闇の中から【14】

 急ブレーキで停まると、お尻が滑ってシートから落ちそうになるティニャが「うわっ」と声をあげた。

 ルマーナはティニャを抱きしめる様に支えて「ごめんね。急に急いで」と言った。

 ヘブンカムという名前を聞いた時に気づくべきだったとルマーナは後悔した。

 具合の悪い弟がいる事。ヘブンカムがしている下衆の極みとも言える商売の事。そしてティニャが働いている事。

 きちんと考えていれば、可能性として……ではあるが、ある一つの答えに辿り着いただろう。

 下級街には栄養失調気味の人間がごろごろと居る。怪我や病気で働けなくなった者、老人、子供、そういう弱者は往々にして食べ物を望む。

 だからこそ、ティーヨの具合の悪さは栄養失調から来る物だと思っていた。美味しくて栄養価の高い物を食べさせれば直ぐに良くなる。

 早い内に店へ連れて行き、的確な看病をすれば、歳相応の子供と同じく元気にはしゃいでくれる。

 ルマーナはそう思っていた。


「部屋、何処?」

 トラックから降りて聞くと、ティニャは「あそこ。一番奥のとこ」と答えて指差しした。

「……行くよ」

 ルマーナはそれだけ言って、ティニャの手を握った。

 ティニャが急かす様に手を引いてくる。

 だがむしろ、逆に自分が手を引いて走り出したい気持ちだった。

 ルマーナはそれをぐっと抑えた。

 胸騒ぎは杞憂であってほしい。嫌な予想はハズレてほしい。そう思うから、そしてティニャを不安にさせたくないから、ルマーナはティニャの歩調に合わせた。


「良かった。帰ってこれた」

 小さく、本当に小さく呟きながらティニャはポケットへ手を入れ、鍵を取り出した。

 そして、薄っすらと瞳を濡らしながら「ごめんねっティーヨ! おねえちゃん帰ったよ!」と叫びつつ扉を開けた。

 開けた瞬間、すえた匂いがルマーナの顔を歪ませた。

 当然、キエルドやロクセ、アズリも同じ匂いを嗅いだのだ。皆同様に良い表情はしていない。

 下級街は至る所で似た様な匂いが飛んでいる。

 下水管理もゴミ管理も適当だし、そもそもゴミ集積場がある場所なのだ。当然といえば当然……なのだが、ティニャの部屋はそのゴミ集積場が目の前にある部屋……と言っても過言ではない程に、臭った。


「お邪魔するよ」

 礼儀として一言声をかけてルマーナはその部屋へ入った。

 部屋の中はワンルームで、奥にパーテーションで区切られただけの寝室があった。小さな台所と、壁すら無い剝き出しのトイレが玄関と隣接して設置してある。部屋の中央には、古くて傷だらけのテーブル、そしてイスがあり、部屋の隅には服や小物を収納する小さな棚が二つ、ポツンと申し訳程度に置いてあった。

 意外と綺麗に片付けてあり、台所も綺麗だった。

 しかし、この匂いは何処から来るのか。

 周囲の部屋から漏れ出てる匂いもあるだろう。古い便器から出て来る匂いもあるだろう。台所の排水溝から出て来る匂いもあるだろう。

 それら全てを足しても、しかし、この匂いになるには足りない。

 主な原因はテーブル。ここだけは異様な光景だった。


 テーブルの上には腐った食べ物が所狭しと並んでいて、既に虫が湧いている物まであった。テーブルの下にも袋に入った何かがある。腐った汁が袋を濡らし、床を汚していた。

 何日分腐らせたのだろうか。一週間。否、もっとだ。

 ルマーナはハンカチを取り出して口と鼻を塞ぎたかった。しかし、絶対にしてはいけないと思った。失礼だからだ。

 ドキドキした。


――まさか……まさか……。


 そう思う度に嫌な汗が噴き出してくる。

 ふと見るとテーブルの上に例の薬が置いてあった。飲んでいないのだろう、何錠も転がる様に置いてある。

「ティーヨただいま。ごめんね。寂しかったね」

 ティニャは既にパーテーションの向こうで、ベッドに寝ているであろうティーヨに話しかけている。

 ルマーナは薬を一錠つまんでキエルドに見せた。

「間違いありませんね。……偽薬です」

 冷静に、しかし、怒りを堪える様にキエルドは言った。

 ロクセもアズリも、何と無しに気が付いている様で、アズリに至っては胸に手を当てて少し過呼吸気味だった。


「……ティニャ、そっちに行ってもいい?」

 ルマーナは優しく声をかけた。

「ティーヨ、紹介したい人がいるの。待ってて」

 ティニャはそう言ってパーテーションから顔を出した。そして、パーテーションを畳む様にずらして「どうぞ。この子がティーヨ。かわいいでしょ」と満面の笑みで言った。

 あまり広い部屋ではない。

 ルマーナは数歩歩いてベッドへ近づいた。

 サイドテーブルにも食べ物があって、これもまた腐っている。花瓶もあった。だが、既に萎れてしまっていて、色がよく分からない。


「この人はルマーナ様。これからティニャが働くお店の偉い人。で、こっちがキエルドさん。そしてロクセさんと、アズリおねえちゃん」

 ティニャはベッドに寝ているティーヨへ向かって自慢げに紹介した。

「アズリおねえちゃんは、ほら、ハルマ焼きくれた人だよ。それとベルの花屋の人。お花くれるのもこの人なんだよ。ロクセさんは、この前ティニャを助けてくれた人。話したでしょ? 覚えてる?」

 妙に饒舌になったティニャは、溜まっていた何かを吐き出すように喋った。

「ティーヨ、喜んで。これから引っ越しして、大きな家に住むの。部屋もずっと綺麗で、美味しい物も食べられる。優しいお姉さんが沢山居るって言ったよね? だから寂しく無いし、直ぐに元気になるよ。あ、これ? ちょっと怪我しちゃったから。でも、見た目ほど酷く無いし、直ぐに治るよ。心配しないで」

 腕に巻かれた包帯を掲げながら言う。

 まるで起きてる人に語る様に話す。


「ティニャ……」

 ルマーナは膝をついてティニャと視線を合わせた。そしてぎゅっと抱きしめた。

「ルマーナ……様?」

 ティニャが驚きのあまりきょとんとする。

「いいの。もう……いいんだよ」

 ルマーナは更に力を入れて抱きしめた。

 苦しいだろうと思う。でも離したくなかった。

「何……が?」

「頑張ったねぇ。一人で……よく頑張って来たねぇ」

 鼻の奥が詰まって声がかすれてきた。

「ひ……一人じゃない! 一人じゃない! 何でそういう事言うの? 何で?」

「ごめんね。そうだね。あんたは一人じゃない。一人じゃなかった。でも、これからはあたい達がいるから」

「ティーヨもいる!」

「そうだね……」

「ずっと一緒にいる!」

「そうだね。一緒だね。これかもずっと……ティニャ、あんたを見守ってくれる」

「わ、分からない! 何言ってるか分からない! やだ! は~な~し~てっ!」

「いやだよ。離さない」

「ティーヨも一緒じゃなきゃ嫌!」 

「そうだよ。一緒だよ。ずっと一緒。だから……」

「離してぇ~!」

「だから! ……あんたのお母さんの所にティーヨを返してあげよう」


 叫び始めてから、ティニャは体を押し離そうと懸命にもがいていた。だが、お母さんの所に、と言った瞬間、すっと力が抜けた。

「し、し……」

 現実を突きつけるのは酷だ。

 ルマーナも、勿論後ろで黙って見守ってくれているキエルド達も理解している。

 だが、このままではいけない。このままにしておけない。

 ルマーナは唇を噛みしめて、離すもんかと決めた。

「し、死んでない! 死んでなんかない! 寝てるだけだから!」

 叫びながらまたもがいた。

 死……その言葉を選択する事は、自分の母親が死んだと認めている事。ならば、きっとティーヨの事も理解できる。


 弟も同じだった。ルマーナの弟も同じだった。

「寝てるだけだから!」

 そう叫んでペットのトットを抱きしめる年の離れた弟。

 大きな体に似合わず温和な鳥だが、元々寿命の長い鳥ではなかった。

 友達が殆ど居なかった弟はトットをまるで自分の兄弟の様に愛した。

 トットが死んでしまった時の弟の顔。今でもはっきりと思い出せる。

 先日も夢で見たばかりだ。

 弟だって、死を理解した。理解出来たのだ。


 ティニャは……強い子だ。

 ティニャは自分を超える女になる。そう心から思える女なのだ。ここで立ち止まってリアルを見れない女にはならない。

 全てを受け入れ、全てを覆す女になるのだ。

「ティニャ……」

 ルマーナは囁く様に名前を呼んだ。

「うう、うう」と呻いて押し離そうとするティニャを更なる力で抱きしめる。

 大きな胸がティニャの体を包み込みそうな程抱きしめる。

「ティニャ……あんた。あたいのむすめになりな」

 ティニャの力が抜けた。

「ティーヨにはあんたのお母さん。ティニャには……あたい。あたいがお母さん。あたいがずっと一緒にいる。これじゃ……駄目?」

「うう、うう」と声が漏れる。呻きでは無い声が漏れる。

「あたいも、結構これで寂しがり屋なんだよ。あんたのお母さんの代わりになれるか分からないけど。きっと、ティニャが一緒ならあたいも寂しくない。ねぇティニャ。あたいの為に……家族になってくれないかい?」

 そう言った瞬間「うわぁぁぁぁぁぁぁ」とティニャは泣いた。

 大きな瞳が大粒の涙で浸った。

 青い瞳がその涙を美しい海の色へと変える。

 ルマーナは自分の胸でティニャの顔を優しく包んだ。

 目の前に、骨と皮しかない腕が静かに横たわっている。

 顔はもう、見なかった。ただその腕だけを見つめた。


――ティニャの事は任せてちょうだい。だから、ゆっくりおやすみ。


 耐えられなかった。

 ルマーナの頬にも涙が伝った。

 それはティニャの頬へと落ち、二人の涙は一つになった。






 この程度の文明において、解錠と侵入は容易だ。六瀬に行こうとする意志さえあれば大抵の場所は行けるだろう。

 指先の皮膚を形成しているナノマシンが形状変化するのだ。鍵なんて、あって無いようなもの。

 六瀬はオルホエイ船掘商会へ堂々と不法侵入し、サリーナル号の自室へと向かった。

 時は夜。

 夜勤の警備があるかと思いきや、まったくの無防備だった。

 知ってはいたが、どうぞご自由にお使いくださいと言わんばかりだな、と六瀬は思った。


 自室へ入り、装備ユニットACSの前に立ち、パネルを操作する。

 流石に六瀬でも、昼間の出来事には思う所がある。

 後から聞いた話になるが、ティーヨの件は寄生虫による被害だったらしい。

 若干の異臭は放っていたが、驚く程に腐っておらず、どちらかというと干からびている状況だった。上に一枚、毛布と呼べないような布がかかっていたが、腹部だけが盛り上がり、もぞもぞと何かが蠢いていた。

 髪は抜け落ち、全ての骨に触れる事が出来る……程の、皮しかない状態。

 誰の目から見ても、ティーヨは既に、死んでいた。

 異様な遺体の状況からして、正確な判断は出来ないが、死後数日は経過しているだろうと思われた。

 優しい表情、否、優しそうな目元だった。

 眼球は奥まで沈んでしまったが、姉に守られて、姉を想って、安心して逝った様に見えた。……そう感じた。

 きっと苦しまずに、静かに、眠る様に……。

 そうであって欲しいと願う。


 偽の薬を渡して、奴隷の如く働かせる。

 ヘブンカムはそういう商売もしているらしい。

 下劣な商売。だが、何処にでもあるような商売。

「装備は……無くてもいいな。インナーだけで十分だろう」

 母星の事を思い出した。

 テロ組織と化した宗教団体。薬や女を金に変える組織。違法武器や違法臓器を売買する闇商人。等々。

 何処にでも存在する腐った輩を始末する。それも仕事の一つだった。

 依頼があれば、他国へも行った。

 実行部隊は隠密行動を専門とするダンサー達に任せたが、状況に応じて自分の手も汚した。

 だから、今夜これから行う事も、難なく実行出来る。


 六瀬はインナーだけを装備して、蜘蛛の足のように開いたACSからゆっくりと歩み出た。

「最後の仕事。心置きなく出来るな」

 躊躇はなかった。

 ティーヨの姿。そしてティニャの涙を見てしまったのだ。

 乗り気でなかった依頼も、今では逆だ。

 三つ目の仕事。

 これに関しては金はいらない。ボランティアでもいいとさえ思う。


「さて、どう処理するか……。少なくとも、一瞬で……というのは却下だな」

 六瀬はインナー色を闇に溶け込む深い黒へと変えて、自室を出た。

 非常灯すら点いていない船内は真っ暗だった。

 闇の中、六瀬が歩く姿を即座に認識できる者なんて……勿論、いない。

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