花の面影
1)
震える手で、扉を叩いた。
晩冬の夕闇に、大きく吐いた息が白く浮かんだ。深呼吸をしても、不安で早まる鼓動は落ち着かなかった。
しかし、手の内に握りこんだ紙に書かれた住所は、確かにこの家を示していた。何度も確かめたから、間違いない。
本当に、兄はこんなところにいるのか。
耳をすませると、あばら家の中でかすかな物音が聞こえた。
もう一度、扉を叩いた。
低い誰何の声がした。唾を飲み込み、ユズは掠れた声で返す。
「ここに、ダイチがいると聞いたの。妹のユズよ」
言ってから、不安になった。名乗ってよかっただろうか。
そもそも、兄は、妹の顔を覚えているだろうか。
六年前、十三歳でユズが家を飛び出してから、一度も兄に会っていない。彼が、両親の上司の娘と結婚して家を出たのは、そのさらに五年前だ。十年近く、まともに顔を合わせていない。
扉が、細く開いた。
隙間から、湿った片目だけが覗く。目尻近くに、黒子があった。兄の特徴と同じだ。ユズを凝視した目が、見開かれた。
扉の隙間が広がる。急かされ、中へ引き込まれた。
ランプが灯された。揺れ動く灯りに照らされたのは、間違いなくダイチだった。
再会の喜びより、落胆がユズを襲った。
ダイチは、ランプを掲げた。灯りを近付け、戸惑っていた。
思い当たって、ユズは髪に、正確には鬘に触れた。
「技芸座から、かっぱらってきたの。こんなところに私が来たってことが、他の人にばれるといけないから」
ダイチが、ぎこちなく笑った。
「まさに、ユズだ。間違いない」
彼が嬉しそうにしたのは、束の間だった。すぐに眼球が落ち着かなく動き、険しい口調でユズに問いをぶつけた。
「何故、ここに」
握り締めてきた書付を突きつけた。
「今朝、これが技芸座の玄関にあったの。矢で打ち付けられていた」
文面を確認するまでもなく、ダイチの手は震えた。
奥の部屋から、男が不安そうな顔を出した。ダイチは彼に書付を差し出した。男は受け取り、素早く目を通した。目を見開き、頬を強張らせる。ダイチと無言で頷きあい、慌てて奥へ駆け込んだ。
俄かに奥が騒がしくなった。何人もの声がする。
「どういうこと?」
ユズは、震える兄へ詰め寄った。
「お陰で、私は舞い人の座を下ろされそうなの。六年よ。六年かけてやっと手に入れた、舞い人の地位よ。昨日のミカドの聖誕祭の舞台で舞ったばかりなのよ」
畳み掛ける間も、兄は、身を屈め、腕を抱えて震えていた。彼の体に触れた机が揺れ、ランプがカタカタと音をたてた。
ダイチが、何度も汗を拭った。冬の夜だ。それなのに、拭っても、額はたちまち濡れる。
ユズは、冷たい目で、七歳年上の兄を見下ろした。
昔から、兄は臆病だった。
学問所の成績は常に首席、地郷で最も権威のある中央高等学問所の教員にまでなった優等生だが、親や上司が突きつける無理難題に抵抗することもできない弱虫だ。
それが、何故、最も逆らってはいけない、ミカドの意志に反した行為をしているのか。
「嘘だよね? ここで教えてるのは貧しい地球人種の子だけで、そこに書かれてるみたいに、色違いはいないよね?」
どうか、間違いだと言って欲しい。沈黙を我慢し、ユズは願った。
戦慄く兄の唇の間から、隙間風のように声が出た。
「色違いなどと、言うな。彼らは、僕達と同じ人類なんだ」
テゥアータ人への蔑称を咎められ、ユズは身震いをした。
彼らは、地球人種の祖が宇宙から帰還した時、星を乗っ取っていた盗人だ。おまけに、不気味な力を持っている。宇宙船で運んだ高度な科学力をもってしても解明できない異能だ。そのような彼らを、同じ人類だなどと。考えただけでおぞましい。
「だいたい、こんなことしてどうするの。高等学問所の仕事は? 家族は? あの、名前覚えてなくてゴメンだけど、奥さんと子供は」
更に問い詰める妹を、ダイチは悲しそうな目で見た。だが、反論をしようとしない。
固く結ばれた唇に、ユズの苛立ちは増した。
張り詰めた静寂の中で、小さく何かが爆ぜる音がした。焦げ臭い。
ハッとして振り返ると、窓を覆う厚い布の隙間から、赤い光が見えた。
「ちょっと、何?」
ユズはうろたえた。
奥の部屋から、先程の人物が駆け寄った。ダイチとユズの腕を引く。
「逃げるぞ。早く」
抵抗する隙もなく、引きずられた。
裏口へ向かっているようだ。
だが、その裏口が、外側から破られた。鉈や鎌を手にした男達が雪崩れ込んでくる。
「なんなの、これ」
ユズは青ざめ、立ち尽くした。
暗がりで、空を切る音がした。ユズの腕を引いていた男が仰け反った。ほとばしった液体が、すぐ近くの柱にかかる。
悲鳴をあげ、ユズは男の手を振り解いた。
外からも、悲鳴が上がる。女の声も、男の声もあった。
侵入者は、通路に転がる骸を跨いで迫った。
「こっちへ」
ダイチに腕をつかまれた。最初の部屋へ走るが、すでに乱入者に塞がれていた。廊下の角を曲がり、奥の部屋へ駆け込んだ。
ダイチは、すぐさま棚を引きずった。扉を内側から塞ぐ。
侵入者たちが、廊下から扉を破ろうとする。激しく、何かを打ち付ける重い音が響き続けた。
寒さと恐怖から、ユズは上腕を摩った。
「ねえ、どうして私まで」
「狩人が、反逆者の家族にも容赦ないのは、聞いているだろう」
震えるダイチの反論に、ユズは口をつぐんだ。
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