4〉
振り返ったノクターンも、ソゥラの様子に気がついた。気遣うように側へ寄り、そっと肩を叩く。
ソゥラは悪い夢から覚めたようにハッとした。
「あ、それで、シエロは竪琴なんですね」
何かを、誤魔化されている気配があった。しかし、指摘する勇気もなく、シエロはただ、事実のみを答えた。
「はい。笛は、息が続かなくて」
そうですか、とソゥラは血の気の戻らない頬に笑みを浮かべた。ノクターンへ手振りで何か伝えると、何事もなかったように天幕へ戻った。
胸のざわめきが収まらなかった。
だが、双子は、彼らの様子に頓着していなかった。無邪気に興奮し、キラキラと目を輝かせてシエロを見上げた。
「上手だった」
「びっくりした」
「ね、竪琴も上手?」
「聞きたい」
もやもやとしたものは拭いきれなかったが、ノクターンの目配せもあって、シエロは竪琴を手にした。
膝の上に竪琴の台座を固定し、左手で枠を支える。右手の指で爪弾くと、震える弦から優しい音が広がった。
音階の確認をしただけで、双子の目尻はうっとりと下がった。
「きれいな音」
「優しい音」
奏で慣れた、短い恋歌を爪弾いた。音楽に合わせ、双子は身体を揺らした。
シエロのさざ波だった心も、次第に落ち着いてきた。風に煽られた水面が凪ぐように、気持ちが静まっていく。さらにもう一曲、幻想的な舞の曲を奏で終わる頃には、すっかり穏やかな気持ちになれた。
双子は、毎日食後に笛の稽古をしているらしかった。
ソゥラの村で幾日か過ごす間、シエロもノクターンを手伝って笛を教えた。時々、奏でて欲しいと請われたが、喘息を理由に断った。
本当の理由は、ソゥラの反応だった。怒らせてしまったのか、どうなのか。あのとき以外で、ソゥラの険しい表情を見ていない。常に穏やかな人を、あれほどまでに変えてしまった事が、恐ろしかった。
竪琴なら、ソゥラも双子と一緒に耳を傾けてくれた。王都での出来事を思い出す度乱れる自分の心を鎮めるためにも、シエロは日に何度か竪琴を爪弾いた。
川べりには、シエロが寝泊まりさせてもらっている天幕の他に、数個の天幕があった。そこに住まう人の姿も時折見かけたが、会釈を交わす程度だった。日暮時に外で竪琴を奏でていると、天幕の入り口に腰掛け、じっと耳をすませている人も見かけた。双子のように興味深々で近付くこともなければ、不審な目で見られもしなかった。ソゥラが認めているというだけで、距離を保ちながら受け入れられているようだ。
それが、シエロにはありがたかった。
ゆったりと時が流れた。いっそこのまま、集落の一員になってしまえたらと、本気で考えもした。
だが、所詮、シエロは部外者であり、客だった。
最後の包帯が不要になった朝。ノクターンが口にしたのは、祝福だった。
「後は、シエロの年なら放っておいても治るよ」
本音を言えば、引き止めてもらいたかった。治ったけど、一緒に暮らさないかと言ってもらいたかった。
しかし、彼は包帯を巻き取りながら、はっきりと言ったのだ。
「これで、旅に戻れるね」
シエロは重い腰を上げた。
「充分なお礼も出来ず、申し訳ありません」
「何を言ってるんだい。リズもディーヌも、あんなに上達したのはシエロのお陰だよ」
逆に、お礼を言われてしまった。
旅支度を整え、深々と頭を下げると、天幕を出た。頭上には、抜けるような青空が広がっていた。
双子も、見送りに出るとごねた。が、ソゥラに宥められ、天幕の入り口で、千切れんばかりに手を振ってくれた。
川の流れに沿って下る道を案内してくれるのは、ノクターンとソゥラのふたりだ。万が一、山賊と出くわすといけないからと、ノクターンは太い杖を手にしていた。
「このまま、川に沿って道なりに下っていけば、分岐に出ます。橋を渡り、支流を遡ると竜骨山脈の端に出ますが、十分、気をつけて」
ソゥラが細い指で示す方角を確認し、シエロは緊張の面持ちで頷いた。
それから、と、ソゥラは懐から小さな袋を出した。
「どうしても自分の力では敵わない事態に出くわしたら、使いなさい」
巾着を開くと、三つの珠があった。大きさは親指の先ほどで、水晶のように透き通っている。光を遮断された袋の中で淡い光を放っていた。
ただの珠ではない。
「これって」
驚き、顔を上げると、ソゥラの真紅の瞳が柔らかく微笑んだ。
「魔道具です。困ったときは、一つ握って、強く願いなさい。きっと、助けになります」
「そんな貴重なものを」
呆然と口を半開きにしていると、ノクターンも笑顔で頷いた。
「遠慮しないで。気をつけて行くんだよ」
頷き、袋の口を硬く結ぶと、懐の奥へ仕舞った。
心は重かった。不安と緊張、恐怖が圧し掛かっていた。だが、シエロは出来る限りの笑顔でふたりに礼を言い、手を振った。
シエロの後ろ姿が川に沿って曲がり、茂みの影に入ったのを確認して、ノクターンは問いかけた。
「良かったのですか。あのまま行かせて」
ソゥラは、静かに頷いた。真紅の目を細め、しばらくシエロの消えた方角を見詰めた。
「いずれ、また会うことになるでしょう」
それよりも、と振り返った目に、先程までの優しさは微塵も残っていなかった。
「急ぎましょう」
頷くノクターンの脇を、銀色の髪が緩やかに過ぎていった。
示された山道を下っていくと、程なく開けた土地に出た。川が二手に分かれ、一方は激しい流れを保ったまま谷に沿って落ちていた。茂った木々の間から流れ落ちる瀑布の音が、重く響いていた。
ソゥラたちが助けてくれなかったら、落ちていたであろう滝つぼ。ブルリと身体を震わせた。
それ以上滝を見ないようにして、シエロは橋を渡った。もう一方の、張り出した尾根を迂回する流れを辿った。教えられた道は、すぐに見つかった。街道に続く道だ。
山賊でなくとも、旅人が見舞われる危険は山ほどある。深呼吸をして、踏み出した。
頭上から、羽ばたきが聞こえた。
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