80 ヤギの餌問題 4


「来たか」


 盗賊ギルドの4階に上がると足を組んで椅子に座るイオレットさんと目を真っ赤にして泣きはらしたニュクスィーが床に座り込んでいた。

 下の階でようやく床に降ろしてもらえた俺は履き直したばかりのブーツの音を響かせて二人に歩み寄る。背後からのんびりとしたカリウムの足音もついてきた。


「ぐすっ、ぐすっ…」


 まだ泣き止んでいないのかニュクスィーは小さく鼻をすすっている。


「泣いてもどうにもならないってやっとわかったか?」


 俺が横目に見ながら声をかけるとニュクスィーは目元を拭いながら無言で顔をそらした。

 俺とは話したくないという意思表示のようだ。


 これ以上俺にまとわりつかないなら、それでもいいけどな。


「必要もないのにこれ以上いじめるな。

 余計に話がややこしくなるだろうが」


 後ろから距離を詰めてきたカリウムに小突かれた。

 ニュクスィーのワガママはともかく、“ロットに立ち寄った時点で肉屋に持ち込んでいれば、こんな面倒なことは起きなかったんだぞ”とブーツを履いている時に釘を刺されたばかりだ。

 それには反論できなかったので素直に謝ったのだが。


「歩、カリウムから話は聞いているか?」

「はい。

 ニュクスィーが今すぐ聖王国に麦を買いに行くと騒いでギルドの皆さんを困らせてるって」


 イオレットさんの質問に答えただけなのに、今度は後頭部をはたかれた。

 後頭部をさすりながら横目で軽く睨んでおく。何も手を出すことはないだろう。


「その件についてはギルドとして依頼を受けるのは難しいと彼女に伝えたばかりだ。

 聖王国は純血種の人間に対して以外は基本的に排他的だ。

 純血種の女性であってもあの地に生まれ落ちなければ足を踏み入れたいと思わないのが一般的な認識だと思う。

 そのどちらもタブーとなる彼女の護衛を頼まれても我々ではその身の安全を保障しかねる。

 彼女もきっと十分にその困難さを理解してくれたはずだ」


 ニュクスィーは顔を伏せたまま返事をしなかったが、反論しないということはイオレットさんに上手く説得されたんだろう。


「だが歩と同様に彼女もまた盗賊ギルドのギルド員だ。

 こうして助けを求めてきたからには、我々としても可能な限り手と知恵を貸してやりたい。

 我々が聖王国へ行きたがっていた歩に護衛として同行したのと同じようにな」


 盗賊ギルドは1万コマンの登録料を支払えば誰でも加入できる。

 仕事の依頼や請負も必ず金銭やりとりが発生するのでビジネスライクなところがあるのは否めない。

 けれど相互扶助を理念として掲げるギルドの根底を支えているのは、何よりギルド員達の助け合いの精神のような気がする。

 困っている誰かがいる時、手を貸してやれる誰かが動く。それには地位や登録時期など関係なく、時にテイク以上のギブが与えられたりする。そして救われた誰かがまた別の機会に今度は違う誰かを助ける。そういうふうにこのギルドは回っているのかもしれない。


「ところでヤギの片割れは歩が連れ帰ったあの白ヤギだろう?」

「はい」

「君はあのヤギを何故あのとき村から買い取った?」

「ラプターの襲撃によって農作物被害を受けた村のために微力でも力になりたかったからです」

「ふむ。じゃあ何故そのヤギをロットに立ち寄った時点で肉屋に持ち込まなかった?」

「あの時は…まさかあんなに餌が必要だと思わなかったので」


 俺が床の木目に視線を落とすとイオレットさんがフッと笑った。


「別にあたしは歩を責めてるわけじゃない。ただ事実を確かめているだけだ。

 あの山のふもとで傷だらけの男を拾った時、どうしてヤギを置いていこうとしなかった?」

「ヤギは自分で歩きますから、荷物の総重量とは関係ないかと」

「そう…。で、そろそろ気づいてるか?」

「え?」


 イオレットさんが意図することが分からず顔を上げると緩く持ち上がった口元が見えた。


「歩はオレガノに帰り着くまでに何度もヤギを手放す機会があったのに、それを選択しなかった。けれどそれに対する明確な理由を一度も口にしていない」

「明確な理由って言われても…特にないので」


 なんだか見透かしたような笑みが嫌でそっけなく答えたけど、イオレットさんは全然意に介した風はなかった。


「人間はね、手を抜くことには理由はいらないけど、手がかかることをするにはそれなりの理由が必要な生き物なんだよ。

 だからわざわざそんな選択をした歩にも歩なりの理由があったはずだ」


 手の中でくるくるとペンを回しながらそんなことを喋ったイオレットさんは“ところで”と話を続けた。


「もしパブのマスターがヤギを買い取らないと言ったらどうする?」

「え?でも生肉の販売はしてますよね?」

「あれはオレガノの近くを巡回しているギルド員が狩り殺した獣の肉だ。

 直接マスターが獣を解体しているわけじゃない。

 もしマスターが“肉にしてから売りにこい”と言ったら、歩はあの白ヤギを自分の手で解体できるのか?」


 あ…っ


 イオレットさんの笑みに心臓がすくむ。動揺を顔に出してはいけないと思うのに、顔が強張ってしまう。たじろぐ俺の耳に更にイオレットさんの声が響いた。


「獣の解体って結構大変なんだよ。

 綺麗に皮と肉をとろうと思ったら、まずは獣が暴れないようにしないといけない。

 前足と後ろ足をそれぞれ縛ってそれをまとめ、噛みつかないように口を縛って目隠しをする。

 口を縛った時点では獣はまだ床に転がりながら必死に抵抗するんだ。必死に身をよじって、目隠しの布から逃れようとする。

 暴れる獣にようやく目隠しをするとね、彼らも悟るんだ。あぁ、今から殺されるんだとね。

 それでもやはり嫌がって暴れ続ける獲物もいるが、やがては疲れて動かなくなる。

 そうして静かになった獣の首の頸動脈を切り、吊るして血抜きをするんだよ」

「もういや!そんな話、聞きたくない!」


 気づいたらニュクスィーが両手を耳に当てて泣きじゃくっていた。ボロボロ涙を零して背中を小さく丸めている。しかしその姿を見ても俺は何も言えなかった。


「どうした、歩?

 まだ半分も話していないんだが、顔が真っ青だぞ?」


 笑みを浮かべながら話すイオレットさんに対しては悔しいと思うものの、ではいざやれと言われたらできないと言うしかない。

 おそらく俺にはできない。あの小さな体にロープを巻き付けて身動きを封じ、怯える両目を布で覆い、呼吸する細い首にナイフを当てることなど。

 襲い掛かってくる血濡れのラプターを斬りつけるのとは事情が違う。


「何が…言いたいんですか」


 そんな話を聞いて怖気づく俺が見られて楽しいですか、とはさすがに聞けなかった。

 あまりに情けなかったし、悔しかったのもある。

 しかし幾分か声は低かったかもしれない。


「あたしは歩の選択を責めるつもりはないんだ。

 連れ帰るにしろ、肉屋に持ち込むにしろ、歩の好きにすればいいと今も思ってる。

 けれど実際に連れ帰ったからには、責任はとらなきゃならない。

 ニュクスィーを巻き込んだことも含めて、な。

 私の言い分に反論はあるか?」

「…いいえ」

「そうか。では無事に歩の理解を得られたところで、今後の話をしよう。

 ニュクスィー、悪かったね。もう怖いことは何もないから、泣くのはよしな」


 椅子から立ち上がったイオレットさんはニュクスィーに歩み寄りハンカチを差し出した。

 ニュクスィーはイオレットさんに背中を撫でて宥められ、ようやくそれを受け取る。

 やっと泣き止んで立ち上がった時にはすっかり目が充血していた。


 苦い後悔から目を背けて俺は椅子に座り直したイオレットさんに向き直った。




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