初日からまず上手くいかない
世の中、綺麗事ばかりが蔓延っている。
まるで風邪の菌みたいに、カビや埃みたいに、世界中の至る所に堆積していて、いくら掃除したところで意味がない。
あなたは私が守ります。
あなたの身の安全を保証します。
そんな都合が良いだけの話はない。
表面ではそう言いながら、その人を守る事で得られるメリットがあったり、裏切る前提で言い寄って来たりと、そんな事ばっかりだ。
表面だけ綺麗にしていても意味がない。裏が汚れていれば、その人の言葉全てが綺麗事。
そんな事も知らなかった幼少期、どれだけ傷付き、蔑まれ、石を投げられた事か。
そんな自分を、本当に守ってくれる人がいる事にどれだけ驚き、感動し、泣いた事か。
代償の有無ではない。心の有無だ。
綺麗事には心がない。
綺麗に飾っただけで、中身がない。
見た目がいくら豪奢でも、味のマズい料理に価値が見出されないのと同じ。
裏に孕んだ下心あれど、表に心がないから気味が悪い。気持ちが悪い。
目の前から消え失せて欲しい。疾く、疾く、疾く――!
「キィちゃん!」
「……!」
「……大丈夫?
今日はお互い、別々の部屋で寝ていたはずだった。
それでも彼が飛んで来るほど、酷く魘されていたのだろう。寝ている間に掻いたのだろう脂汗で、全身グッショリ濡れている。雨にでも打たれたかのよう。
けど、彼も当然のように駆け付けてくれた。
薄い壁一枚程度で隔てられた気分などないけれど、もう夜更けだ。寝ているはずの時間なのに、駆け付けてくれた。
血の繋がった家族以外で、そんな事をしてくれるのは彼だけだ。
本気で自分を愛し、愛するのは彼だけだ。
「今日も一緒に寝る?」
「……大丈夫。高校生にまでなって、一人じゃ寝れないだなんて恥ずかしいわ。私は大丈夫だから。ね?」
「お休み」
軽く唇同士が触れる程度のキスをして、楓太は二、三度振り返りながらも隣の自室に戻る。
振り返る彼を微笑を湛えて手を振って送った桔梗は、タンスから新しく出したパジャマに着替えて、再び横になる。
悪夢に魘されていても眠気が残っていると言うのは不思議なもので、その後、十分と経たずに眠りについた。
* * * * *
「あの後眠れた? 大丈夫?」
「……えぇ。大丈夫。最近ちょっと根を詰めていたから、疲れてただけよ」
朝、洗面所で彼女の髪を梳かしてやる。
生まれてこの方切った事がないという彼女の髪は、低身長の彼女の体よりも長い。
毎日の手入れは彼女自身でいつもやっているが、偶に楓太が代行を務める。決まって、桔梗自身の精神状態が不安定な時だ。
年々回数が増えて来たせいで、最早そこらの下手な美容師より格段上手い楓太の手は、唯一、桔梗の髪に触る事を許される。
「今日からだね」
「えぇ、今日からね」
「勝てるかな」
「勝てるわ。あなたなら」
「じゃあ、俺達が戦うとしたら、決勝戦かな」
「そうなったら、降参しちゃう?」
「もちろん。俺が君を傷付けるなんて、あり得ない」
後ろから、優しく抱き締める。
顔のすぐ側まで降りて来た彼の顔に頬を擦って、吸い付いた。
好きだの愛しているだのと、当たり前の言葉を並べる必要はない。わざわざ言わなければ伝わらない程、自分達の気持ちは軽くないのだ。
「副賞って何かしら。出来るなら、半分こしましょ?」
「どこか出掛けられるなら、そのときは俺が君を独り占めする」
「じゃあそのときは、私があなたを独り占めするわ」
家でも外でも構い無し。
最早、二人の間に妥協なんて言葉は存在せず、愛に上限も下限もない。
母も慈母のように優しく見守るだけで、二人に加減を求めなかった。
互いに愛し合えるからこそ二人は――娘は、生きていられるのだから。
「フゥ太」
「ん?」
「……呼んだだけ」
「そっか」
* * * * *
紫の髪を揺らし、愛美は学校指定のバッグを両手で持って登校する。
今日から交流試合。
風紀委員代表として、何より唯一の二年生として、他二人に後れを取る訳にはいかない。
気合は充分。
例え相手が黒髪だろうと、同じ委員会の後輩だろうと勝利を目指す。
勝利の算段が必ずしもある訳ではないが、実戦経験値なら一年生に負けるつもりはない。
何より、代表に選んでくれた蓮華に恥を掻かせないためにも、せめて一回戦くらいは突破しなければ面目を保てまい。
「ちょっといいかな、お嬢さん」
道には丁度自分しかなく、老人の視線も明らかに自分へと向けられている。
黒いコートに身を包んだ、白髪の老紳士だ。
月詠学園に通っているせいで、いの一番に髪の色に目が行ってしまったけれど、明らかに日本人とは言い難い顔立ち。
外国人となると、愛美は少し構えてしまう。
生徒ならまだしも、大人となると蓮華に通じようとする外国からの刺客と想定して身構える様、自分自身で癖を付けたからだ。
「そこまで怯えずとも、取って喰いはしないよ。ただ一つ、お嬢さんにお願いがあってね」
「お願い? そんな――」
近くの木から、何かが跳び掛かって来た。
四つ足で這う様に着地したので、猛獣か何かかと思ったが見てみると紛れもない人で、獣のように両手両足を付いて這う様に愛美を見上げ、舌を犬のように出しているだけだった。
充分気色悪いし、異常には違いないが、愛美に動じる気配はない。
むしろ冷静に、敵の戦力を分析している。
薬か精神操作の異能かわからないが、とにかく男に施されたものはそう簡単に解毒ないし解術出来るものではないと察して、戦闘の回避は免れないと判断した。
「何ダァ? おまえ早いナァ?」
「あら、喋れるのですね、あなた」
引き攣ったような、しゃっくりでもしているような笑い方で笑う男。
正直、喋れるかどうかなんてこの際どうでも良い。
問題は彼らの目的と、ここから離脱する手段だけ。
「ボグダン。交渉の結果が出るまで大人しくしていろと言ったろうに。すまないね、お嬢さん。この通り、獣じみて堪え性のない男なんだ。堪忍してやってくれ」
「ボグダン……」
記憶違いでなければ、ロシア男性に多い名前だったはずだ。
それを踏まえて見ると、老人も確かにロシア系の
最近、ロシア人の少女を風紀委員に迎え入れたばかりだからか、余計にそう感じた。
だとすると、彼女はロシアからの回し者なのか。
もしくは、彼女を利用して蓮華に近付き、ロシアに招こうと言うのか。
いずれにせよ、精神操作の可能性がある以上、警戒は怠れない。戦うより、逃げる事を優先すべきだろう。
しかし未だ、通常の登下校時刻にはまだ早い。
普段から
とにかく、助けは来ない。
自分一人で、この状況を何とかするしかない。
「ナァナァ、良いだロォ? 俺と遊ボォゼェ?」
「ダメだ、ボグダン。彼女はあくまで一般人。傷つけてはいけない。例え戦域の中だろうとだ」
いやむしろ、戦域の中だからこそダメなのだ。
戦域内部は、展開された国によって常時管理、記録されている。
能力の内容はもちろん。会話や心拍、脈拍などの体調にまで関与しているから、戦域で下手に動けば逆に感知され、妨害される。
故に、何かするのなら外だ。
だが外では、戦域の特権たる自動修復がない。つまり過ちを犯した場合、取り返す術がない。
下手に動けないのは向こうも同じ。なら、一度言う事を聞くフリをしてこの場を離脱し、後で蓮華――もしくは、学園長に報告すればいい。
学園長なら、同じ黒髪の蓮華のために動いてくれるはずだ。
「……それで、お願いの内容とは?」
「何、簡単な事さ。最近君と同じ風紀委員に入ったロシア人の女の子に、これを渡して欲しいだけだよ」
と、菓子袋を手渡されたが、絶対に菓子ではないだろう。
本当に菓子だとしても、食べた瞬間に遠隔で発動する洗脳然り、操作系の能力の媒介とされる可能性が高いし、ストレートに毒と言う可能性もあり得る。
「中身は何か、伺っても?」
「無論だとも。何なら一つ、食べてくれても構わない」
袋を開けてみる。
紐で括られただけの袋の中身は赤いジャムが真ん中に入った花型のクッキーで、毒々しいと言えば毒々しい赤色が真ん中で輝いている。
ただのイチゴジャムも、状況次第では毒に見えるから不思議だ。
確かトマトも昔は毒の類と思われていたとかいなかったとか、そんなトリビアはどうでも良くて、問題はこの状況をどうするべきか、だ。
「……舐められた、ものですね。一つ食べてくれても構わない、ですって? 冗談。一つでも食べたら、半日は動けない猛毒ですね」
「ほぉ、見ただけで看破したか。紫髪だからと毒の能力者……などと、そう単純な話でもなし。ましてや我々が君に接触した時点で、能力が開示されているのは察しているのではないかね?」
「えぇ。私の能力なんて、見ればすぐにわかりますから」
嘘だ。
見ただけですぐわかるような、そんな単純な能力でもない。
だがまず間違いなく、看破はされているだろう。
それでこの毒入りクッキーを出してくるのだから、良い度胸をしている。
無論、向こうもボグダンなる獣じみた男を使って対抗して来るのだろうが、彼の髪は赤――もっと言うなら、朱色のような、火を通す前の豚肉のような色だ。
赤は大体、炎や熱と言った系統の能力に偏る傾向が強いが、彼もそうとは限らない。何せ、自分の対抗策として用意されているのだから。
「ナァ、もう良いだロォ?」
「ダメだ、ボグダン……まったく、おまえは聞き分けの悪いボーイだよ」
最悪、ボグダンなるこの男を動かしてでも、無理矢理事を成そうとするだろう。
ここで足掻いて、更に悪い結果を招くのは望むところではない。
「……最初で最後の晴れ舞台。張り切っていたのですが、致し方ありませんね」
袋の中のクッキーを、次から次に口へ抛り、急いで咀嚼して、飲みこむ。
甘いジャムに隠された甘美な毒液が胃を通じて体内を巡り、愛美の体を侵して行く。
同時、愛美の能力が発動し、目の前の老人が倒れる――はずだったが、先程まで意気揚々と臨戦態勢万全だったボグダンが、虫の息で膝間づいた。
「やはり、対策済み……でしたか……」
「彼には悪いですがね。あなたの“呪い”は恐ろしいですから、仕方ない」
「やはり、私の能力は看破されていましたか……」
胃が焼けるようだ。
体が懸命に、体内に侵入した毒を排出しようと血管を開き、呼吸を荒くし、全身を細かく震わせて、五臓六腑を動かしている。
愛美の能力は、自分を害する者に対して自分が与えられた苦痛を返す“呪い”と言われる能力で、毒と似通った物という判定なのか、特殊な能力にも関わらず、紫色の髪に現れる事が多い。
ただし愛美の場合は少し特殊で、直接自分を害した敵でなくとも、目の前のに対象にしたい相手がいる場合、その相手に呪う対象を変更出来る。
だがそれを、目の前の獣男に阻まれたらしい。赤い髪でそう言った能力者は聞いたことがないが――目の前で起きている事が事実だ。
「私を戦線から離脱させて、何が……目的……」
問いの答えを聞くより前に、愛美は意識を失って倒れてしまった。
老人は彼女を抱き上げ、車に轢かれない道脇の電信柱にもたれ掛かる形で座らせる。
こちらの思惑に半ば気付きながらも、乗ってくれたせめてもの礼だ。
「そんなところで倒れるなよ。さすがに、おまえは運べない」
「んだヨォ……結局戦いにならなかったじゃネェカァ」
「焦るな。一先ずの目的は果たしたのだ。後は学園長が、我々の要求を呑んでくれるかどうかだが……確実に、十中八九乗ってくるはずだ」
「そんなに上手くいくものカァ?」
「さぁ。だが、ミスター烈道は変人以上に賢い男だ。更に、同じ黒髪に対する情も厚い。悲しくも、利用しやすい男だ」
* * * * *
「……はい、もしもし」
十六夜家、邸宅。
十六夜蓮華、私室。
彼女の部屋には専用の電話がある。
番号を知っている人間はごくわずか。日本政府でも、数えるほどしかいない。
この電話を取った時だけ、彼女はフルで日本語を話す。翻訳機器が使えない事もあるが、当番号はいわゆる
気軽に母国語を使って話せる相手だけが、この電話に掛ける事が出来る。
が、この時この電話を取った時こそ明るかった彼女の顔は徐々に雲行きが怪しくなり、受話器を置いた時には、雨模様となる前の曇天のような顔色になって、泣きそうになっていた。
泣くのを堪え、自分の携帯電話へ。
よく使う番号リストのトップにある番号に、迷わず掛ける。
『もしもし、蓮華かい? どうしたんだ、こんな朝早く。何か、あったのか?』
「……助、けて……助けて……
電話の相手――月詠学園、現生徒委員会会長。
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