141 黙音


「老師、今から少し隠密の訓練をつけてもらえませんか」

「嫌じゃ。おぬしはもうワシの訓練はいいと自分で言ったじゃろう」


 取り付く島もない。

 確かに俺だってその言葉を覆すつもりはないし、こんなことがなければ一時的であっても撤回する予定だってなかった。

 でも繰り返し鳴らされる音に嫌な予感が高まっていくのだ。


「お願いします、老師。

 隠密ダッシュで音の主を確認してくるだけでいいんです」


 その人が無事であれば、俺だってひとまず安心できる。


「ダメじゃダメじゃ。歩が首を突っ込むと碌なことにならん」


 俺は老師に向かって頭を下げたが、老師は前方に向き直って歩き出してしまった。


 くっそ…っ


「わかりました。じゃあ一人で様子を見てきます。

 風刃、荷物頼んだ」

「わかった」


 足元に荷物を全て投げ出すと、反対しなかった風刃に甘えてそれらを任せ村への道を引き返す。背中で何か声が聞こえたが、あっという間に風に紛れて聞こえなくなってしまった。


 たしか音は倉にいた時が一番大きく聞こえたから、まずは裏側に回ってみて…。


 バコン!


「い゛っ!?」


 不意に後頭部に痛みが走って思わず減速して頭を押さえてしゃがみ込んでしまった。鞘でバコバコ殴られていた時よりずっと痛い。

 顔を上げると俺の前方まで走って急停止した老師が腕組みして立っていた。その手には鞘とほぼ変わらない太さの棒。あれに殴られたのだろうから、そりゃあ痛いはずだ。


「自分のケツも拭ききらんヒヨッコが勘違いするんじゃないわい!

 人助けがしたいなら、まず自分の世話を自分でしきれるようになってからせんか!」

「でも老師たちなら助けてあげられるんじゃないんですか!?」

「ワシらはお前の護衛としてついてきたんじゃ。人助けなんぞしとる余裕なんぞない。

 下手に動いて余計に状況が悪くなったらどう責任をとるんじゃ、バカもん!」


 もはやその形相は仁王像のようだった。怒声と共に雷を落とせるかもしれない。


「だってあんなに何度も鳴らしてるんですよ?

 何か大変なことが起きてるかもしれないじゃないですか。

 ちょっと様子を見てくるくらい」

「ほう。ではもし子供が泣いておっても歩は何もせずに引き返せるのか?

 誰か死にかけておったとしても見捨てて旅を続けられるのか?ん?」


 俺の言葉を遮った老師は木の棒の先端を俺の額にグリグリと押し付けた。

 とても意地の悪い顔で笑っている老師の顔を思わずグーでぶん殴りたくなる。どうせ当たりはしないだろうし、できないけど。


「このまま何も聞かなかったことにして見捨てろって言うんですか」

「最初からそう言うておる。

 音の主を確かめるだけで歩が満足できるはずがあるまい。

 話を聞けばそのまま強制的に巻き込まれることになる。

 どこかで見捨てなければならんのであれば、最初から何もせんほうが何百倍もマシじゃ」


 老師は俺の額に擦りつけていた木の棒を地面に立ててしゃがみ込むと、俺の顔を間近でのぞきこみながら低い声を出した。


「あの夜に何も学ばんかったのか?行動には全て責任が伴うんじゃ。

 誰かが水に溺れているのが見えたとしても、水泳の心得がない者が飛び込んだとて死体が増えるだけ。

 ここは聖王国なんじゃぞ。どんな些細なことからでもギルドの片鱗が見えれば皆殺しにされる危険性がある。

 もしまたワシらの言う事を聞かずに飛び出すようなら、今度はこんな棒きれじゃすまさんからの」


 老師は一方的に喋りきると手にしていた木の棒を投げ捨てた。カランと転がった棒があぜ道の脇へと転がっていく。

 老師がその気になれば俺に気づかせないまま意識を刈り取ることだって十分可能だ。これはそんな警告なのかもしれない。


「でも老師っ、おれ…俺はっ、人を…殺しました。

 なのに助けられるかもしれない人がいて、それを見捨てていくなんて」


 何のためにボスを殺したのかと言われたら、盗賊たちの勢いを削ぐためだ。

 被害者が一人でも減り、生き延びる人が出てくるのならやった意味はあっただろう。

 だけどそんなの目には見えない。何の被害も受けなかった人がいたとしても、その人は俺が何をしなくても無事だったかもしれない。起きなかった事件の被害者なんてそもそも存在しないんだ。

 俺はあの夜、この手を血で汚して何を守ったのか…それが未だに分からない。

 やる前はあんなにやらなきゃならないって強く思っていたはずなのに、今となっては誰を守れたんだろうと…そればかりをずっと頭の片隅で考えている。

 だからせめて俺の目の届く範囲にいる人が助けを求めるなら、そしてそれが俺にできることなら手を差し伸べたい。こんな俺の考えは間違っているんだろうか?


「フン。他人を殺して生きている人間なんぞ、そこらじゅうにおるわい。

 大陸の北西には人食い族どもが闊歩する平原があるし、北東のCUや聖王国でも毎日奴隷達が使い潰されて死んでおる。人間を食料とするモンスターだって大陸中、どこにでもおる。

 ちっぽけな人間の死なんて世界中にありふれとるんじゃ」


 しかしやっと絞り出した俺の言葉を老師はあっさりと流した。

 本当にそれが当然みたいに。そんな世界をその目で見てきたみたいな顔で。


「人の命の重さなんての、本当に軽いんじゃよ。

 だからこそ自分の手で守れるように強くならねばならん。

 人助けがしたいのであればまず他人に手を差し伸べられるだけ自分が強くならんか。

 他人の力を利用して成し遂げようとするんじゃないわい」


 老師の言葉にハッとした。

 そうして気づいた瞬間、猛烈に恥ずかしくなった。


 俺は自分自身が弱いと知っている。

 だからそのぶん誰かを助けたかったら頭を使わなきゃいけないと思っていた。

 でもそれは例えば軍師ように効果的な戦略を練っているわけでも、あるいは特殊な技能を使って困難な状況を切り開いているわけでもない。


 俺は周囲の人たちの力をアテにしていただけだった。

 それなのに自分が助けた1人になったつもりになっていた。そんなはずはないのに。


 何かを守り通せた達成感もなく、心に空虚な穴が開いているのは当たり前だった。

 俺は自分一人の力でまだ何も成し遂げていない。何も守りきれてはいないんだ。

 今ようやく老師に言われてそれに気づいた。穴があったら隠れたい気分だった。


 俺自身の弱さを指摘され強くなれと言われ続けた言葉の本質が、ようやく見えた気がする。


「勘違いしてました。すみません…」

「フン。そのくらい自分で気づかんか、バカたれ」


 下を向く俺の脳天にチョップが入った。

 悶絶するほどの痛みではないが、でもやはり少しだけ痛い。

 でも本当に痛いのは胸の奥だったかもしれない。


「あの…図々しいのは承知なんですけど、オレガノに戻ったらまた稽古つけてもらえませんか?」


 顔を上げたらいつもの不機嫌な老師の顔がそこにあった。

 片眉だけ持ち上げ見定めるような細目で俺を睨んでくる。口を開いた途端に“ダメじゃ”の一言が飛んできそうな厳しい顔つきだった。


 正直に言えば、まだ胸の奥に老師を許せない気持ちはある。

 あの時、もし老師がニュクスィーを帰らせようとしたなら、いくらでも言いくるめることはできただろう。

 だがニュクスィーは俺を恨まないと言った。その胸の内はどうであれ、後悔しているかと尋ねたら後悔していないと答えるだろう。

 それなのに俺がいつまでも老師を許せないのは、なんだか少し違う気もする。

 老師を恨む気持ちの核が失われて掴みどころのないモヤだけ残ってしまったような、そんな気分だ。


 だけど俺は強くなりたい。今度こそこの手で守りたいものを守れるように。

 そのための一番確実な近道は、老師に頭を下げて教えを乞うことだ。


「ワシは訓練が終わりだとは一言も言うておらんじゃろうが。

 歩がヒヨッコのくせにもういらんと突っぱねただけじゃ。

 錆びついた剣を振り回すしか能のない盗賊への強襲に成功したくらいで慢心しおって…まったくバカたれが」

「いたっ。何度も同じところ叩くのやめてくださいよ」


 今度は掌で叩かれただけだったが、やはり痛いものは痛い。

 抗議したが老師はすくっと立ち上がると街道への道を歩き出す。


「さっさと走らんか。本当にこのままでは日が暮れるぞ」

「はい」


 老師の声に俺も立ち上がって膝の汚れを払った。

 一度だけ背後を振り返り、ゴメンと小さく呟いて老師の背中を追いかけて走り出す。

 夕暮れの中、俺の背中を追いかけてくる音はもう聞こえなかった。




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