第112話 バッターの破壊力
上杉の登場で、球場の空気が変わった。
なるほどこれが、本当の意味でのエースの力かと、直史は感じたものである。
もっとも樋口からしてみると、直史と上杉とでは同じエースであり、同じ支配力を持っていても、表に出る形が違う。
上杉の力は、核弾頭だ。
台風であり津波であり、または大地震だ。
激動する超自然の猛威に似ている。
対する直史は逆に不動の存在である。
悠久の時を経て、そこに存在する山。
あるいはご神体となっている岩や、津波にも負けない大堤防を思わせる。
直史投げる試合は、敵も味方も支配する。
そして味方が点を取ってくれるまで、延々と0を刻み続ける。
静と動の、二種類のエースだ。
剛と柔ではない。どちらも芯は剛であり、場合によっては柔にもなる。
上杉のピッチングを見て、何か感じてくれることはないだろうか。
もちろん今までも見てきただろうが、対戦するチームのピッチャーとしては、見方が違うだろう。
ほぼ同じ時代に、全く性質の違う、二人のスーパーピッチャーが現れた。
この偶然を単に偶然とするか、それとも他に意味があるものとするか。
誰かが、これをきっかけに、何かをするのかもしれない。
五回の表、もはや直史を甘く見ている様子は、全く見せない。
それに対して直史は、とりあえずインコースを攻めてから、ボール球を振らせてカウントを稼ぎ、チェンジアップなどで空振りを取っていく。
ほんの少しだが、対戦する繊手によっては使う球数が増える。
だが同時に相手の早打ちもあるため、一気に増えすぎることもない。
そしていざという時には、スルーを使う。
初見殺しという点では、やはりスルーはプロ相手でも通用する。
だがこれをあえて、低めに外れるように使って、空振りさせることもある。
回転軸をややずらせば、カットボールとなる。
ストレートとの速度差が少ないカットボールだ。そのため手元で曲がって、打ち損じを狙える。
ピッチャーの球種の基本はストレート。
これだけレベルの高いバッターを相手にして、なぜそう言われるか、やっと分かった気がする。
ストレートは、最も沈まないボールだからだ。
他の変化球は全て、空気や重力の影響で、ツーシームでもスライダーでも、横に移動しながら沈む。
ストレートももちろん沈むのは、重力と空気の壁があるため、当たり前のことだ。
だがその中で最も沈まないのがストレートだ。
カーブとストレートしか投げないとか、スプリットとストレートしか投げないとか、そんな極端なピッチャーがいるのは知っている。
これは全て、ストレートを活かすためのピッチングなのだ。
(それに一番投げて疲れるのは、全力のストレートだよな)
そう思いつつも95%ほどの力まででセーブして、直史はストレートを投げる。
おそらく全力のストレートというのが、軟骨や腱、靭帯などに最も負荷がかかる。
変化球で小学生が肘などを故障することがあるが、直史はあくまで、全力は込めない。
もちろん込めた方が、より強力な変化球にはなるし、ストレートにもなる。
だが高一の夏の故障で、アドレナリンに任せたピッチングは、選手生命を縮めるだけだと分かっている。
試合が動かない。
直史が丁寧に、説明書どおりに作業するかのように、バッターを凡退させていく。
一方の上杉はバットにボールが当たるだけで歓声が起こり、結局最後には三振を取っていく。
純粋なパワーだけではなく、わずかに動くボールも使っている。
それによって相手の打ち損じも狙うが、ファールにしかならない。
そして仕上げにストレートを投げれば、それで三振一丁上がりである。
直史がわずかに期待した樋口も、一球は当てたもののそれが限界である。
そして六回が終わった。終わってしまった。
直史がここまでパーフェクトピッチなのは確かにすごいが、上杉は九人連続で三振を取ってしまった。
化け物である。
自分の素質の微妙さに、直史は色々と考える。
究極のピッチャーの形を見せられたようで、嫉妬しないでもない。
だが点さえとられなけでば同じだ。
日本代表の方は、どうせ七回からはピッチャーが代わっていく。
そう、七回。
大介との三度目の対決である。
観客席の中、瑞希は古くからの知り合いと、初対面の知り合いとの間にはさまっている。
「ナオのやつもなんつーか容赦がないというか、来年からまだ二年これと対戦しないといけないんだよなあ」
ジンが嘆くのに対し、シーナは尻を叩く。
「それに関してはもう対策は徹底してあるでしょ。卑怯な手を使うわけでもないんだから、割り切らないと」
「まあそりゃそうなんだけど、樋口がいるのもなあ」
樋口がいると、武史だけならず、他のピッチャーも万全の実力を発揮する。
名前が呼ばれたことで、瑞希の逆隣の女性が反応する。
直史から聞かされたところの、樋口の女。
年上だ。長い黒髪に薄化粧をして、雰囲気は清楚であるのだが、豊かな胸元や細い腰など、どうしても隠せない大人の色気がある。
名前は鈴木美咲。直史が言うには、樋口が愛人と言いつつ、明らかに本命扱いしている、年上の女性。
基本的に真面目な教師であるのだが、14歳の少年を食ってしまった、淫行の前歴があるのは無視出来ない。
美咲はあまり歓声も上げず、ぎゅっと手を握りしめて、試合を見つめている。
「鈴木さんは、樋口君とは野球の話はするんですか?」
「え? ええ、そう……あんまりそういうことは」
しない。近所の年下の男の子でしかなかったのだ。それは関係を結んでからも同じだった。
ただ甲子園で優勝して、東京の大学に通い、自分との直接の接触がなくなってからは、変わりつつある。
美咲は今、27歳だ。
一般的に結婚適齢期と言われるが、そこそこ田舎ではもう遅いとも言われる年齢である。
職場でも親戚からも、そういったことの話は伝わってくる。
樋口との関係を、ずっと続けているわけにもいかない。
そう考えて別れ話を切り出したのだが、その日は徹底的に気持ちよくされて、気絶して目覚めれば朝だった。
二年待ってほしいと言われた。
それは樋口にとっては、将来の設計図を変えるための決断を要した。
美咲としては自分が原因で、樋口の未来を変えてしまうことなど、あってほしくはない。
だがあの自己中心的な男が、自分に執着してくれているということに、喜びを感じてしまうのも確かである。
樋口は、誠実な人間ではない。
ただ約束は守る。
そしてそれ以上に、自分のものが誰かのものになるのを嫌う。
人間はものではないが、それは方便というものである。
試合で目立つのはピッチャーだが、一番多くボールに触れるのはキャッチャーだ。
樋口はそんなことを言いながら、ピッチャーもやったがキャッチャーに戻っていった。
ピッチャーとしては、より大きな才能が傍にいたことでもあるが。
この試合で、ある程度は己の未来を見極める。
だから難しいかもしれないが、直接見に来てほしいと言われたのだ。
学校は春休みなので、忙しいことは忙しいが、スケジュールの調整はつく。
そしてこの目の前の試合で、樋口と、自分の未来が決まるのか。
結婚はしたいし、子供はほしい。
ごく普通の女の自分に、どうしてあんな天才が執着するのか。
美咲は男が、初恋の相手と初めての相手に、どれだけ縛られるかを分かっていない。
六回が終わった時点で、球数は64球。
いつも魔法のように少ない球数でアウトを稼ぐ直史であるが、これだけ球数を使っても、奪った三振は10個である。
いや、多いのだが。
このペースで最後まで三振を奪えば、間違いなく多いのだが。
それでも、ここでは球数が必要になるだろう。
(白石か……)
キャッチャーの樋口も、段々と投げる球がなくなってきているのは分かる。
こんなバッターと、シーズン中に三回から五回ぐらいも、一試合を戦わなければいけないピッチャーは悲惨である。
逃げれば逃げたで、また色々と新聞には書かれる。
日本人が日本記録を持っていてほしいと、単純な論調の記事もあったりはする。
去年の成績は神がかっていた。
まさか四割打者が誕生するとは思っていなかった。
それを50本以上のホームランと同時に記録していたが、ゾーン内の球だけを狙って打てば、五割でも打てただろう。
(さて初球をどうするかだが)
それによって、攻略方法は決まる。
初球。
インハイと言うよりは顔のすぐ横に、ストレートが投げられた。
大介はバットに当たらないように手は引いたものの、顔の位置は微動だにしなかった。
ある意味では、直史のコントロールを信用しているのである。
客席のライガースファンからはすさまじいブーイングが起こるが、それは対決する両者の耳には入っていない。
大介の三打席目を攻略するために、バッテリーは考えた。
そして単に技術的なことではなく、心理的なことを推察する。
大介は、ホームランを狙ってくる。
単にランナーに出ても、直史ならば後続を凡退させることを確信する。
なんおで確実に一点の入るホームラン。それがなくても、確実な長打。
ノーアウト二塁からなら、プロの打線であれば、直史から点を取ることも出来るだろう。
ただし単打であれば、直史のクイックと樋口のスローイングから、スチールは難しい。
ツーアウトでランナー三塁にしてしまっても、直史ならば確実にバッターをアウトに出来る。
方針は決まった。
あとは実際に料理するだけである。
二球目が甘いコースにきた。
だがカットボールと似たような軌道で変化し、そこから膝元ぎりぎりのゾーンに決まる。
これは打ってもファールか単打にしかならない。
あっさりと見逃して、次のボールを待つ。
ストライクとボールを、一つ一つ丁寧に投げている。
チーム内の紅白戦とは違う、バッターを本気でアウトにするためのピッチング。
これが技巧派の完成形。
大介のスイングの特徴からして、インローが一番ホームランになりにくいだろうとは、事前に分析していた。
そしてそこへの変化球は、無事に見逃してくれた。
ならば次の球も想定どおりに投げられる。
やはりインローへの、今度は全力のストレート。
だがこれを、大介は振り切った。
距離は充分。だが大きなフライは、ライトのポールのファールの方向に切れていく。
ファールになるだろうとは思っていたが、それでも心臓に悪い。
樋口が直史に新しいボールを投げると、その顔には笑みが浮かんでいた。
(この投球ジャンキーめ!)
怖いバッターに投げることが、そんなに楽しいのか。
キャッチャーとしては不安しかないのだが、ピッチャーとしてはスリルがあって面白いのかもしれない。
直史としては、相手が強大であれば強大であるほど、しとめたときの喜びも大きい。
ただ大介相手であると、リスクの高さが半端ではない。
打たれても、点を取られても、負けても、命を失うほどではない。
そんな究極の開き直りによって、直史はこの勝負を楽しむことが出来る。
ただ舞台は大きければ大きいほどいい。
そして取り返しがつかないほどの舞台であれば、それでいい。
大介が、高校時代に東京の、それこそ帝都一や早大付属に行っていれば。
直史との対決が、甲子園で実現したのか?
(ダメだな。あそこじゃ勝つために歩かせてる)
こいつとまともに勝負するのは、それしか方法がない時だけだ。
そして直史は、マトモに勝負しなくてもいい状況を作り出せる。
とりあえず、今は追い込んだ。
一人もランナーを出さなければ、この打席で対決は終わる。
そして四度目の対戦を演出するために、わざとランナーを出すことなどはしない。
三球とも、比較的速いボールを投げてきた。
一球は際どく外すボールを、ゆっくりと投げてみるか。
だが大介はボール一個外した分では、普通にホームランを打ってくる。
四球目はシンカーを、やや大きく外に外した。
だがこれは完全に見極められている。
並行カウントになった。
出来ればボール球を振らせてアウトにするのが、一番鮮やかな勝ち方だ。
だが鮮やかでなくても、勝てばいいのだ。
五球目はどうするか。
前の球のシンカーとの緩急差を活かして、またストレートを投げるのか。
だがストレートに変な微調整をかけても、おそらくはその変化ごとスタンドに運んでいく。
ならば、このボールを使う。
カーブか。
一番手に馴染む変化球。
それも、速くて大きく曲がるタイプ。
パワーカーブを、直史は投げた。
大介のスイングは、いつもとは違ってダウンスイングから入り、アッパースイングに抜けた。
もの凄い速度の打球が、高みへと上がっていく。
これは、途中で失速するか。
失速しても、それでも入るのではないか。
直史が振り返ってボールを見送って、そしてそのボールが天井に当たって落ちてきた。
「え」
下がったセンターが前進してきて、それをキャッチ。
ドームをメインで使うことのない直史は、この場合のルールを知らなかった。
(なんだ? ホームランにはならないと思うが、テイクツーベースになるのか?)
アウトのコールがない中、審判が説明をする。
東京ドームの特別ルール。
プロなどでは稀に出てくるこのルールに従って、天井に当たった後もインプレイ。
そしてそれをセンターがキャッチしたので、センターフライとなる。
(そんなルールがあったのか)
そんなルールや、ましてドームの天井がなかったらどうなったのか。
あれだけ高く上がってしまったなら、スタンドまで届くことはなかったと思いたいが。
気がつけば、すぐ傍に樋口が来ていた。
「大丈夫か? メンタルの動揺は?」
「大丈夫だと思うが……」
ドームでの試合などほとんどしたことのない直史は、こんな事態に出会ったことがなかった。
「ドームの特別ルールがなくても、あれはセンターフライだったと思うぞ」
「まあ、俺もそうは思う」
と言いつつも、思考力がやや落ちている自分に気付く直史である。
あれは、センターフライだった。
だが事実を、そのままちゃんと受け入れられるかは、別の話である。
たとえファールであっても、場外まで何本も飛ばされれば、それはピッチャーにダメージを与える。
大介のこの打席は、そういうものになったのか。
「次の打者は、ボール球から入るからな。もしコントロールが安定していなければ、歩かせることも考えるぞ」
こういう時に相棒が冷静であるのは助かる。
実のところは樋口も、動揺していないわけではない。
だが化け物との対決は終わったのだ。
あとはこの心理的な空隙に、集中力が切れていないかどうかが問題になる。
あと八人。
誰も塁に出さず、試合を終わらせる。
落ち着きを完全に取り戻した直史を見て、樋口は戻る。
凡退してもピッチャーにダメージを与えるとは、とんでもないバッターだと内心で慄きながら。
だが、これで最後だ。
一人もランナーは出さずに、勝負を終わらせる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます