少女二人
一階のボスである犬を倒した後、故意に迷宮の奥へと進んでキャンプを開いた私とパーシャ。
時間は午後の四時半頃と、夕食を食べるのにも寝るのにも少し早い時間であるが、まだ局部の傷が落ち着いては居ない状態であろうパーシャを、まずはベッドに転がす様にして横たわらせた。
コロコロと表情を良く変える彼女だが、今、はにかみながらそのベッドに転がされている彼女は、私と犬との戦闘を見てから、顔を上気させたように頬を染め、何かに焦がれる様な視線をたまに私に向ける様になっており、今もベッドに横たえられた彼女からその視線を向けられて、なんだか小恥ずかしい私。
そんな彼女を尻目に、プロミネンスブーツとマントを半分硬化させた状態で脱いだ私は、それに付着した血と肉片を洗い流す為にバスルームに持って行った。
洗面所の灯りを付け、まずはブーツを洗面台のシンクの部分に置いて、ブーツの裏側とつま先と踵に多めに、後は汚れが目立つ部分だけ少しづつ洗浄剤を垂らした。
べつに洗浄剤の液体が入ったボトルの中身をブーツに一気に掛けて洗っても問題は無いのだろうが、貧乏性な私は一部だけを使う。
もしポイントをお金に換算するのならば、現在15万ポイント以上持って居る私は貧乏とは言え無いのだけれど、前の世界に居た時の『勿体ない』という概念はこちらの世界に来ても無くなって居ないようだ。
人殺しを続けて居る自分にモラルを語る資格は無いと思うが、そんな自分の中に残された数少ない理性を――――これ以上失いたくないからなのだろうか。
考えても答えは出ないし、実際ドバドバと湯水の様に洗浄剤を使うのが生理的に嫌なだけなのかもしれないが。
「殺すのも洗うのも、必要な分だけ……すれば良いのよ。」
洗面所の鏡に映る自分に向かって、そう言い聞かせ、全身にぐっと力を込める私。
途端、その鏡に映る自分の犬歯が少し剥き出て来たのが見える。
そう言えば、パーシャの事で怒りを覚えた時に感じた私の新しい変化が、その剥き出た犬歯だが……指先で少し唇を押し上げて見ると、成程……上の牙も、下の牙も、これはかなり鋭い。
ただ、犬歯は常時剥き出て居る訳では無いらしく、顎に力を入れる様にすると剥き出して来たり、引っ込める時は口を少し窄めれば良いらしい。 二、三度そうして剥き出したり、引っ込めたりすると身体が自然に慣れて来て、瞬時に牙を剥ける様になった私。
「……うむ……。」
益々魔法使いと言うカテゴリーからは遠ざかって行っている様な気がするが、もう自分はキツネという種族なのだ、と、割り切っている自分も居て、その矛盾が何だか笑える。
腕に自分で付けた噛み痕を見ると、軽く噛んだだけでこれくらいの傷が出来るのなら、本気で噛めば武器にもなるな、と、軽く頷く私。
「って、噛んだら血と肉の味がするよね……何考えてんだろ私。」
首を横に振って、馬鹿な考えを追い払う様にするが、一旦思い付いた人を噛み殺すイメージが頭から離れなくなってしまった。
「そ、そうだ。 ブーツ洗うんだった。」
ようやく元の目的を思い出した私は、ブーツに目を落とし、多少とろみが付いて居る洗浄剤を、汚れている部分指で薄く伸ばし、やがて洗浄剤の効果により、ブーツを汚していた血痕と肉片や、人の脂が浮き上がって来た。 それを綺麗なタオル替わりの布で拭き取り、最後にその布を水で洗い流せば完成である。
「噛み付くのは最後の手段。 そうしよう。」
布を絞った時、シンクに流れて行った人の血肉を見て、美味しそうとは思わなかった事に、ある意味安堵した私は、にやりと笑って再び牙を伸ばしてみた。
すると、いつの間に起き上がってきたのか、私の身体の横に、いきなり顔を出して来たパーシャが居て、私が何をしているのかをただ覗こうと顔を出して来ただけであろうそのパーシャに、驚いて噛み付いてしまう所だった。
「ちょっと……いきなり顔を出したら危ないでしょ。」
そう言って、私は彼女の顔を尻尾で払いのける。
だが、力加減を間違えて、もふん、と、彼女の顔に尻尾を押し付けるだけになってしまった。
もう少し力を強くすべきだったらしい。
その顔に当てられた尻尾を、更に両手で気持ち良さそうに撫でるパーシャに、まあ、自分の邪魔をしないのならば良いか、と、仕方なしに尻尾を委ね、最後にブーツを水拭きして、仕上げ作業に専念する事にした。
別に優しく尻尾を撫でられて、気持ちが良いという訳じゃないわよ。
ブーツの仕上げも終わり、乾かす必要は多分無いと思うので、そのままブーツを履いて
これが自分に熱いと感じさせないのが不思議だが、自分の魔法で自分を傷付けないのと一緒の事なのだろう。 そう私が考えた時だった。
パーシャはいきなり私と洗面台の間に自分をねじ込む様に身を入れて来て、私が片手に持っていた洗浄剤を取り上げると、床に置いて居たプロミネンスマントにもう片方の手を掛けたのだ。
「***!!!」
まるで熱したヤカンを触ったかのように、焦ってマントから手を引っ込めるパーシャ。
「え!? 大丈夫、パーシャ!?」
私は焦って、マントに付けた方のパーシャの手を開いて見てみると、彼女の真っ白な手の指先が少し赤くなっていたのだった。
申し訳なさそうに私を見上げるパーシャ。
このマントを装備出来る素質のある者以外が触ると……こうにまでなるのか。
私がマントを装備している状態ならば、味方と識別したパーシャにも危害を加える事は無かったので、私もパーシャも油断していた。
残念ながら彼女が負った火傷に近い傷にもポーションは効かず、パーシャは更にしょんぼりと肩を落とすと、シャワーを水に切り替えて手を冷やし始めたのだった。
子供がお手伝いをしようとして失敗した感じ。 彼女がしたのはそういった感じのもので、それに多少哀れみの念を覚える私だが、私自身も自分が普通に着ているマントが、存在しているだけで他人に影響を与えるなんて思わなかったのだ。
「カナ……。」
「痛い? ごめんね。 私も知らなかったんだ。 ……そっちの方はどう?」
私はパーシャのワンピースの、股の部分を指差して首を傾げる。
「……****。」
ロシア語で何かを言った後、口の端を少し上げて微笑むパーシャ。
彼女の意識を逸らす意図もあったが、あっちの傷口の方は悪くなっては居ないようで何よりだ。
こういう傷に対して、あまり鎮痛剤を飲みすぎるのもダメだとどこかで聞いた事があるが、副作用に心当たりは無いのと、火傷の事もあるし、まだ痛みがあるなら飲んではどうかと、腰のポーチから錠剤を出して彼女に勧める私。
すると、首を縦に振って錠剤を一粒口にして、こくりとそのまま飲み込むパーシャ。
水も無しに錠剤を飲み込む彼女を見て、あまりにも錠剤を飲みなれて居る様な彼女のその態度には多少の違和感を感じるが、これは突っ込んではいけない事なのだと思う。
まあ、前の世界で色々と……あったのだろう。
もう少し水で手を冷やしておきなさい、と、シャワーを差してパーシャに指示して、火傷した時に驚いて落としてしまったのだろう、少し中身の零れた洗浄剤のボトルを拾い上げ、もう片方の手でマントを床から引っ張り上げて、シンクに置くと、洗浄剤を塗り付けて汚れを落とし始めた。
自分は火傷をするのに、私が触っても大丈夫なのかと不思議がるパーシャだが、私の尻尾とマント、それからブーツを交互に見て、何故か勝手に納得する彼女だった。
一応彼女を安心させる目的もあって、私は綺麗にしたマントを
一瞬身体を強張らせる彼女だったが、私に引き寄せた彼女の手にさほど抵抗は無く、彼女の火傷して居ない方の手が私のマントに触れた。
触れた瞬間、びくん、と、手を震わせて目を閉じるパーシャだが、熱さも痛みも感じないその手を目をうっすらと開けて見て、その後で私の顔を見上げた。
「私が着て居る時は、大丈夫だから。」
「……ダー。」
首を数度縦に振って納得する彼女。 しかし、パーシャが自ら行った実験という形になってしまったが、こういう存在するだけで他人を傷付ける事が出来る装備が存在するという事の知識は、私の中の想像を膨らませた。
魔法の元素という物が存在するかしないかはさて置いて、火があるのなら氷もあるのではないか、と。
そして、相反する二つの装備を混在させた場合、その二つの装備は一体どのようになってしまうのだろうか、と。
装備には耐久値があるので、負けた方が消滅したりするのだろうか?
まあ、そんな装備は手持ちに無いので、想像しか出来ないが。
◇
さて、洗濯は終わった。 しかし……困った。
何が困ったかと言うと、パーシャとベッドに向い合って座ってみた私だが、する事が何一つ無いのだ。
これから約一日このキャンプに潜伏するつもりでは居るのだが、日本人とロシア人である二人では会話も通じないので、何故かベッドに向かい合って座っているだけになってしまう。
それでもパーシャは楽しそうなのが不思議で、それを見るのも良いのだが、いい加減飽きて来た。
そう言えば、と、疲れを若干覚えた私は、ベッドにごろん、と、仰向けに横になってみた。
青い光に照らされた石作りの天井が見え、ふと二ノ宮君と三島さんの事を思い出した私。
……三島さんが裏切ったと考えてしまったのは行き過ぎだったかな。
私が三島さんをいきなり殺したくなる意思が思い浮かばない様に、三島さんが二ノ宮君をいきなりどうこうしようとする心理に変化するとは考え難い。
レベルアップの後に何かあったのは確実だろうが、やはり二人はまだ一緒に行動しているのではないかと思う。
それで居て私の所に帰って来ないというのが、腹立たしいし、悲しいのだが……。
すると、私が泣きそうになっているのを察知したのか、パーシャは立ち上がって、私のベッドの横に歩いて来た。
「……何?」
「……カナ。」
私の名前を呼び、私が寝て居るの横を見下ろす彼女。
そこに座って良いかという意味だろうか。
「良いよ。 おいで。」
「カナ。」
ぽんぽん、と、そのベッドの部分を叩く私。
名前を呼ぶだけでコミュニケーションを取れるというのは不思議な感覚だが、複雑な事でなければ意外に成り立つ物なのだなぁ。 そんな事を考えて居た私の横に、とさり、と、腰掛けたパーシャ。
すると、彼女は私の服をまじまじと見詰め始めた。
特に、タイトローブのお尻の部分が気になる様だ。
尻尾のある部分、スカートと下着がどうなっているのか、気になるのね……。
シャワーを浴びた時に見せたと思ったのだけれど、ピアスの事でそれどころじゃなかったのかしら。
私は身体を捻って横にすると、タイトローブの後ろ、お尻の部分から、もふりと尻尾が現れる。
パーシャやはりその付け根がかなり気になるらしく、尻尾を優しく触ると、それを辿るようにして私のお尻に近付いて来るパーシャ。
……変な構図だわ。 でも、なんだか面白いわね。
でも、同性とは言え、あんまりお尻に顔を近づけられるのはちょっと……どうかしら。
私は、彼女が私の尻尾の付け根あたりに手を付ける前に、自らスカートの裾を捲り上げ、自分の下着とスカートの尻尾の穴がどうなっているのかを彼女に見せた。
「*****っ!?」
どうしてそんな下着があるのか、それとも自分で作ったのか。 そんな事をロシア語で聞いて居るのだろうか。 それとも私が一体何者なのかが気になるのか。 まあ、レベルアップする時には私の資質やスキルも明らかになるわよ。
この際だから、と、私は普段耳を隠す為に被っている赤いとんがり帽子も取ってパーシャに見せた。
そこに現れたのは、金色と白の毛が混じったの狐の耳が二つ。
「**……**?」
それに恐る恐る手を伸ばすパーシャ。 その彼女の仕草が面白かったので、私はわざと耳を動かしてみた。
びくん、と、身体を震わせて手を止めるパーシャ。
だが、私が笑って居るのを見て、からかっているだけなのだと分かったのだろう、耳の先端の毛を撫でる様に触り始める彼女。
不思議なもので、これがまた……気分が悪い物では無い。
むしろ他人に触られると結構気持ち良いもので困る。
奥の方を指先でカリカリとされたら、何か脳からいけない汁が出てきそうな感覚なので、それは絶対に人には言えない。 二ノ宮君ならば既に知っているかもしれないが。
◇
「ほぁっ!?」
空腹で、気が付いたら、横にパーシャの寝顔があって吃驚した私。
耳を触られた心地よさからか、つい私も寝付いてしまったらしい。
……身体が少し軽い。 何もなくても少し休むのは、良い事だな。
私は両腕を上に伸ばして伸びをすると、立ち上がって端末に向かった。
今日の夕食は何にしようか……。 昼はボルシチだったので軽めの物にしよう。 そうだ、パスタにでもしようかしら。
「パーシャ。」
私の声に、んん、と、寝ぼけ眼で起き上がる彼女。 すると、私が端末を操作しているのを見て、ご飯の時間だ! と、私に飛びついて来る様な勢いで寄って来た。
「好きなの指差して。 私は……これかな。」
牛肉と生パスタのボロネーゼ。 80P。
と、パーシャが端末を操作して選んだのは、たっぷりのマヨネーズに、生ハムとサラダ、それにクラスノセルスキーという黒パン。 パーシャのは意外に高く付いたわね。 140P。
……次は彼女のクリスタルを使おうかしら。
ちなみにたっぷり過ぎるマヨネーズと具材が挟み込まれた、表面がパリッとした柔らかいパンは、私も食べさせて貰ったが意外にも美味しくてびっくりした。
多分、彼女にとってもご馳走なのだろう。 美味しそうにそれを頬張るパーシャが少し微笑ましかった。
ただ、更にパンに追加でマヨネーズを塗りたくるのはどうかと思ったが、これから地獄の様な生き残りの為の戦いの日々が始まるのだ……。
食べ物くらい自分の好きな物を食べても、文句を言うまい、と、私も食に関しては口を噤み、更に自分を甘やかしてデザートである焼き立てのアップルパイを二人で食べてしまった。
100P。 悔しいがスイーツは結構高い。
が、満腹感に満たされた私達は、だらしないとは知りつつも、ベッドに横になってお腹が落ち着くまでまったりとした時間を過ごしたのだった。
◇
さて、少し休んだ後は、運動でもしようか、と、戦い方を全く知らないパーシャに少し稽古を付けてみる事にした。
私の戦い方は全てが我流で、実戦でしか覚えて来た事が無い体術ではあるが、その実戦で覚えた感覚は、絶対彼女にも役に立つはずだ。
私はブーツとマント、それからタイトローブも脱いで部屋着のワンピースに着替えると、ファイティングポーズを取ってパーシャを挑発してみた。
すると、乗り気になったのか、多分私が手加減してくれるのも分かって居るのだろう、同じようにファイティングポーズを取って私に対峙するパーシャ。
「ふっ!」
と、パーシャの方から繰り出されて来た筋力3のへなちょこパンチ。
ぺしん! と、私はそのパンチを右の手の平で叩き落として、左手の人差し指でパーシャの眉間を突いた。
「**!?」
私の速さに驚いたらしいが、あんなに素直に攻撃を繰り出したのでは、躱されるに決まって居るでしょうに。
それに力技というのは、経験上私達非力な者には向いて居ない。
その代わり、自分達の容姿や体格を利用した、反則的な攻撃ならば相手に当てやすい。
そうだ。 フェイクのようなものを教えてみるか。
って、私も何で歴戦の戦士みたいな事言ってんだろうね。
何日か前にはムカデに太腿をかじられて粗相をしていたというのに。
まあ、それを克服したから私は今はここに立って居られるのだし、レベルが上がれば彼女も少なくとも今よりは強くなる筈だ。
「パーシャ。」
自分に視線を集中させるようにして彼女の名前を呼ぶ私。
身体を脱力させて、弱々しい感じを纏うと、同時におどおどした表情を浮かべて、恐る恐る彼女に近付いて行く。
え? 何? と、パーシャは私の行動に戸惑い――――そして、私の射程内に入った時に、一閃。
私の鋭い左足の前蹴りが、パーシャの顎の先に伸びていた。 同時に巻き起こされた風が、彼女の前髪を揺らす。
ぺたん、と、腰を抜かして床に座り込むパーシャ。 本当に蹴られると思ったのだろう。
私は彼女に手を差し伸べて立たせると、口の端に笑みを浮かべながら、あなたもやってみなさい、と、指示する。
察しの良い彼女は、ああ、そういう事か、と、私がしてみた事の意味を理解した。
彼女は、今度は、笑顔で普通に私に向かって歩いて来た。
男ならば完璧に気を許すレベルの擬態だ。
私は彼女の次の行動を看破しているので、攻撃を食らう事は無いが、一度で趣旨を理解するとは上出来である。 元々そういう擬態に長けて居るのかもしれないが。
視線を合わせるか、合わせないか、絶妙な感じで、私とすれ違う様に歩きざま――私の左脇に手刀を放つ。
勿論、その手は私の身体の捻りによって躱されるが、良い動きだ、と、私は彼女の頭をぐりぐりと撫でてやった。
◇
小一時間程そうやって身体を動かして、彼女に戦い方、主に人の殺し方を教えた。
やがて、流石にもう無理、と、股を押さえる彼女に、パーシャの局部の傷の事をすっかり忘れて居た事を思い出し、
「ご、ごめん。 そうだった……。」
そう謝罪をして彼女に肩を貸してベッドに身を横たえると、ポーチから鎮痛剤を出して彼女に飲ませる私。
鎮痛剤が切れたが故のみの痛みなのかと確かめる為、一応彼女のスカートを捲って、下着替わりに巻いて居る包帯を取ってみる……と、少し傷口が開いて居たらしく、包帯に僅かだが血が滲んで居た。
ご飯の後にトイレに行った時には傷口は開いて居なかったので、自分が彼女に課せたトレーニングのせいなのだろうが、
「カナ……。」
まるで自分が耐えられなかった事が悪かったかのように私を見るパーシャ。
彼女が前の世界で、どの様にこの子が扱われて来たのか、私は知らない。
知らないが、何もかも自分が悪いと受け入れる姿勢には、心当たりがある。
彼女は、まるでかつての自分、自己嫌悪にだけ取り憑かれていた自分と一緒なのだ。
「大丈夫。 ごめんね。 ほら、尻尾、触って良いから。」
多分彼女のお気に入りとなったであろう自分の尻尾を、彼女の襟首にそっと置く私。
それを指先でそっと撫で始める彼女は、鎮痛剤の効果もあってか、数度ゆっくりとした瞬きをするうちに、眠りの世界へと落ちて行ったのだった。
その眠りに落ちたパーシャの前髪を、そっと撫でる私。
「この世界では、あなたは……きっとあなただけの、あなたになれるわ。」
そう言って、前髪をよけた彼女の額に、私は眼鏡を外した後、自分の額をくっつけた。
自分が何故そんな事をしているのか良く分からないが、何となくそうしたくなったのだ。
「私たちは、一度死んだ身かもしれないけれど、二度目は強く……生きよう。 もっと強くなって……生き残ろう……ね。」
もしかしたら、その言葉はただ自分に言い聞かせたかっただけかもしれない。
尻尾を撫で付けられて、いつの間にか自分まで微睡んで居た私は、パーシャの寝息を耳元に聞きながら、彼女の頭の横に自分の顔を埋め、知らず知らずのうちに眠りに付いていたのだった。
◇
「カナ。 カナ。」
「ん……んん?」
肩を揺さぶられて、眠りから覚める私。
不覚にも自分がパーシャの横で寝入ってしまっていたのだと気付いて、慌てて口元の涎を拭う。
「ドヴーラエ、ウートラ。」
「……ん? おはよう? っ!!」
しかし、改めて自分が寝ていた場所を見れば、自分の涎でシーツが濡れて居て、慌ててその場所も手で擦ろうとする私。
だが、それを見てケタケタと笑い始めるパーシャ。
「むっ……。」
ピシィン! と、そのパーシャのおでこに左手で張り手を食らわせる私。
「ひゃぷっ!」
声を上げてそのおでこを押さえるパーシャ。
間抜けな寝顔を見られていたであろう事に多少顔を赤らめた私は、パーシャから逃げるようにバスルームに向かったのだった。
◇
顔を洗い、整髪料で髪を真っ直ぐに整えた私は、またキャンプの部屋に戻って、壁に備え付けてある鏡に映るその自分の髪で遊んで居た。
上で一つにしばって侍のようにしたり、横に二つにしばってみたり。
でも、別にそれで準備をして出発するという訳では無く、今日の午後、夜近くまで潜伏する事を既に決めて居た私が、朝食前の暇潰しをして遊んで居るだけなのだ。
すると、鏡に映る私の後ろに、指を咥えて物悲しそうな顔で現れたパーシャ。
少し放って置いたらすぐ泣きそうになって寄って来るなんて、捨てられた子犬の様な子だ。
おいで、と、西洋式に手で呼び寄せると、ぱぁ、と、表情を変えて寄り添って来る彼女。
そして、近寄って来たら、今は縛っていない私の髪を、手櫛で髪を梳く様に触るパーシャ。
「*****……。」
「な、何よ。」
何度も何度も髪を手で梳くパーシャ。 しかもうっとりとした目で。
そして、自分のセミロングの金髪を触り比べると、溜息を一つ漏らす。
へぇ。 そんなに綺麗な金髪なのに、私みたいなストレートの黒髪に憧れがあるのかしら。
そう思われて悪い気はしない私は、黙ってそのパーシャに自分の髪で遊ばせる事にした。
パーシャは指でくるくると私の毛を巻き取ると、ぱっと離してするりと下に落ちる私の髪。
完璧に遊んで居るのだろうが、歳相応なそんな彼女の態度に、自分も久々にただの女子中学生に戻った様な気分になる私。
「ねえ、三つ編みにしてよ。」
私は自分の髪を指で三つに分けると、後ろに居るパーシャに向かって付き出してみた。
「ダー。」
返事はしたが、つるつると滑る私の黒髪は、余程編み難いのだろう。
何度も指先で私の髪を抓んでは、指に絡めて三つに編もうとするが、二つ三つ編み込んだところで髪が緩むと、全体が崩れてしまい、ふわりと元の形に戻ってしまうのだ。
それでも何度か髪にクセを付けて行くうちに、ようやく形になって来ると、舌先でぺろりと下唇を濡らすパーシャ。 真剣になる時の彼女の癖なのだろうか。
そうして十分程悪戦苦闘しながらも作られたパーシャによる三つ編み。
彼女にとっては渾身の力作なのだろう、得意げに腰に手を当てる彼女。
「スパシーバ、ありがとう。 パーシャの髪も、私がしてあげようか?」
振り向いて指先で彼女の髪先を軽く撫でると、
「……ダー。」
少し顔を赤らめながら頷くパーシャだった。
◇
外国の人の髪、所謂金髪は産まれて始めて弄ってみたが、整髪料で整えても尚柔らかく波打つ金髪というものは、とても編みやすいものだった。
パーシャの耳の後ろあたりの左右に一つづつ三つ編みを作って見たが、一瞬で終わった。
その二つの三つ編みの先端は、赤い紐を結び、金髪に良く似合う。
柔らかい髪で、金髪って綺麗だと思うけどなぁ。 人間って、自分に無い物を欲しがるものなのかしら。
ちなみに私の髪の先端にも、同じ赤い紐が結んであるので、パーシャとお揃いである。
それが嬉しいのか、自分の髪の毛の先端を指先で弄びながら、微笑む彼女。
◇
朝食は私もパーシャも、フルーツで簡単に済ませた。
その後、パーシャの局部の傷を見てみたが、一晩経った現状では血が固まったかさぶたの様になっており、それが剥げて来ない限りは出血の心配は無さそうだ。
その後、パーシャは昨日の夜の様に戦闘訓練をしたがったが、大事を取って私はそれを断り、代わりにお互いの国の昼ごはんなるものを作ってみてははどうかと提案した。
だが、残念ながらパーシャ、食事を作るどころか刃物を持った事も無いらしく、ならば私はそれを教えようじゃないかという事になった。
勿論、彼女が刃物を持った事が無い理由には、察しが付いて居た。
そういった武器の類を彼女に持たせては、都合が悪い人物が居たからなのだろう。
そういった用途でのみに、ロシア人の何者かが彼女を使って居たと思うと、本当に吐き気がする。
だからと言ってはなんだが、私は彼女に刃物を持たせる事を躊躇わなかった。
正面から彼女に向かって包丁の柄を向けて渡し、彼女がその気ならば私の腹を刺す事が出来ただろう。
私はマントはおろか、ブーツにローブさえも着ず、部屋着であるワンピースのままだったのだから。
彼女がそれをどう思ったのか、それは分からない。
だが、実際に彼女は私を刺す事は無く、彼女の手を覆う私の手によって、人参の皮とじゃがいもの皮の剥き方を彼女は教えられ、自分が何かをする事が出来る、それが嬉しいと言わんばかりに、必死に皮を剥いたパーシャ。
形は歪だったが、トマト風味のスープに少し焼いたベーコンを入れたものに、わざと大きめに切ったその人参とじゃがいもを入れて、西洋風の鍋が出来上がった午後二時頃に、それを二人の遅めの昼食とした。
自分で切った野菜の味を、泣きそうな顔をして味わうパーシャ。
「こういうのって、アレだっけか。 ハラショー? で、良いの?」
「カナ!? ダー……ハラショー。」
「そっか。 うん。 じゃあ良いね。 ハラショーで。」
私がいきなりロシア語を話したのと、確か、凄いとか、素晴らしいとか、そういう意味で使う言葉の意味なその言葉にパーシャは吃驚した反応を示し……結局泣かせてしまった。
「***……*****カナ……。」
「だからロシア語は分からないってば、もう……。」
そう言って、頭を撫でた瞬間、私の胸に、抱き付いて来たパーシャ。
漏れる嗚咽がお腹のあたりに聞こえ、胸のあたりに押し付けられた彼女の両目から溢れる液体が私のワンピースを濡らしていく。
そして、彼女は、誰かの名前の様なものを繰り返し言っている様だ。
家族の名前なのだろうか。 それとも母とか、父とか、そういう固有名詞なのだろうか。
でも、何となく、その人達は……前の世界でパーシャが命を落とした時点で、既にその世界に居なかったのでは無いか、そんな気がした。
彼女の声は、いつか帰りたいと夢焦がれる物に対する言葉では無く、既に失ってしまった何かに、決別するものなのでは無いかと感じたからだ。
彼女とは、結局もう一つ、共通点が出来てしまったようだ。
私達には、帰る場所など、無いのだ、と。
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