-前-

序幕 -殺し アイ-

1.「開①」


 うだるような暑さが容赦なく身体の水分を奪っていく。七月もまだ前半だというのに、照りつける太陽は手加減というモノを知らないらしい。傾斜のキツい坂道を上りきったところで、俺はふぅっと息の塊を吐き出した。

 転校してから一週間。徒歩通学に慣れるのにはもう少し時間がかかりそうだ。息を整えて首筋の汗を軽くぬぐった俺は、水平線の向こうまで続くコンクリの直路に再び眼を向けた。



「――なんだ、コレ……?」


 眉を八の字に曲げながら、思わず独り言を漏らしたのは『俺』で――

 学校の昇降口に到着し、錆びついた靴ロッカーを開け放った俺は一人違和感を覚えていた。

 買ったばかりで、新品同様の上靴。


 ――の、上。


 ノートの切れ端と思しき一枚の紙が置いてあった。四つ折りにされているソレを特に何も考えることもせずに開いた俺は、無機質な筆跡で書かれた短い文章を眼で追う。


『あなたは、人間です』


 ――はっ……?

 首を斜め四十五度に傾けながら、俺の頭上でクエスチョンマークが舞を舞う。


「……いや、知ってるけど」


 誰でもない誰かに向けて、言葉を返して――

 ……何かのイタズラだろうか。それにしても文章が意味不明だ。誹謗中傷の類ではないし、とはいえダミーの恋文というわけでもないらしい。


 ――わけがわからない。おそらくこれ以上思考を続けたところで解にたどり着く可能性は著しく低い。そう判断した俺は、ノートの切れ端を再び四つ折りに畳んだ後、近くのゴミ箱にポイッと放り投げた。



 ――ガラガラガラッ。

 『2-A』とプレートが掲げられている教室のドアを開け放つ。

 何人かの生徒の目線が俺に集中し――、彼らは、朝の雑談をピタっと中断させた。

 俺はノソノソとやる気のない足取りで教室内を闊歩し、ドカッと窓際の自席に腰を下ろす。

 シンッ――、とした静寂が空間を包む。

 ヒソヒソと、隠す気もないであろう忍び声が耳に流れた。


 ――来たよ、あの転校生……、『病院送りのアマリ』。

 ――こわーっ……、オイッ、あんまり見るんじゃねーよ、殺されるぞ。

 ――なんでうちの学校……、しかも、よりによってアタシ達のクラスなんて……。


 ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ――


 ……全部、聞こえてるっつーの。


 『一条いちじょう 亜真理あまり』、俺の名前。

 ……女みたいだなって自覚はあるが、俺にはどうすることもできない次元の問題だ。


 はぁっとタメ息を漏らした俺は、ノイズ音を遮断するように窓の外に目を向ける。グラウンドをうぞうぞと歩いている高校生の集団はまるで黒アリの大群。おんなじカッコで、おんなじような会話をして、おんなじような表情で――



「――アマリくん?」


 ――ハッとなり、俺は声のする方に目を向ける。

 線の細いロングヘアがフワッとなびき、ソイツは屈託のない笑顔を浮かべていた。


「アマリくん、おはよう」

「……ああ、おはよう、ええっと――」

「――もうっ、雪村だよ。『雪村ゆきむら 吹季ふき』。昨日もおとといも……、何回、自己紹介させれば気が済むの?」


 屈託のない笑顔を少しだけ崩して、マンガみたいに頬を膨らませた彼女は、でも台詞ほど怒っていないように見える。


「ああ、わりぃ……、いや忘れたわけじゃないんだよ、すぐ、出てこなかっただけで」

「……怪しいなー。罰として、今日ジュースおごってね」

「――えっ!? か、勘弁してくれよ……」


 俺は露骨に慌てて――、いやケチだという勿れ。今日日、百二十円の出費は俺にとってはヘタしたら一回分の食費に匹敵する。俺のリアクションが面白いのか、眼前の雪村がクスッといたずらっぽく笑った。


「……冗談っ――、アマリくん、お昼いつも何も食べてないでしょ? あしたお弁当作ってきてあげようか?」

「――えっ!? ……それは、冗談じゃないよな? 本気にしていいんだよな?」

「……ぷっ。がっつきすぎ――。いいよ、いつも自分の分は自分で用意しているの。一人も二人も手間はそんなに変わらないから」

「……おおっ、これからは雪村様って呼ばさせてくれ。ありがとう、ありがとう……」

「……いや、それはヤメテ――、じゃあ、楽しみにしててねっ」


 ニコッと再び笑って、くるっと踵を返して――

 線の細いロングヘアがなびく。俺は彼女の背中にボーッと視線を向けていた。


 ――アイツ、なんで俺に話しかけてくるんだろう。



 病院送りのアマリ。

 中二病みたいな二つ名は、決して自ら名乗ったワケではないと声を大にして宣言しておこう。

 五人のフリーターを重体にして、お縄を頂戴……。

 前のガッコで余儀なく退学処分をくらった俺は、今の高校に転校してきたってワケ。

 これはまごうことなき事実だし、クラスの連中が俺に関わろうとしないのもわかる。


 ……わからねーのが、そんな俺に、『なんでもない』ってツラで、無邪気に毎日絡んでくる奴らが、『約二名』いるってこと。

 そのうちの一人が雪村……、いや、雪村様で。もう一人が――



「――ちーっす! アマリ! 今日暑すぎない!? 太陽の温度調節ミスってない!?」


 短く切り揃えられた金髪が目に入ったかと思うと、俺のすぐ後ろ、アホヅラを晒しているソイツがドカッと自席に腰を落とした。


「ああ、おはよう……、えっと――」

「……はぁっ!? お前まさか、一週間も経つのにまだ俺の名前覚えてくれてないの!?」

「い……、いや――、あっ! お、おはよう! ダイスケ!」

「……誰だっつーの! 俺の名前はヨウスケだよ! 『志鎌しかま 陽介ようすけ』! 今度忘れたら、ガリガリ君を口の中に百本つっこむからな!」

「……いや、物理的に無理だろ」

「冗談だっつーの! 今のは誰でもわかるだろ! お前相変わらずおもしれーなー!」

 何が楽しいのか、陽介が子供みたいに爆笑している。相変わらずテンションの高い男だ。

「――なぁ、陽介。お前って、なんで俺に話しかけてくるの?」


 ふいに、聞いてみた。


「……はっ?」


 キョトンと、ガキみたいな顔で、パチパチと瞬きを繰り返してるのは『陽介』で――


「……いや、俺さ、変な噂あるし、他の連中は近寄らねぇじゃん、なのに、なんでかなって」

「……なんで――」


 ――三文字のテキストがフワフワと宙に舞い、陽介は口元に手を当てて何かを思案し始めた。   

 ……いや、そんなマジに考えなくても――


「なんでって……、理由なんてねぇよ。席が前だから、挨拶くらいするだろ、フツー」

「フツーしねぇよ。今日日、東京で引っ越しソバを近所に配ってる奴なんて絶滅したぞ?」

「……フーン、まぁ俺、半分アメリカ人だし、ラテンの血が流れてるからじゃね? 母ちゃん金髪ブロンドヘアで、俺も遺伝でキンパだし」

「……はっ? いやその金髪、染めてるだけだろ。今の冗談、俺でもわかったぞ」

「……アハハッ! やっぱお前、おもしれーよ!」


 ケラケラと笑った陽介が、ごそごそとスクールバッグを漁りだしせかせかと一限目の授業の準備をし始めた。異常に真っ黒な瞳を、少しだけたゆませて。……えっ、会話終わったの?


 行き処を失った疑問符が空中をふよふよ漂い、でもまぁいいかと俺もくるりと前をむく。

 必要以上に、踏み込まない。決して、それをしてはいけない。


 ――何故なら、俺は……。

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