包丁を抜き放ち、その赤黒い毛が生えた背中へと飛び掛かった。

 毛を掴んで背中にしがみつく。

「セルギオス様?!」

 ヴラドの驚きの声がするが、私は構わずしがみついたその背中、そこから見えた熊の首の後ろに、両手で掴んだ包丁を力いっぱい突き立てた。

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