第216話 同棲時代

 いくらお互い気心が知れていて、週末は半同棲状態であったとは言え、完全に居住地を一緒にするなら、それまで知らなかったお互いを知ることになる。

 基本的に今までは、瑞希の住居に直史が来るという形だったので、気がつかなかったこともある。

 直史は綺麗好きとはちょっと違うのだが、物の場所を固定化することに、こだわりを持っている。

 食器などの洗い物が出ても、基本的に自分ですぐに洗う。ピッチングを見ていても、何かを維持するということに精神的な偏りがあるのだ。

 だから一緒に暮らしてみて、瑞希がコップをシンクに置いたまま出かけ、直史がその後に自分で飲み物を飲んだ際、自分のコップだけを洗って片付けるという事態があった。

 瑞希は少し気になったが、その場はとりあえず気にしなかった。

 だが同じことが二度あって、ここでお互いの認識を共通のものにしなければいけないと判断した。


 まず前提として、洗い物を後でまとめてやろうと思っていた、自分にも責任はある。

 だがどうせ洗うなら一緒にしてしまった方が、効率がいいのは確かである。

 これまでは直史には、一緒に洗うから置いておいてと言っていた。

 自分が両方の分を洗っていたので、相手もそうしてくれると、勝手に期待していたのだ。


 ささやかな行き違いであるが、それだけに早めにどうにかしておいた方がいい。

「分かった。食器類の洗い物は、置いてあったらやる。他の家事はどうする?」

 直史は掃除に関しても、綺麗好きと言うよりは、定期的にやることをやるだけの人間であった。

 実家にいた頃は女衆の指示に従って、年末の大掃除をするのが男の仕事であった。あとは自分の部屋だけは掃除していた。

 それにこれまで寮住まいであったため、水周りの扱いが違う。

 風呂場は特に、瑞希は自分で洗いたがった。


 風呂掃除は、男に任せた方がいいのか。

 なんだかんだ言いながら、同棲というのは完全な同居である。

 これまではそれでも見せたくなかった、生活に即した面を、お互いに晒すことになる。

 直史はなんだかんだ言って、兄弟がいたし田舎の家であったので、自分の生活空間を共有することに不満はない。

 ただ瑞希の場合は、一人っ子というのが大きい。


 自分と比較したら大きな生き物が、ほぼ常に同じ空間にいる。

 よくしつけられて部屋も汚さないが、ほとんど毎日甘えてくる。

 巨大な猫のようなものか。猫は飼ったことはないが。

「じゃあ洗濯は、私の分は自分でするから」

「今さら?」

「女性用下着は繊細なの。壊れやすいし破れやすいし」

 ああ、だから脱がせる時に、恥ずかしがりなのに自分から脱ぐのか、と長年の疑問が氷解した直史である。


 家事分担は、おおよそ力のいるところは直史と、話は決まった。

 基本的に料理は瑞希である。直史はレトルトぐらいしか料理はしないので。

 なので基本的に洗い物は直史が担当となる。

 それとゴミ出しというか、それ以前の分別が、直史にとっては少しショックであった。

 寮ではゴミも普通に分別するだけで、実家時代は分別の面倒なものは山で焼いてしまっていた。生ゴミは全て肥料である。

 野焼きは本当は今では禁止なのだが、田舎あるあるである。


 それと家事ではないが、直史はカーペットの床に寝転ぶことが多い。

 実家に畳敷きの部屋が多かったからだが、瑞希は洋室文化で育っている。

 なので実は正座が苦手なのである。

「正座はしなくてもいいと思うけどな、妹たちもしてなかったし」

 正座をすることが足の形の形成を阻害するとは、椅子文化のヨーロッパでは研究されている。

 娘にバレエをさせた母が祖母と争った、数少ない例である。


 あとは直史の場合は、あまりスリッパも使わない。

 これこそ和風文化と言えるのかもしれないが、寮では普通にスリッパは使っていた。

 ただし自分の部屋では裸足であったが。

 靴下を丸めたまま洗濯機には入れない男である。寮でも洗濯機は自分で回していたので。




 家具を選ぶ時は、二人で時間をかけた。

 将来的には千葉に戻って、結婚後はとりあえず二人で過ごすつもりである。

 金はあるのだから、長く使える物を買おうと瑞希は言った。

 贅沢は敵であると考える直史であるが、長く使える物を買うのは贅沢ではない。主に金を出すのが瑞希というところに、男の沽券がかかっているなとは思ったが。

 単なるデザイン性は論外であるが、高い物にはそれなりに高い理由がある。


 基本的にはリビング兼ダイニングの一室で過ごし、寝室には本棚などを置いて、ソファはベッドにもなる物を用意しておく。。

 いくら二人の相性がよくても、同じベッドでは寝にくい時があるのだ。

 また誰かが泊まりに来た時にでも、泊めておける。

 生活を共にする中で、必要な物が増えていく。

 寮暮らしであった直史であるが、本質的にはあまり物を捨てられない人間であるらしい。それが自分でも分かっているので、出来るだけ物を買わないようにはしている。

 田舎の実家には部屋が余っているため、使わない物は溜めてあるのだ。

 さらに古い物は、裏手にある蔵の中に入っているが。


 そういえばあそこには、色々と先祖代々の品物が眠っていた。

 いずれは相続するためには、そのあたりもどうにかしないといけないだろう。

 まあ資産価値など、どこにも公表していないのだが、茶器や刀剣類などは、かなりの価値があるはずなのだ。

 ただ着物や古書に関しては、虫干しをしなければいけないのが面倒ではあった。


 ともあれ生活は、お互いの価値観や生活習慣のすり合わせである。

 二人とも理性的で合理的な性格が、それぞれの譲り合う部分を冷静に話し合うことが出来る。

 なんだかんだ言ってやはり、大学生活の半同棲の週末は、二人にとって良かったのだ。

 



 バレンタインデーは、保守的な直史であっても、許容しているイベントである。

 だがホワイトデーは完全に無視して、バレンタインデーにお互いに贈り物をするようにしている。

 これは高校時代の、イリヤから聞いたツインズの影響が大きい。

 キリスト教由来のイベントであり、欧州圏ではもちろんホワイトデーなどはない。

 クリスマスは家族と過ごし、バレンタインデーに恋人と過ごすというのが、一般的なのだ。

 なお保守的な直史は、ハロウィンには基本的に参加しない。

 他人に合理的に説明してやめさせようとは思わないところが、ちゃんと限度を弁えていると言うべきか。

 ただ佐藤四兄妹+1の中では、直史以外はハロウィン容認派である。

 芸能界のイベントに巻き込まれるツインズに、恵美理はイギリスの血が入っていて、ハロウィンが本来は異教の文化を許容したものだとまで知っている。

 あと淳は単純に、どうでもいいから周囲に合わせるタイプである。


 そんなわけでお互いのプレゼントを渡すイベントなるバレンタインデーであるが、直史は変なサプライズは考えず、そして実用的な人間である。

 実用品の中でデザインがいいと思われるものを、自然と選んで渡すわけだ。

 幸いなことに直史のデザイン感覚は、無難である。

 むしろ瑞希の方がデザイン感覚は、地味すぎるところはある。

 目立つことが好きではない直史としては、それは全く問題ないのだが。


 プレゼント選びで女子連と一緒だったことは話しても、その後の女子会については絶対に話せない瑞希である。

 それは別にしても、明日美の件はある程度話したが。

 直史は世俗的な、いかにもイベント然としたものは興味のない人間であり、音楽や演技といった技術的なものはともかく、芸能界自体には健全な偏見を持っている。

 だが上杉と明日美というのは、さすがに世間話の範囲でも普通に話題にするレベルである。

 まあ普通に考えて、とんでもない子供が生まれそう、とか思ったりするわけだ。

 ただ佐藤四兄妹は意外と両親は普通なので、遺伝よりも環境が、人間には重要だと考える直史である。


 なお上杉家は弟も野球選手として一流であるし、明日美の身体能力は両親も優れたものを持っていたらしい。

 すると大介のところはどうなるのか。父親もプロ野球選手で、母親もスポーツ万能ではあった。

 佐藤家の発現した遺伝子が上手く継承されれば、とんでもない子供がこちらも生まれそうである。

 人間の能力は遺伝か環境か。

 どちらも重要というのが、正しいことなのだろうが。




 春になれば『白い奇跡2前編』が公開される。

 後編も大方の撮影は終わっていて、わずかなシーンは春の評判次第で、調整することがあるそうな。

 もう六年も前のことになるのか。

 物語的には選手としてはアレクや武史、鬼塚などの目立つ選手が増えるし、関東大会では玉縄や本多との対戦がある。

 実在の人物を元にしたフィクションなので、野球好きにはたまらないものがあるのか、逆に批判することが大きいのか。

 ただ大介が四年連続の三冠王とか、上杉が六年連続の沢村賞をやっているので、もう荒唐無稽とは絶対に言えないはずである。


 あとは女性陣にしても、ツインズがそのまま自分役で出て、実は極めて大切なイリヤ役が出てくるわけだ。

 どうやら聞く限りにおいては、武史とアレクとイリヤで三角関係を作って、鬼塚とツインズを絡ませたりするらしいが。

 まあ鬼塚がツインズにボコられたシーンはカットされるので、そこは安心だろう。

 しかしいくらフィクション表記とは言え、モデルが誰かすぐに分かる人物に恋愛を絡ませるのは、問題が起こりそうな気はする。

 もちろんちゃんとモデルにも確認は取っているのだが、直史の場合は瑞希がいいならそれでいいと、全て任せてしまっているわけだが。


 そういえば、と直史は思い出す。

「イリヤは最近何をしてるんだ?」

「……テレビで見る楽曲とか、かなりイリヤの作ってる曲だけど?」

「寮ではほとんどテレビ見てなかったからなあ」

「本当に色々なところに楽曲提供してるわよ? 白い軌跡の音楽は全部だし、監修も音響もやってるし」

「あいつそんなことも出来るのか」

「音楽が絡んでいたらなんでも出来るみたいね」


 イリヤは直史の知る限りでは、チートと言うよりはバグのような存在である。

 あの他人に対する、カリスマと言うよりは洗脳の能力は、どうして発揮されるのか。

 なぜか武史に対しては、プラスの効果しか発揮されないようであるが。


 一時期イリヤと武史が、いい関係なのではと思ったことがある。

 だが典型的な芸術家肌のイリヤは、既存の秩序とは合致しにくい存在だ。

 あれを恋人や配偶者にするのは大変だろうなと思っていたら、武史は他のところから相手を見つけてきた。

 ただ武史にとってはそれで良くても、イリヤにとっては武史以外は、己の世界を乱す存在でしかなかったのではないか。

 佐藤家長男としては、弟がイリヤとくっつかなかったことは安心する。

 だが友人として見るなら、イリヤの一般常識的な幸せは、武史以外にはなかったのではないかと思う。


 まあそれは直史の知る、狭い世界の話だ。

 セレブの蔓延する芸能界では、イリヤと合うような人間もいるのだろう。

 ――この直史の予想は完全に外れるのだが、それは別の話。




 オフシーズンではあるが、逆に言えばそれは、シーズンにどんどんと近付いているということである。

 直史は勉強を最優先にするが、この時期の大学は、当然ながら大きくは動いていない。

 勉強は予備校を利用し、合格ラインは完全に超えている。

 だが油断しないのは、直史にとって当たり前のことである。


 油断して失敗するのは、直史の嫌うことである。

 痛い目に遭ったのは、高校時代はあれぐらいか。

「そういえば坂本ってどうしてるのか知ってるのか?」

 瑞希は出来る限りは、実在の人物には直接に会っている。

 その中では法教大学に進んだ、坂本とバッテリーを組んでいた武市は、取材対象であったはずだ。


 坂本は一学年下であるが、年齢は同年。

 つまり三年時には、試合には出ることは出来なかったのだ。

「一応高校は卒業してアメリカの大学に入ったらしいけど……」

 坂本らしい進路である。


 直史は高校時代は、無敗ではなかった。

 だが単純に負けたというわけではなく、一杯食わされたと感じたのは、坂本だけであったと言える。

 それに実は、樋口も坂本には負けている。

 頭脳戦と言うよりは、裏の書きあいで樋口が負けたのは、やはり高校時代はあれぐらいではなかろうか。

 最後の夏には白富東に負けているが、あれは戦力に差がありすぎた。

 二年の決勝で勝てていた時点で、すごいと言えたのだ。


 直史と瑞希は大学院編入で、まだ勉強をする。

 そこから司法修習をして、これは半社会人的なもので、まさに研修期間だ。

 だが同じ歳の人間は、野球関連では高卒からプロになっている者も多いし、大学に進んだものでもそこからプロになったり、これから社会人になる者がほとんどだ。

 直史は正確な意味では、自分で金を稼いだことがない。

 実質的には収入であった奨学金は、あくまでも野球の対価というものだ。

 一般的な労働というのは、子供の頃にやった親戚の内職の手伝いぐらいか。

 あれは時間に対価の合わないものであったが、子供が自由に使える金銭を得られるということでは、良かったと思う。


 瑞希もまた、一般的な形では働いたことがない。

 ただ自分のために書いたものが、そのまま商業化したため、金を稼いだことはある。

 あとはボランティアで、学校についていけない貧困家庭の児童に、勉強を教えることはしたことがある。

 ただあれは、社会問題の一環に触れるというもので、経験以外の対価を得るものではなかった。




 坂本は何をしているのだろう。

 人生の分岐点において、直史はふとそう思ったのだ。

 もちろんセイバーに聞けば、すぐに調べてくれるだろう。

 そもそも調べるまでもなく、普通に知っているかもしれない。


 あとは武市に聞くことか。

 瑞希のスマホの連絡先は、取材先に関しては膨大な量になっている。

 ただ瑞希を介さなくても、武市は法教の正捕手としてキャプテンとして、谷と一緒にクリーンナップを形成していた。

 ドラフトで広島に入ったが、どちらかというと捕手としてより、バッティングやリーダーシップを期待されてのものだと思う。

 ただ広島もまた、正捕手の高年齢化は言われている球団だ。


 二人の生活は、この小さな部屋の中。

 だがその外には、大学やそれ以前のつながりから、広大な世界が広がっている。

 そして野球以外の分野においては、二人はまだそのスタートラインにも立っていない。


 成功するならば、プロに進めばいいのだと、鉄也なども言っていた。

 直史ならばたとえ故障などをして引退しても、必ずフロントに席は用意されるはずであろうからだ。

 それを拒否して、未来を選んだのは直史自身である。

 もちろんそれに、後悔などはない。

 ただ他人の進路に、全く興味がないわけでもなかったのだ。


 アメリカか。

 あいつなら何か野球以外でも、おかしなことをやりそうではある。

 あとはイリヤが、いつかは妹たちをアメリカに連れて行きたいと考えているらしい。

 ただそれは、大介のアメリカ行きが関わってくると思う。


 上杉との対決は、日本のプロ野球では、最大のキラーコンテンツだ。

 しかしそれがこのまま続くのかは、直史は疑問に考えている。

 大介は戦うことが好きなのだ。

 一試合に一度以上、今年は172回も歩かされた。

 そんな日本のプロ野球に、物足りなさを感じることが、来るのではないか。

 上杉がMLBに行くなら、大介も必ず行くだろうとは思うのだが。


 父は新たな家庭を持ち、それは母も同様で、祖母は伯父の一家が世話をしている。

 大介を日本に縛り付けるのは、ほとんどもう上杉との因縁だけだと思うのだが。

 坂本のことを考えながらも、結局最後には大介のことを考えている。

 戦績はほぼ一方的に勝っているが、直史の潜在的なライバルは、大介なのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る