第一話 逃れられぬ宿命
生まれてから死ぬまで一度も怨みを抱いたことの無い人なんて、恐らく有史以前から存在しない。人が人になる前、猿として森で暮らしていた頃から何かしらの怨みを抱いて生き、死んできたはず。
だからこそ、こうして私達が戦っている。
嫌悪感を殺して距離を詰め、敵の急所に刀を振るう。長年教えられてきた通りに、お手本そのままの太刀筋で。そこに躊躇いがあってはいけない。
敵は人間の生活を脅かす怨霊。姿形は故人そのものとて、その本質は生前抱いていた怨みが具現化したものに過ぎないのだ。生物でも、生物だったものでもない。だから、何も躊躇う必要は無い。
しかし、視覚情報というものは、頭で理解していることすらも簡単に覆してしまう。あと一歩というところで刃を振るう手が止まってしまった。
まただ。早くこの頸を斬らないといけないのに。こいつを討ち取り平穏を守らなければ、また祖母に説教を受けることになるのに。
硬直している間にも、敵は暴れ続けている。護符で動きを封じているとはいえ、拘束が解かれるのも時間の問題。
早く討たないと。早く斬らないと。早く、早く、早く――。
直後、何かが破れるような嫌な音がした。白い閃きと共に敵の頸が目の前で落ちるのはほぼ同時だった。
◇ ◆ ◇
「まだ御役目に就いたばかりだし、仕方ないよ。気に病まないで」
祖母の部屋を出て自室に戻ると、姉がベッドに座っていた。その手には缶入りのクッキーがある。いつも通り慰めに来てくれたのだろう。
「……就いたばかりって言っても、もう半年だけどね」
差し出された缶の中から一枚つまみ、口に放る。バターの風味と甘みが、今はやけに重たく感じる。
机の横の椅子に身を預けると、全身が鉛になったように重量を増した。口の中に纏わり付く甘ったるい風味が、全身に拡散していく。図らずとも姉と向かい合う形になっており、体に充満した重みが痛みを持ち始める。
私が怨霊を討てたことはこれまでで数える程しかない。以前は斬り付けることすらできなかった。姿かたちに惑わされ、攻撃を躊躇い、とどめを刺せずに硬直する。一体何度同じことを繰り返してきただろうか。腰に差した太刀は何のためにあるのかと、自分で情けなくなる。
とはいえ姉がとどめを刺してくれるから取り逃したことは無いのだけれど、祖母にはどうしてか分かってしまうらしい。その都度私だけ呼び出されては、嵐のような叱責を受ける。「お前はそれでも討魔師か」「一条の名に泥を塗るつもりか」。この二言は、祖母の決まり文句だ。
「何が『一条の名』よ、馬鹿馬鹿しい。代々討魔師やってるってだけで、他は大した家柄でもないじゃない」
クッキーをもう一枚齧りつつそう吐き出すと、姉は苦笑いした。
「怨霊を滅せるのは、この辺だとうちの家系の女性だけだから。おばあちゃんも誇りに思ってるんじゃないかな」
「ほんといい迷惑」
腹に溜まった鬱憤を言葉と共に投げ出すと、姉はさらに困ったような表情を見せた。
姉はこの家系に、『一条家の女性が代々魔を討つ』という風習に不満を持っていないらしい。少なくとも私は見たことがない。幼い頃から剣技の鍛錬を強いられてきたけれど、姉はいつも前向きだった。「成仏のお手伝いができて、みんなも守れるのが嬉しい」と言っていた。まともに遊びに行けず友達も中々作れない生活に辟易していた私とは正反対。
本当のことを言ってしまえば、私は討魔師になんてなりたくなかった。クラスの子達と同じように、普通に生きたかった。姉にも幾度この愚痴を零したか分からない。その度に困ったような顔で言葉を濁す姉の内面もよく分からない。一緒に愚痴に付き合ってくれたりすれば、姉も同じ人間なんだと安心できるのだけれど。
「お姉ちゃんはいいよね。私よりよっぽど強いからおばあちゃんにも怒られないし、むしろよく褒められてるし」
皮肉を込めて言葉を投げると、姉の顔に影がさす。僅かに罪悪感を覚える反面、いい気味だ。
討魔の技術も、性格も、心の持ち方も、私は姉に圧倒的に劣っている。昔はそれほど差はなかったはずなのに、気が付けば大きな溝が生まれていた。一体いつからこうだっただろう。三年前に姉が討魔師になってからな気がするし、私が御役目に就いた時な気もする。あるいは、気が付かなかっただけで昔からなのかもしれない。
真相は定かでないけれど、『優秀な姉と不出来な妹』という構図が今の私達であることは確かだ。少なくとも、一条家の娘としては。
「……そんなことないよ。私だって就いたばっかの頃は散々怒られたし、怨霊が怖くて親戚のお姉さん達の後ろに隠れてたし……」
しばらく黙っていた姉は、私の内心を読み取ったかのように言葉を繋いだ。悪気がないのは分かるけれど、数分前祖母に言われたことと重なり胸がうずく。
「へぇ、そうなんだ。『
ありったけの不満を込めて睨みつけると、姉は目を泳がせて口を噤んだ。ここで嘘でも「おばあちゃんが誇張してるんだよ」とか言ってくれたらどれだけ気が楽だったか。本当に姉は『いい子』だ。自分勝手な自覚はあるけど、腹の虫がどうにも収まらない。
「素質に恵まれてて能天気でいい子なお姉ちゃんには、私の気持ちなんて分かる訳ないよ。それ以上おばあちゃんの肩を持つなら私と同じ立場に立ってからにして」
吐き捨てると、姉は目を伏せてゆらゆらと立ち上がった。
「……ごめんね、
「言い訳なんて聞きたくない」
反射的に、言う必要の無かったことまで返してしまっていた。流石に言い過ぎたと後悔するも時既に遅し。「ごめん」ともう一度繰り返し、私が言葉を次ぐ前に部屋を出て行った。
姉の最後の言葉は、本当なら私が言うべき言葉だった。
本当は分かってる。姉だって血を吐くような努力を積み重ねてきたのだということも、一人の人間である以上欠点があるということも。一日の鍛錬を終えたあともこっそり自主練しているのを見たことがあるし、愛用の薙刀の手入れも欠かさないことも私が誰よりも知っている。そうかと思えば学校の勉強や部屋の掃除はてんでダメで、『中学校の復習』と銘打った補習課題では現役中学生の私に泣きついてきた。散らかり放題の部屋の中央で、家庭教師の真似事をしたのは記憶に新しい。
彼女だって全知全能の神ではない。優れた面もあれば劣った面もある、ごく普通の高校生だ。私より三年早く生まれてきて、偶然素質と家柄が合っていただけの存在。言い方は悪いけれど、運が良かった。ただそれだけなのだ。
「……分かっては、いるんだけどな……」
本心が溢れ、口から零れ落ちる。それが再度耳に届くと同時に、自分がいかに情けない行動を取ったかが身に染みる。
あんなの八つ当たりもいいところだ。家のしきたりを受け入れる強さも、敵に刃を振るう勇気も、常に前を向こうとする姿勢も、持っていないのは全て私の努力不足でもあるのに。素質の有無も重要なことは確かだけど、せめてどれか一つでも姉に追いつく努力をしていたら。そうしたら、祖母の目や自分の心持ちなんかも今よりずっとマシだったのかもしれない。今日みたいに、無意味に姉を傷付けなくて済んだのかもしれない。
でも。
「討魔が嫌なのだけは、どう頑張っても変われない気がする……」
もっと言えば、この家に生まれたというだけでこの先の人生の大半が決まってしまうのがどうしても納得いかない。一条の血を引かなければできないこととはいえ、今どき古臭いしきたりやら掟やらが残っているのも気に食わない。
変わらなければいけないとは思う。努力しなければと感じている。けれど、できるとは思えない。
「嫌だなぁ……」
魂が抜けそうなほど長い溜め息と共に、腹の底で燻っていた想いが流れ出た。
とりあえず、朝になったらお姉ちゃんに謝ろう。そうとだけ決めて、私は部屋の明かりを消した。
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