261話 ヴァルターの過去(5)
長年の修行を終えて、遂に父ドルトンからグランドマスターとしての役目を引き継ぐことになったヴァルター。
一人の平民が冒険者ギルドという巨大組織のトップまで登りつめたということで、側から見れば彼の人生は順風満帆だったように思えるのかもしれない。
だが、その裏には人知れず流した汗や涙があり、多くの苦難を乗り越えた末に手に入れたものであった。
そして何より、彼はまだ一番欲しかったものを手に入れられていないのであった……。
《グランドマスターになったら生き別れた母親と再び一緒に暮らしたい。》
それは彼がまだ10歳のときに願った唯一の願望。
自分の他に家族のいない母を、再びひとりぼっちにさせてしまったことを彼は強く悔やんでいた。
だからこそ、ヴァルターは父であるドルトンと、グランドマスターになったあかつきには母と暮らす事を許可して欲しいという約束をした。
そして、どんな苦しいときも自分以上に苦しんでいるだろう母のことを思って耐え忍んできた。
しかし、グランドマスターとなった彼のもとに現れたのは、母親としてアンナではなく、家政婦として老婆アンナなのであった……。
「はじめまして、アルナ=シェルツと申します。これから家政婦として、ヴァルター様の身の回りのお世話をいたします。よろしくお願いします」
20年ぶりに再会した母親は、自分のことをヴァルターと呼んでくれなかった。
ひさしぶりね、大きくなったね、立派になったね……とは言ってくれなかった。
彼女は必死に感情を押し殺し、ヴァルターが暮らす豪邸で働く一人の家政婦としての業務にまっとうする日々を送るのであった……。
こうなることはある程度わかっていた。
しかし、現実として目の前に起きると悔しくて涙が止まらなくなる。
あれほど夢見た母親との生活なのに、本当の親子として接することは禁じられている。
あくまで、家政婦と雇い主という立場でしか彼らは関わることが許されなかったのであった……。
これはヴァルターがグランドマスターという絶大な権限を持っているからこそ、起きてしまった悲劇である。
この世界の三大陸にまたがる冒険者ギルドという巨大組織。
もちろん、多くの利権や権力者の思惑がそこには絡んでくる。
そんな中で、最高権力者であるヴァルターの弱みとなるものを公になどできるはずもない……。
冒険者ギルドをよく思わない者もなかにはいる。
グランドマスターという地位を狙う不届き者もなかにはいる。
そんな人間の醜い権力闘争の中で、非力な老婆がヴァルターにとって何よりも大切な存在だと知られようものなら、アンナにどんな危険が降り注ぐかわからない。
だからこそ、父であるドルトンは彼の願いを叶える際に、家族としてではなく家政婦として一緒に暮らすことを提案し、ヴァルターもまた提案を受け入れるしかなかったのだ……。
彼は昔は、決して父親のような人間にはなりたくない。
自分は大切な人を、大切にできる人間になりたい。
そう思っていた……。
だが、成長するにつれてヴァルターも真実に気づいた。
人を愛していないわけではない。
愛しているからこそ、自分たちはその愛情を表現してはいけないのだ。
もしも、そんな姿を敵に見られてしまったら、その人たちを傷つけてしまうから……。
「アンナ……。それじゃ、今日も行ってくるよ……」
「はい、いってらっしゃいませ。ヴァルター様……」
二人きりになるときほど、息が詰まるような苦しさを感じる。
今なら、『母さん』と呼べるのではないか……。
誰も見ていない今なら、伝えたいことを伝えても良いのでないか……。
しかし、そんな雰囲気を察すると決まってアンナは彼を止める。
二人きりだと思っていても、どこで誰が見聞きしているのかわからないのだからと……。
そんなモヤモヤを抱えたままの生活を数年送った。
あれほど夢見た母親との暮らしなのに、彼の心が晴れることは最後までなかった。
確かに、母はひとりぼっちではなくなったのかもしれない。
しかし、これは彼女にとって幸せなのだろうか……。
そんなことを思う日々を送った。
ギルド街に出れば……世界中に出張していれば……。
そこには幸せそうに暮らす家族たちの姿が見に入る。
自分にはもう決して手に入らないその光景を前に、やるせなさを感じる日々を送った。
おそらく、母もまたギルド街ですれ違う親子たちの姿を見てそう思っていたのであろう。
そして、その日は突然とやってきた……。
いつもなら早朝から庭先で花壇の世話を任されているアンナ。
しかし、その日彼女が庭先に現れることはなかった……。
不審に思った他の家政婦が彼女の部屋に入ると、そこにはベッドで冷たくなって眠るアンナの姿があったという。
そして、その知らせはすぐにヴァルターのもとへと届いた。
家政婦からその知らせを聞くなり、血相を変えてアンナの部屋へと駆けるヴァルター。
そこで彼は安らかに眠る母の姿を見たのであった……。
それは、20年前に一緒のベッドで寝ていたときに見ていた母の安らかな寝顔。
その姿を見て、あの頃の思い出がヴァルターの脳裏に甦る。
狭い家の中で、母親の織物の仕事を手伝ったあの日々が……。
難しい本を、ゆっくりと読み聞かせてくれた日々が……。
大好きな母との思い出が次々とあふれ出してくる。
「うわぁぁぁぁぁぁああああ」
「母さん!! かあさぁぁぁぁんんんん!!」
20年ぶりに抱きしめた母の身体は、痩せ細っており、ひんやりと冷たかった。
あの頃は自分の方が小さかったはずなのに、今はその両手で彼女を包み込むことができる。
彼の発した言葉はもうアンナには届かない。
ずっと、伝えたかった息子の想いも今はもう届かない。
だが、彼は叫ばずにはいられなかった。
手遅れだとはわかっていても、無意味だとはわかっていても、彼の嘆きの叫びはしばらくの間続いた。
周囲の家政婦たちからは二人の関係に対して驚きの声があがる。
しかし、今の彼からすればもうそんなことはどうでも良いことだった……。
◇◇◇
そして、母アンナが亡くなってから数ヶ月が過ぎた頃……。
悪い知らせは続いて入ってくる。
父であり、先代グランドマスターであったドルトンもまた、病に侵されて倒れてしまったというのだ。
ヴァルターはその知らせを受けるなり、急いで父のもとへと駆けつけるのであった。
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