92 狼肉と塩


 歩きながら再び滾々と説教を始めた老師の勢いに押され、風刃との会話は途中で立ち消えてしまった。

 しかもその説教にいつの間にか風刃まで巻き込んでしまった、申し訳ない。


 いや、我ながら無茶をした自覚はあるし、まったく反省してないってわけでもないんだけども…。


「こりゃ歩っ、ちゃんと聞いとるんかっ!?」

「は、はいっ!」


 重い麦を担いで走り、ボーンウルフの群れ相手に大立ち回りをしたとはとても思えないくらい元気だ。名指しで怒られた俺だって思わず背筋を伸ばしてしまうくらいだから、これで老人扱いしようなんて失礼というものだろう。

 老師みたいな人は本当にヨボヨボになるまで元気に長生きするに違いない。


 老師のお説教をたまに右から左に聞き流しつつ、俺達は南に向かってひたすら歩き続ける。

 蓄積した疲労とそれぞれの体の傷のせいで歩みは決して早くない。

 それでも着実にオレガノに近づいているという事実が俺達の足を動かしていた。


「夜明けだ」


 いつの間にか老師のお説教も終わり、俺達は夜の闇の中を静かに歩き続けていた。

 そんななか白む空を見上げながら呟いたのは誰だったか。

 夜の闇がゆっくり薄らいでいき、目の前に見覚えのある小高い山が見えた。

 ここまで戻ってこれたらあと少しだ。


「このあたりで一度休憩じゃ。

 焼いた肉を食い仮眠をしたのち、山を越えてオレガノに戻る」

「はい」


 誰からともなく足元に木製バックパックを置いて焚き木用の葉や枝を集め始めた。

 風刃はボーンウルフから剥ぎ取った肉に切れ目を入れ、表面の皮を削いだ枝で刺している。焚き木で肉を焼く工夫だろう。枝は火にかけると燃えそうで不安だったが、金属製の串の持ち合わせはないので仕方ないのかもしれない。


 集めた枝を燃料にして焚き木を作るとそれぞれさっそく風刃が用意してくれた肉を炙る。

 串代わりの枝が燃えないかちょっと冷や冷やしながら焼いていたのだが、思っていたより燃えなさそうだ。もしかするとまだ肉が水分を含んでいるからかもしれない。


「せめて塩があればな…」


 胡椒こしょうもあればなんて贅沢は言わないからさ。


「肉を焼きながら寝てるのか?

 塩なんて海沿いの漁村に住んでる奴らくらいしか簡単には手に入らないぞ」


 だよなぁ…。


 カリウムの言葉に苦笑いしか浮かばない。

 なんせインフラが死亡している世界だ。物流は全て旅の商人たちの足にかかっている。

 アスファルト道路なんて夢物語。街道と言えば人々が幾度も通って踏み固めただけのあぜ道だ。

 そこを獣や野盗に襲われる危険にさらされながら商隊を組んで進む。

 パンや肉の物流さえ行き渡らない地域があるという世界で香辛料のトレード額は嗜好品のレベルだ。


 オレガノは北に農業大国である聖王国、南に広がる湿地帯のラッシュという土地に挟まれていて、行商人の行き来も多い。荒野が広がる一帯でありながら金さえ払えば食料が手に入る状況というのはそれだけで恵まれているらしい。

 でもそんなオレガノであっても香辛料を手に入れるのはそう簡単ではない。


「海水さえあれば煮るだけで塩が取れるっていうのに…」


 オレガノは食料に困らない恵まれた土地だというが、内陸部のせいか塩の流通はほとんどない。パブのマスターが辛うじて料理に使ってくれている程度だ。


「カイスイ?なんだ、それは?」

「海の水だよ。風刃の故郷の周りには海がなかったのか?」

「なかった。ウミってなんだ?」


 風刃が不思議そうな顔をして首を傾げている。

 風刃の故郷は山に囲まれた辺境だって話だし風刃自身も村の外を旅したことがないらしいので知らなくても不思議ではない。


「うーん…バカでかい湖だよ。舐めるとすごくしょっぱい」

「しょっぱい?なんで?」

「いや…そこまでは知らないけど」


 海の塩分量とかミネラルの話とか難しい話までは知らないからな。

 というかこの世界にも海はある…よな?塩もとれるよな?


 ちょっと不安になってカリウムや老師の顔を盗み見るが、特に変な表情は浮かべていない。

 恐らく俺の杞憂だったのだろう。

 けれどこの世界には魔法みたいな俺が暮らしていた世界にはない理が存在している。

 あまり地球の常識で物事を考えるのは危険かもしれない。今後気を付けよう。


 それにしても、疲れた…。

 肉を焼いてる間に寝ちゃいそうだな…。


 大量の麦の運搬という重労働で酷使した体でウルフの群れと戦い、明け方まで歩き続けたのだ。焚き木を囲みじっと座っていると食欲なんかより睡魔の方が強い。

 そもそも鉄板焼きとは違うので肉に火が通るのにも時間がかかる。焚き木から少しだけ離れた地面に肉を刺している枝を突き刺して、もう横になってしまいたい。


「ふわああぁ…」


 盛大な欠伸を漏らした俺は肉を焚き木で炙りながら知らぬ間に眠りの海に落っこちていた。






「フン、眠りおった。この辺りにもボーンウルフの巣が点在しとるというのに呑気なもんじゃ」


 老師が見ている前で眠り込む歩の手から肉が落ちた。寝息をたてる歩に目覚める気配はなく、落ちた肉は彼らが移動した後にボーンウルフの一頭が平らげるに違いない。


「歩は寝ている間が一番安心して見ていられますよ。

 起きてると危なっかしすぎておちおち目を離せません」

「イオレットがえらい気にしとった理由がよう分かったわい。

 こやつ、自分の無謀ぶりに気づいとらん。一番早死にするタイプじゃの」

「本人はこれでも慎重派のつもりでいるんですから、振り回される周囲はたまったもんじゃありませんよ」


 ギルド内ではそれほど接点がない二人だが互いに知らない仲でもない。まして今は同じ依頼人を護衛しているという立場にあり、共通の話題には困らなかった。

 老師はイオレットがオレガノ拠点のボスになる前からの付き合いであり、もともと気の置けない仲だ。旅の最初のうちは一応部下としての体裁はとっていたものの、今ではもう開き直ってイオレットの名前を呼び捨てている。

 しかし彼らの頭痛の種は目の前で眠りこける歩だ。

 聖王国に麦を買い付けに行くだけならば誰に頼んでも同じだろうと眉を寄せた老師にイオレットは食い下がった。“並の人間ではとても手に負えない”と。

 その時のイオレットの心境が今の老師には痛いほど解る。イオレットの判断は決して間違ってはいなかった。護衛員としても、歩の先輩としても、拠点ボスとしてもだ。


「小僧、おぬしの生まれ故郷…なんといったかのう」

「チーウェン」

「そうじゃ、そうじゃ。チーウェン村じゃ。

 残念ながらワシの記憶の中にはない。

 若い頃、この大陸を北東のCUの端から西端の漁村に至るまで、人が暮らしている地域は任務であらかた走り回ったがそんな村の名前は聞いたことがない。

 ワシが知らん隠し村か、十年以内くらいの間に出来た村でなければこの大陸には存在せんかもしれん」


 老師の言葉に口数少なく答えた風刃は老師の返答に黙って頷いた。


 歩とカリウムが農村に麦を買い付けにいっている最中、街道で2人を待つ彼らも少しだけ会話をしていた。

 もっとも風刃がもとより口数の多いタイプではなく老師もおしゃべり好きというわけでもないのでさしたる会話はしていないが。

 そんな中で唯一風刃がよく話したのが、彼が探しているという故郷の村の話だった。


 そもそも誰が一体どんな目的で風刃を故郷からこれほど離れた山に捨てていったのか理由は未だに解っていない。

 そこまで強く誰かに恨まれていた記憶がない風刃にとっては青天の霹靂であり、手を尽くして故郷に戻れるのならば帰りたいと思っている。

 けれどその道行は風刃が考えている以上に過酷なものになるかもしれなかった。


「もし海を渡りたいなら漁村を訪ねるといいじゃろう。

 ワシが知る中で最も大きな船をもっているのは大陸の北東の端にあるCUの都市じゃが、オレガノから向かうには聖王国を北に抜け、山脈と大河を越えたあと広大な砂漠を行かねばならん。

 仮におぬしがどれほど屈強な戦士であっても一人旅では命を落とすじゃろう。聖王国で十分に体を鍛え、仲間を募り、旅の準備を怠らぬことだ」


 風刃は時折頷きながら老師の話を黙って聞いていた。

 西の空に昇る太陽がそんな彼らを照らし、影を作っていた。






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