やぶれかぶれ適当日誌

適当日乗


<面白くなるか?>

 いま書いているのが、ジュブナイルSF「オパール767」であります。

 構想は2021年初にはできていて、いつか書こうと考えていたものです。

 まだ初校の段階で、あまり面白くなっていません。このあと、いろいろ意見を聞きながら、ちょっとでもよくなるよう進めるつもりです。


<『タイムトラベリング』>

 そのあとも、ひとつかふたつは、ジュブナイルSFを書く予定です。

 これはやりたいと思っているのが、『タイムトラベリング』の小説化です。

 これは、2001年と2002年の秋に、ぼくが小学校の放送委員会の出し物として文化祭で上映した、SF映画(映画とはいえない代物ですが、本人は映画のつもりで作った)であります(その脚本を両年ともぼくが書いた)。

 当時の語彙ですから、『タイムトラベリング』なんていうわけのわからない題名がついているわけですが、題名のとおり、時間旅行ものであります。ナマのままだとストーリーがつまらないと思うので、脚色は必要になると思いますが、これの小説は、ぜひいちど書いておきたいと思っているのです。

 といって、同じことを二〇年も思いつづけており、なんだか昔に書いた(=

=書き起こした)こともあるような気がします。じつは忘れているだけでもう書いたんじゃないか? という気が、とみにしてきました(そういえば、ぼくは幸いなんの感染症にも罹っていませんが、これだって、本人の知らないうちに感染して、知らないうちに治っているだけかもしれないのであります。そんな例、たくさんあるんじゃないかな)。まあとにかく、なにか「ジュブナイル小説」と呼称される客体が、今後もいくつかシュッタイするであろう、ということであります。


<闇のアルバム>

 お盆休みに、一〇冊ほど漫画を買いました。その中に、楳図かずおの『闇のアルバム』がありました。これは、有名な同名のアルバムとは直接関係のない、オムニバス形式の、言ってみればショート・ショート集であります。

 面白さに、うなりました。お盆休みだったから、家にいた弟(弟は漫画と音楽に関してはぼくの一〇倍は詳しい)にこの作品を読ませたら、なかなかいい、特にこの話がいいと言って、「バー・ラララ」を推しました。じつは、ぼくも「バー・ラララ」が白眉だと思っていて、自分の掌編の投げっぱなし具合と重なるものを見たのであります。


<いつ思いつく、小説のネタ>

 これをやったらネタが思い浮かぶ、という決まった方法はない。これは当然で、そんな方法があったらだれも困らないし、プロの面目など、たちまち保てなくなるだろう。

 ぼくは、ネタというのは机の上にはあまりない、と思っている。思っているというか、経験として、机の上でこねあげた作品が少ないのだ。じゃあどこが多いかというと、外に出てなにかやっているときに、ああ、これ使える、と気づくことが多い。


<掌編のタイプ>

 明確に、切れる落ちのあるもの。

 奇妙な事象を描いた投げっぱなし系。

 怪談。

 筋より情景とか舞台設定の奇妙さを味わうもの。


<タロットの話>

 ぼくの昔の知り合いに、タロットをやる人がいた。ぼくなど、よく練習台にされたものだ。

 いろんな話を聞くと、タロットやオラクルカードのたぐいは、元々は不安の解消のために手をだす場合が多いようだ。つまり、片思いが成就するかとか、計画がうまくいくかといった問題について、スプレッドによって、答えを導こうとするのである。それが慣れてくると他人も見てやろうとなるらしい。

 タロットの怖いところは、自分の本心とか、潜在的欲求についてもスプレッドできることだ。これは、自分しか知りえないことを赤の他人に訊くのと同じことであり、しかもその赤の他人はそんなこと知りませんとは決して言わず、当人しか知りえないことをなぜか答えとして当人に教えるわけである。意識下の自己認識と、カードの答えとが異なる場合もままあるのだから、これは端的にいって、人格乖離のための準備運動をしているようなものである。

 そのタロット好きの人も、最後のほうは、当人がなにか喋ったあと、ぶつぶつとそれに対する反論というか、異論をつぶやくようになり、あれえと思った。


<いまどこに>

 昔の、文芸部の機関誌なんか読むと、見る名前見る名前、ぜんぶ懐かしいざんす。

 そして、いま果たして小説を書いているか、一切不明の人物ばかりであります。

 おそらく、その人々にとっちゃ、ぼくもそうなんでしょうな。

 うん、そうだよ。おれはもう小説は大学でやめたんだ。懐かしいねえ。いまのぼくは、書道家さ!

 などとふざけても、ああそうなんや、きみもやめたんか、社会人なるとなあ、なかなかなあ、とでもなるのではないか?


<巨大な車>

 立て続けに巨大な車をもつことになったが、田舎なら、公道のどこを走っても、その大きさはあまり苦にならない。都内は、やはり路地に入ると、これは大きすぎると思うことも多い。具体的には、妻の実家付近など、一方通行でないかと思うほど幅員が狭い。これが下町になると恐ろしいことになるのだろう。そう言えば堀切など散策したとき、これは私道かなんかだろうと思ってど真ん中を歩いていた細道が、堂々たる生活道路であった。


<作ればあるよ>

 今年の1月だったか、旅先で販売されていることを知り、しかもサイズ在庫があり買ったTシャツが、いま品薄で、入手しようにもばか高くなっている。このTシャツ、買ってからほとんど着ていない。生地が厚くて、夏場に着るのがしんどいからで、それなら春や秋に着ればいいということになるが、春や秋はたいていノースフェイスのウインドブレーカーしか着ていないから、じゃあいつ着るのかという話だ。こんな話をしているうちに、もう秋が目の前だ。

 Tシャツに凝る人が最終的に行きつくところは「自作すればなんでも好きなやつ着れる」であろう。ある古着好きの友人は、柄ものを卒業し、いっさい無地のものばかり買うという方向へ行ったが、これは少数派ではないだろうか。

 ぼくは、すっかり「作れば早い」に最近は落ち着いている。

 ぼくが以前からよく言う、「作ればあるよ」の精神なのだ(子どものとき、「そんなのないよ」「いやあるよ」「ないよ」「作ればあるよ」という会話をしなかったか?)。「作ればあるよ」というのは、揚げ足取りに見えて、結構深い言葉だ。とにかく作っちゃえばあるんだから、どうやったら作れるか考えろ、というビジネス・マインドを刺激する言葉である。「作ればあるよ」Tシャツを作りたいくらいだ。

 で、オリTにはまると、秋元SF文庫Tシャツ、サンリオ文庫Tシャツ、世界ギボウシ品評会Tシャツ、本当にあった呪いのビデオ「REPLAY」Tシャツ、笑犬楼Tシャツ、南相木村Tシャツ、おのれの妻の顔写真にでっかい×印をつけた、セックスピストルズ的なパンクTシャツ(もちろんGOD SAVE THE QUEENと書いてある)など、1万円出しても欲しいレアTシャツが数千円で手に入るのだ。こんな額で楽に夢を現実にできるのだから便利な時代になったものだ(校正者註:筆者は著作権のないオリジナル・デザインを入稿しシャツ化しています)。

 

<ミスターケアレス>

 書籍の誤字・脱字はなるべくないほうがよいが、昔の、植字をしていた時代の書籍を読むと、誤字・脱字・文字の転倒などは頻繁に目にする。特に一〇〇年くらい前の書籍を原典で読むと誤りが多いことに気がつく(もちろん、これは印象で言っているだけだ。あくまでぼくが読んだ範囲の、という前提つきであることは言うまでもない)。

 で、いまは原稿用紙に文字を書いて原稿にする人もほとんどいないから、みんなテキスト入稿ということになる(これだって、実際はよくわからない。あくまでぼくが付き合っている著者の中では、ということにさせてほしい。と、どうしてこんなにうるさく註をつけるのか)。

 ワードパチパチの時代に多いのが変換ミスで、「以外」と「意外」、「全身」と「前身」などは、たいへんよく見る「言いまつがい」である。

 笑ったのは、「若者の声を大便し――」といったミスを見つけたときだ。あまりに鮮やかな間違いなので、どこか筒井的なスラップスティックを感じないでもない。タイプミスをしたオールドミスが急にスカートをまくってけけけけけ、である。

 創作の場で、あえてスペースキーをぱちぱちやって、前衛的な文章を作ろうという動きをする人もいた。どこにいたのか。ある純文学の同人にであります。彼は、waitという意味の「待とう。」と書いたあとに、「纏う」とか「魔塔」とかを続けて置いて、押韻を試みていたのだ。纏うとか魔塔を使う必要性はなにもない文脈でそんなことをするから、やっていることは都都逸やライムづくりに近いのだが、音楽的文章を書くつもりのない自分にとっては、それなら自由詩に行ったほうがいいんじゃないかと思われた。といって、文章にもある程度は音楽的要素は必要なのであり、その技術を学ぶための手掛かりに、俳句があると思う。


<スクワット>

 どんなに帰宅が夜遅くなっても、運動はしたほうがいい。

 昨日はヒンズー・スクワットをインターバルを入れながら300回した。昔のプロレスの道場では、これを何千回も行うのだが、最近はさくっと連続300回くらいにとどめるそうだ(膝を壊さないためと、他にもスパーリングやウエイトなどやることが山ほどあるため)。

 ぼくは、まだ連続300回は厳しい。昨日は100回やって、三分くらい休み、200回やった。とりあえず、インターバルを入れて500回はできるようにしたい。

 これはもちろん筋肥大ではなく持久力をつけるための運動で、回数がのびた分、そのまま持久力がアップしたということがわかるから、なかなかおもしろい。


<眠られる夜のために>

 それで、帰宅が夜遅くなったとき、次の日に快調に目覚めるにはどうしたらいいか? ぼくの経験から、下記がポイントと考えている。

① 夕食のとき、お酒を飲まない。

② 夕食は軽くする(炭水化物をとらないか、減らすのが効く)

③ 胸筋か大腿筋を刺激するような運動を行う。

 これをやり、あとは寝床で本を読む(活字の本である)と、眠りがどしーんと深くなるので、そんなに無理なく起床できます(ぼくの場合)。


<スクワット>

 今日は、スクワット四一〇回。

 あと少しで五〇〇回だ。

 がんばろう。


<ランチ八〇〇円>

 ぼくは昼食は弁当を持ってくるから、結婚して以来、昼を外食したというのは数えるくらいしかない。

 ランチ八〇〇円などと聞くと、やはり高いと思ってしまう。

 ぼくは料理をよくやるので、八〇〇円あればなにが作れるか? ということを、まず考えてしまう。すると、結構、三食もつようなカレーとか、豚汁とかは作れてしまうのである。


<ピザ生地としての異界>

 主人公が、昔、彼が住んでいた場所――たとえば、昔の赴任先とか、学生時代に過ごした街とかを――かなり久しぶりに訪れたとしよう。

 そこで、彼はなにを見るか。

 自分のかつて住んでいたアパートに行ってみると、昔の部屋の窓が開いていた。そこで彼は、洗濯物を干している、若い彼自身を見る。あるいは、昔の赴任先の繁華街で、ずっと前に退職した先輩社員と若い自分とが、千鳥足でこちらへ歩いてくるのに遭遇する……。

 こうした「過去の世界流入型」の筋は、ピザ生地のようなもので、基本のキの代表格といえるだろう。基本のキだが、これだけではプレーンすぎるという、まあ、もう一度いうが、基本のキなのである。

 ここに色々なトッピングをしていくことで、オリジナリティが出てくる。出てくるんじゃないかなあと思って、書いている。出てこない可能性も充分にある。

 たとえば、主人公が、妻子と、ある避暑地に旅行に行った。

 じつは、そこは昔、彼が恋人と来たことのある高原なのだ。

 早朝、高原を散歩していると、向こうから、彼と、その恋人が歩いてくる。

 そのとき彼は、過去にそう言えばここに来たぞ、と思いだすのである。

 あるいは、河川敷で草野球をしていたら、土手をランニングする中学生が見えた。間違いなく、それは彼の中学時代の野球部ナインだったとか……

 昔、流れで女性と来たことのあるホテルのラウンジバーで、妻子が近くにいるのに、「なに、急に老けたんじゃない?」などと、その女友達に声を掛けられヒヤリとするとか……

 どんなピザでも土台は同じ生地だが、その上にのるものによって、種類を増やしているわけだ。だから、作品をコンスタントに描き続けたいと思ったら、鋳型を理解した上で、具材をたくさん揃えておくといいと考えているが、別にコンスタントに描き続けたいと思っているかと訊かれたらどうかなあという感じなので、まあ、適当にやっていきますよ、というしかない。


<ガチャポンの夢>

 昔、遊戯王カードが流行った時代、帰り道に、カードのガチャポンがあった。といって、カードダス形式ではなくて、カプセルの中に、湾曲した状態のカードが、三枚くらい入っているのだ。だから、ガチャポンから取りだしたあと、カードを真っすぐに直す必要があった。その手のカードは妙にツルツルしていて、パックで買ったカードとは、ちょっと手触りが違っているのが不思議だった。

 そういうガチャポンを回して、キラカードを出した記憶がない。入っていたのかもわからないが、入ってはいたんじゃないかなあ、と思う。なぜならガチャポンの表書きに、当たりとして、キラカードの写真が載っていたからだ。

 だがそもそも、パックで買ったところで、キラカードはまず出なかった。出てもレアカード(文字だけが箔押しのもの)どまりだった。昔のパックだから、サーチによって、ほとんどキラカードの入ったパックが抜きとられて、あとはスカしか残っていなかったのかもしれない。小さな子がお小遣いをためて、お婆ちゃんと買いに来たパックがスカばかりだとかわいそうだと、ありもしない事例を思っては不憫に思った。そのうち、玉屋で売っているカードも、とうとうカウンターの背後にある箱から、店主が取りだして販売する形式になったと友だちが言っていて、ふうんと思った。

 いもしないお婆ちゃんの記憶のせいか、コンビニでアルバイトをしていたころは、よく小さな子どもにキラをあげていた。本当は、一定の条件を満たさないとゲットできないカードなのだが、間違えて、あげたふりをしていた。そういう子が嬉しそうに店を出ていくのを見ると、キラってやっぱり力あるなと思った。そしていま思えば、その小さな子とお婆ちゃんは、祖父母のない自分自身の投影だったのかもしれなかった。


<ひさしぶりに長い話>

 いま書いているものの初稿が、あと二日くらいで完成の予定。二万字くらいで、小説としては長くないが、ぼくにしては久しぶりに長いもの。これは年末に考えている一冊に掲載する予定です。


<運転が好き>

 ぼくは普通の人より車の運転が好きなほうで、長距離運転も全く苦にならない。東京の家まで新潟から330キロくらいあるが、高速道路ならそんなにたまげる距離じゃない。妻は助手席でいつも映画を観ている。ぼくは運転するから画面は観られないが、音は聴いている。


<エイム・アット・ワン・グランプリ>

 今年もエイムアットワンの予選が各地で開催されており、年末が楽しみだ。

 本大会はどちらかといえば勢いで優勝をかっさらうコンビが多く、昨年の緋鯉、一昨年のマジシャンズ・ラブなどは、その後定期的に漫才を追ったかと言われると、そうでもない(いや、テキサスヘボシショウのチャンネルでむさのりはよく観た。あんなもん笑うしかない)。だが、かえって本大会に来られなかった眷属バッド、男系フラスコ、しづ香、キョウ、シニョール・エンリッケなどのほうが定期的に観るのである。

 思えば昨年の一回戦だけだったらオリヴェイラの圧倒的優勝のはずであった。あのオリヴェイラの漫才を超えることは、過去の名漫才を振り返っても、サムズアンドウォッチメンくらいしか思い当たらない。ミルキーボーイズと闘えばミルキーボーイズが負けたかも分からないくらいの出来であった。ムカデンダーのつねしげも面白かった。ニンジャタイは入場シーンが面白かった。そして全くつまらないのがいつものカワイチと、気負いすぎたこすもーすであった。

 その前年はマジシャンズ・ラブの優勝に終わったが、この年は得点の昇降がぼくの好みとほとんど真逆の年であり、マジシャンズ・ラブ、来たらっせむろが、ワシントンなどより、イーストパーク、ワキガ、大阪エビスサンのほうが面白かった。しかしここまでくれば基本的にどのコンビも面白いのである。

 と、どうしてこんなことを急に書きだしたかといえば、よく行く出張先のそばによしもと劇場があり、今日はそこにオートバイ堀之内オートバイが来るからであります。


<銀嶺の果て>

 銀嶺祭を見にいった。

 近隣の駐車場はみな一杯であった。人文棟の駐車場も満車で、キッセイはどうかと思ったら、街宣車と警察がやりあっていた。ここは九段下か? どうも韓国か北朝鮮かの歌劇団が来ていたらしい。ぐるっと回って、附属病院に停めた。

 ぼくが行ったのは、二日目の午後だった。

 自分のいたサークルが喫茶店をやっていて、どうもいまは規模も大きくなり部室も与えられ活況だそうで、見物してやろうと思ったのである。といって、一〇年も昔の老人がドヤ顔で入ってきても迷惑がるだろうから、一老人として、さっと本だけ買って出てきた。三種類あったのが、二種類しか在庫がなかった。売れ行き好調のようでよかった。製本も自前で行ったにしては素晴らしい出来である。などということを一言も告げることなく、一分もいないくらいで、老人は消えたのである。

 そのほかのブースは、さっと流しておわった。

 そうそう、お笑い芸人の「Bマッハ」と「命は燃やしつくすためのもの」が営業で来ていたらしい。Bマッハと言えば「良純」が優勝した年のウィミンズ・アット・ワンス・グランプリのファイナリストだが、別に観たいとは思わない。ぼくがお金を払ってでも観たい女性は「おぉ~黒木」と「すぎ丸姉妹」くらいだ。「シニョール・エンリケ」も好きだったが、なんかのときにインタビューを読んで理屈っぽくてやだくなった。

 なんせ、主目的はメーヤウなのだ。

 銀嶺はまあ一〇分くらいいたら、はい、もう見ました、となってしまった。ということで大学前のメーヤウで妻とカレーを食べ、のみならずテイクアウトをし、翌日の朝も夜もメーヤウのカレーを食べたのであります。ぼくではない。妻がである。

 話が前後するが、この日は到着が昼前だったからか、市内の道が混んでいた。

 いつもはインターで降りてから伊勢町の交差点を左折して縄手通りの方から大学へ向かうのだが、今回は高架橋のあたりから数珠つなぎとなったため、タカノ書店の交差点を左折して大手一丁目へ出、こまくさ道路とぶつかるところで右折し、二の丸の丁字路を左折するというルートをとった。善光寺街道は善光寺街道でも、西側の善光寺街道を使うという遊びっぷりであった。こういう判断ができるのは、以前住んでいたり、いまでも仕事でたまに来たりするからだが、まったく抜け道を知らず、ナビだけを頼りに来ると、存外移動に時間のかかる街だと思う。

 思えば、ぼくは銀嶺など特に何も思い入れはなかったのであった。たしか平成二三年の銀嶺祭、つまりぼくが人生で最も気力体力の充実していた全盛期の時代に、だれかの手伝いで飲食店を手伝った記憶があるのだが、それがだれの手伝いで、どんな物販をしたんだか、さっぱり覚えていない。経済学部のブースだった気がするが、真相は闇の中である。なんせそのころは無茶苦茶であった。週の半分くらいは東京にいたのである。その理由も、もう定かではない。確実にいえることは、今週末、ぼくはルーテルの学園祭に行くということであります。


<2022年大会>

 敗者復活戦では、必ずオズワルドが勝ち上がるだろうと見ていた。決勝では、本命に男性ブランコ、対抗に真空ジェシカ、穴にキュウと予想したが、もしもオズワルドが復活したら、そのまま優勝も有り得ると思っていた。

 予想は外れ、同じタイタンでもウエストランドが笑いを畳みかけられるフィーバー展開になり、優勝までいった。その前のキュウが(ぼくはいいと思ったのだが)若干滑り気味だったのもあり、井口の爆発がより映えたのではないかと思った(キュウ清水が、審査前に九番手になったことを「うまいでしょう」と言ったシーンが大会を通していちばん笑った)。

 さや香は去年のオズワルドと同様、一本目のネタなら勝ち負けになったと思う。今年勢いがあったが、今年とれないとなると、オズワルドや和牛のように苦戦するパターンかもしれない。ロングコートダディと真空ジェシカのどちらかは、どのみち今後とると思う。なんにせよ、今年も面白い年だった。おまけにこの後ワールドカップの決勝まであるんだから、特別な日曜日になった。わが母国、アルゼンチンが勝てば言うことはない。あと、またラクーンに行こうと思う。今週ジェラードンが来るから(松井)。

 


 タケコプター    80

 空中ジェンガ    86

 オリベイラ     91

 フロックコートパピー86

 しづ佳       90

 男系フラスコ    92

 パール       86

 コメダ5000   82

 キェフ       95

 ウエスタンパーク  95


 ゼンセンコウ    90

 サワイチ      83

 緋鯉        92

 ムカデンダー    89

 こすもーす     84

 空中ジェンガ    92

 フロックコートパピー90

 オリベイラ     97

 ロスインディオス  94

 あんず       87


 大阪エビスサン   92

 展開図       90

 来たらっせ室賀   88

 ウエスタンパーク  90

 ワキガ       88

 ロサンゼルス    87

 緋鯉        91

 ケミカルバブリー  86

 オリベイラ     96

 ロスインディオス  95


 オリベイラ     93

 ロスインディオス  90

 展開図       88

 ぱるま       90

 ロサンゼルス    86

 たろうかじゃず   89

 つむじかぜ     94

 ミルキーボーイズ  98

 味しみ大根     90


<ペプシ・キューカンバー>

 発売されたのは二〇〇七(平成一九)年だ。

 味ははっきり覚えている。一言で言えば、文字どおり、キュウリの青臭い味のする、炭酸飲料であった。のちの世の人は、あの緑色のボトルを見て、メロンっぽいのかなとか、シトラスっぽいのかなとか思うかもしれないが、結構ストレートにキュウリ味であった。


<ナイツが最強なのか?>

 仕事の都合で一週間ほど遠征することがあり、車移動中に聴きこんだのはヌエべの漫才であった。オーディブルだと、聴かれる漫才はヌエべか、大笑課題くらいしかないのだ。もちろんオーディブルではビジネスや語学の音声も聴くのだが、仕事中に仕事に関する音声を流すなどもってのほかと思っているから、いつも移動中は漫才かお笑いのラジオを流しているのだ。

 で、大笑課題はカウボーイがあるから、ヌエべばかり流していたのだが、はっきり言ってヌエべのほうが大笑課題より面白いのではないかと思った。といって、浅草で生で聴いたことはない(ヌエべのお二人が地元の新幹線の駅で昼をとっているのは目撃したことはある)。大笑課題は時事をいじるのがよくて、その意味でネタに賞味期限もあるのだが、ヌエべはあまりない。もちろんヌエべも時事をかなりやるほうだが、そうでないものもたくさんあるのだ。音だけ聞いて笑えるのはすごい芸だと思うし、オーディブルも、こういう使い方があるんで、月額が高いとは思わない。


<MDの思い出>

 中学のころ、ポータブルオーディオではMDがいちばん「手軽」だった(その数年後にiPodが登場し、すぐに乗り換えた)。

 記憶があいまいだが、たしかMDに音楽を記録するには本来「MDコンポ」が必要で、買うと結構高い。しかもこれを買ってMDを作製したところで、ポータブルではないのである。

 さて、ポータブルMDの中には、パソコンに音源をとりこみ、そのデータをMDに記録できるものがあり(つまり再生だけでなく録音もできるやつ。録音型とかいった気がする)、コンポよりは安価なので、それを買って使っていたのだ。

 当時どんなものを聴いていたかと言えば、UKロックとポップスである。

 具体的には、クイーン、デヴィッド・ボウイ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ベイシティローラーズ、ワムといった、七〇~八〇年代の少年少女が聴く人々そのものである。ビートルズはあまり聴かなかった。

 で、ご多分に漏れず、MDやCDの貸しっこをよくやった。ぼくより前の世代は、オリジナルテープをレコって貸しっこしたんだと思うが、ぼくらはMDやCDだ。オリジナルMDを作って異性にあげるなど、たまにあった。「青春の輝き」としか言いようがない。いまはスポテハイとか、ラインミュージックでプレイリストを共有するのだろう。好きな音楽を人と共有したいというアレは、どういうアレからくるんだろう。


<DVDの思い出>

 DVDプレイヤーは、はじめ(一九九九年くらいは)すこぶる高価だった。

 じつは、当時うちにDVDプレイヤーがあり、たしか一〇万円はしたのだ。映画を観るのではなく、オーディオとして使われていた。

 その後に誕生したPS2でDVDが視聴できることは、衝撃的だった。なぜならPS2は三万円弱で買えたからだ。

 記憶をたぐると、その当時、六〇型くらいのテレビが一〇〇万円近くした。

 いまなら、中国製のものなど、その一割の値段だろう。


<浴室なし物件の話>

 いま、若者の間で「風呂なし物件」が注目されているという記事を読んだ。

 注目というか、それくらい賃貸料を安くしないといけない人が増えているという、貧困化の文脈で語るべき話ではないか? 銭湯はたしかに愉しいものだが、ふつうに考えて、家に浴室はあったほうがいいわけで。自尊心から「あえて風呂なしを選んでいる」としか言えないんじゃないかとか考えないのだろうか。


<加賀乙彦先生の訃報>

 ぼくは加賀先生の熱心な読者で、特に作家生活初期の、一連の短編小説は本当に好きだ。先生の仕事は、もっと評価されてよいと思う。石が浮いて葉が沈むとはこのことだ。


<いたずらソング>

 いたずらとは、文字どおり「たわむれ」でなくてはならないんで、やり過ぎると人を怒らせたり、書類送検されたりとろくなことが起こらない。

 たとえば「ホテルの客室で花火をする」「郵便ポストに雪を投じる」「二階にある彼女の部屋から、ザイルを使って庭に降りようとして物置の屋根を踏み抜く」など、もはやたわむれとは言えないだろう。

「脱サラした知人が開店したラーメン屋で、うまいなあ、うまいなあとしきりにお冷やを褒める」「二年生なのに高校合格者に混じって合格を喜ぶ」などは、まあ「たわむれ」といえるかもしれないが、事の次第によっては問題化するかもしれない。

 ふたたび字引に戻ると、いたずらとはともかく「悪い」ことではあるのだから、やらないほうが一番よく、やる必要も全くない。これはつまり、めちゃやりたくなるものである、ということである。ちなみにぼくがいたずらの最高傑作と思うのは、たぶん同意する人は多いと思うが、ウルフのエチオピア事件であります。


<一万円のラーメン>

 食べてみたいよ。これ、インバウンドの外国人なんかは日本人ほど抵抗なく注文しちゃうんじゃないかな。反対にアウトバウンドでは、一風堂が五千円近くなって日本人はたまげるというね。

 肉を使うものは、だいたい一万円いけんじゃないかと思うよね。一万円は大金だけど、人生八〇年とすると、一回の一万円の経験ってそんなに無駄じゃないと思うんだよな。それに高齢者になったら一万円のラーメンを完食できなくなるかもしれないし。そもそも一万円のラーメンを食べるには一万円のラーメンが存在しないといけないんで、考案者にはありがとうといわなきゃならんかもね。

 ま、それで一万円は無理だろうという食材で一万円があったら、もっと面白いけどね。例えば一万円の、ガリとかさ。一万円の冷奴とか。ぼったくり以外厳しいだろうという一万円を味わってみたい。一万円のガリと、ニ千円くらいの寿司を併せていただくと、どうなるんだとか。もともとニ千円の寿司はうまいけどな。


<冬の路面について>

 ぼくは雪国生まれだから、冬道の運転には慣れているつもりだ。ぼくの感覚では、(気温がそこまで下がらない)北陸地方の路面より、雪はあまり降らないが酷寒になる地域(東北の太平洋側、長野県全域、北関東の山間部など)を運転するほうが気をつかう。幸い、ぼくも妻も、クルマの運転中にスリップしたりスタックしたりした経験がない。そもそも、ちゃんとヤマのあるスタッドレスを履き、四駆車に乗り、急発進、急ブレーキを避けて、脇道へなるべく行かずにいれば、まずもってスリップもスタックも起こらないのだ。逆に、このうち一つでも軽視して調子をこくと、危険度が爆上がりするという、ある意味単純なシステム構造なのである。

 ちょうど思いだした話があって、ぼくは最近、ある神社に行ったのだが、この小雪で参道にはほとんど雪がなかった。なので、急こう配の石段を、スニーカーで登っていったのだ。ところが、帰りは、急こう配の下りだ。これはおっかない。ツルンといったら、一段や二段落ちるだけで済まないかもしれないのだ。ぼくは、帰りは石段を使わず、別の道(倍くらい歩くことになるが、しっかり土とか草とか踏んで歩ける迂回路)を使った。幸いスリップはしなかったが、さっきの話で言えば、ぼくは夏タイヤで冬道を走る愚を犯したわけだ(ナイキのレトロスニーカーを履くのが嬉しかったため)。


<潜水鐘>

 いまプレイしている『アサシンクリード4』に「潜水鐘」なるアイテムがある。実在した、いまでいう酸素ボンベの役割を果たす、人の二倍くらいの大きさの「鐘」なのだが、これによって水中にいながら酸素吸入ができるというメカニズムが、何度(ウィキペで)読んでも、ちいとも理解できない。ウィキペなのだから、ちゃんと読めば、ふつう理解できるはずなのだが、何度何べん読んでもだめだ。昔、鹿島の小笠原選手(引退)が、インタビュアーの質問の意味がどうしてもわからず「は?」「どういうことすか?」「え、ほんとどういうことすか?」「まじでわかんねえんすけど」となったのを観て大笑いしたことがあるが、現象としては同じです。「いやちょっと待って、まじでわかんない」「ほんとほんと」「どういうこと?」「じゃあお前わかるんか」であります。その鐘の前で「〇」ボタンを押すと、酸素ゲージが回復するのはわかるので、ゲームは進んでいます。結構おもしろいですね。


<豚汁って何?>

 ぼくの新潟のうちから車で一〇分ほどの市街地に、全国的に有名な豚汁の店がある。テレビで何度も取り上げられているせいか、県外の人も、大勢訪れる人気店だ。前を車で通ると、いつも行列ができている。真夏も真冬も、である。

 だけど、地元の人は、あまり行かないんですよ。ぼくも、県外の人が遊びにくるときに、ごくたまにお連れするくらいだ。それも、希望あってのことであり、完全に任せてもらったら、あえてここへは行かない。自分でも行かないね。別に味が悪いとか、そんなことは全くない。むしろ、うまいと思う。だが、そもそも豚汁はうまいものじゃないか? ということを、改めて考えたほうがいい時期にきましたよ。

 なんせ、「味噌汁」の時点で、もううまいのである。

 ぼくはナスの味噌汁とか、のっぺい汁は嫌いだが、それはナスやゼンマイなど嫌いな具材が入っているからであり、味噌の時点ですでにうまいのだ。そうしると、味噌は正だよと。お湯は好きも嫌いもないからゼロですよと。そうしると、ゼロ足す正イコール味噌汁うまい、って必ずなるんですよ。

 ぼくの子ども時代は、白米に味噌つけて、それでメシにしたもんだよ。そこにヤカンの麦茶を入れてさ。それで誰も文句言わなかったんだ。食ったらまた野良仕事。そうやって生きてきたんだよ。本を読むとか、大学へ行くとか、みんな夢のまた夢だったね。そういう時代だったんだよ。

 で、たまに季節の青菜とか、根菜が入っていれば言うことなしのところ、豚バラを入れるってんだから、罰当たりな話だよ。今日は焼肉だと言って、つけあわせにエビやイカを焼きはじめるようなものだ。足るを知ったほうがいいよ。そんなトンデモモン作って「どうだ、うまいだろう」なんて、得意がるんじゃねえよって。

 実際、自分も豚汁をよく作るんだけど、いかにタマネギを大量に使い、そこから水分を引き出すか(=なるべく蛇口のミズでカサを出さない)ってのと、豚バラ代をケチらないかにかかっていると思いますね。安いと思って豚ロースにすると、全然味が違うんですよ。つまり、タマネギと豚バラ代をケチらず作ると、うまい豚汁が絶対できるんです。コストはやっぱりかかりますよ。でも、コスト高くすれば料理はたいていうまくできるんですよ。といって、夫婦ふたりでは、そんなにたくさん食べられませんからね。だから、外に食べに行くことをおすすめします。それが一番だよ。


<呪いのビデオ>

「まさかこれは、いまだに事件現場をさまよっている被害者の怨念が、たのしげなMさんたちを羨ましげに眺めている姿である、とでも言うのだろうか?」

 言いたいんでしょ、という話だ。ありきなんでしょ。その設定なんでしょ、言いたいんでしょ、と、こんな感じでツッコミを入れながら観ると、呪いのビデオはおもしろい。学生のころに家でこんなビデオみんなで観たら面白かったろうな。正直、名画をみんなで観ようみたいなスノッブより、これか桜金造とか絶対行くな! を流してギャハハ笑いをするべきであった。だけど、このビデオ、買うと三千円くらいするわけで、本当に三千円払ってこのビデオを観たら、多分いかると思う。


<レジ袋有料化>

 レジ袋の有料化が始まって久しいが、ぼくら夫婦はマイ買い物カゴと、マイバッグで対応している。といって、不意の買い物で袋がなく、レジ袋を購入することも少なくない。要は、一応なんかやってるけど、適当ですね、という現況であります。

 正直、二酸化炭素の排出量で見たら、あんなペラペラの袋一枚を燃やした程度ではたかが知れている。「レジ袋ご利用になりますか」と発する呼気に含まれる二酸化炭素のほうが多いんじゃないか?

 結局、地球(といっても日本だけだけど)に出回る袋そのものを少なくしたいんだな。海洋プラの問題があるから、袋の流通量そのものを減らしましょうという話なのだろう。それならそれでよいが、困っているのは、マイバッグがよく景品になっていて、たくさん家にあるんですよ。福袋を買ったら入っていたり、車の商談に行ったらいただいたり、自治体から配られたりするんだけど、これだってプラじゃねえかというね。小泉大臣の家にもたくさんあるんじゃないかな。マイバッグ。


<ペロペロ少年の話>

 回転寿しチェーンで「おいた」を働いたペロペロ少年のニュースが連日報道されている。まあ、きょうびそうなるよ、としか言えない。あれを観ても全然笑えない、何が面白いか全然わからない、という声が聞かれる。はあ。たしかにねえ。わからないことは事実だが、子どものときは、多分わかったんだよなあと思う。それが一番おっかない。あれを観て、けしからん、あり得ない、いまどきの子どもは信じられんと言う大人は、ぼくは好きじゃない。

 ところで、ぼくは弁当を作るのが好きで、毎晩夫婦のぶんを作っているのだが、もし調理している光景を動画に撮って、それを妻が観たら、大問題になると思う。


<春は別れの季節>

 梓みちよのヒット曲「二人でお酒を」は、ご存知のとおり、破局したんだかしていないんだかわからない男女が、「それでもたまにはお酒を飲みましょうね」などとじゃれあう歌詞で、最初に聴いたときから、よくわからない。だれしも思うことだが、別れてねえじゃねえか、となる。これはきっと男が書いた歌だろうと思ったら、やはり山上路夫先生がものしていた。

 こんな歌を聴いていたら、もう、春が近いことをふと思った。

 春は出会いと別れの季節という。出会いと別れの季節? 当社の場合、夏だよ。そしてプロ野球は秋だよ。そうも言いたくなるが、一般的にはそうなっている。ぼくは、小学校、中学校、高校、大学と、そこを出るとき、つまり春には、もう気が半分以上つぎのところへ行っていたから、別れを惜しんだことはない。一言でいえば、「バイビー」の境地であった。そうやって足早に去った土地のほうが、かえって後年ふと名残惜しくなるのかもしれない。軽くバイQしたつもりが、予想外の存在感と、見落としていた芳醇な浪漫とをもって過去から浮かび上がる。それが、ぼくにとって「中郷保育園」なのだ。


<評価してください>

 先日、妻に頼まれて、ある電子機器をアマゾンで購入した。千いくらのものだ。届いてみたら、紙片が入っていた。片言で、この商品に、レビューをつけてください。星は五つつけてください。そうしたら、下記にご報告ください。アマゾンのギフト券二千円をプレゼントします、とあった。

 はあ、と思った。はあ、なるほど。この手のサクラ・レビューがあることはもちろん知っていたが、自分の買い物でまみえるとは意想外であった。

 といって、星を五つつけるに、やぶさかではなかった。機器は、問題なく稼働したのだ。べつに五つでも六つでもつけるわいと思った。と同時に。待て。二千円のギフト券なら足が出る。そうだ。損じゃないか。それは、こちらのことだけ考えれば、儲かった、うまい話があったものだ、となる。そして、ふつうの常識があれば、うまい話には必ず裏があると思いいたるはずだ。金なんか、くれないな。レビューだけいただいて、ドロンするのではないか? だが、本当に二千円くれたら、それはありがたい。読みたい本がある。むかしは高かった専門書が、古本で、そのくらいで売りに出ている。買いたい。欲しい。

 とりあえず、紙片はそのままにしておくことにした。ようく考えよう。なにも急ぐ必要はない。ぼくは、書斎の机の上に、機器の箱と一緒に、紙片を置いておいた。

 それが悪かった。

 紙片も箱も棄てられたのだ。

 振り返ると、妻が立っていた。

 棄てておいたわよ、と言う。

 ああ、とぼくは頷いた。

 それから、妻は、投資と投機とは何が違うんだと訊いてきた。ぼくはそれに答えながら、あのひらひらの紙片のことを思っていた。


<ホテルに泊まる>

 仕事柄、ビジネスホテルに泊まることが多い。だが、定宿などは、日本のどこにもない。ビジネスホテルに定宿などあるかいと言われるかもしれない。まあ、そうだな。

 ここは快適だったとか、ここはアクセスがいいとか、たしかにそれはある。だが、それを理由に次もこことは決めない。完全に、金額で決めている。もちろん破格だからといってカプセルには泊まらない。また、所詮ビジネスなのだから、どんなにいいところでも、高ければ行かない。まあ、こんなところでしょうと納得できるところへ、行く。

 外食もしない。ぼくは、旅先ではおそろしく質素である。外に飲みにも出なければ、名産品を食べようとも思わない。たとえば、西にも東にも、行きつけの飲み屋だかスナックだかがあって、そこのホステスと馴染みだとかいう話は、ぼくには無縁である。そもそも、金を払って女性に話を聞いてもらうなんていやだ。

 けちとは違う。断じてけちではない。けちだったら、もっとお金をもっている。単にやる気がないだけだ。妻、いや、妻に限らないが、だれかがいるなら騒いでやろうと思うけれども、一人なら、どうでもいいやと思ってしまう。量的功利主義。まあ、そんな大層なものでもありませんな。


<高級車とは>

 この間、中央道を走っていたら、走行車線をゆったり巡行しているY51シーマを見つけた。ショウファー・ドリブンをゆっくり流しているさまは、やはり恰好いい。

 高級車には、やはり高級車らしい動かし方がある。せっかちにならない、腹を立てない、手前勝手にならない。大人が、大人らしく乗らないと、高級車はその風格を失ってしまう。

 高級車だから、ハイパワーである。踏めばいくらもスピードが出る。だが、スピードを出すことが、高級車の目的ではない。僅かなエンジンの回転で、必要充分なスピードを保つこと――つまり、乗員を極力快適に運ぶために、高級車はエンジンスペックが高いのである。

 度量はでかいが、常日頃はたんたんと、控えめに……車も大人も、そうでありたいものだ。


<春を待つ菊>

 雪国では、冬の間、庭は雪に覆われる。年によって積雪の多寡は違えど、雪化粧をしていない年はない。

 今年もまだ雪は残っているが、鉢植えの菊を見たら、菊のロゼットが顔を出していた。去年、挿し木で作ったものだ。枯れた茎の足元を、輪っかのように若葉が囲っている。

 そうだ。菊は気が早い植物だった。

 このロゼットも、早く現れるものと、菊のように冬の終わりから現れるものとがあるのだ。

 だが、菊、お前はいつ咲くよ、と言いたくなる。お盆の時期には咲かない。あれは短日処理をしてあるから。ふつう、一〇月の半ばころから花が咲きだす。

 というわけで、随分と気が早い。咲いていた時期を考えると、まだ寝ていろと言いたくなる。だが、当人はもう起きだして、秋までがんばるつもりだ。もちろん、葉のある期間が長ければ長いほど、たくさん光合成を行える。陽をたくさん浴びた株はそれだけ充実する。いわゆる「よく肥った株」になる。よく肥った株には、たくさんの花がつく。繁殖の戦略上、これがベストと踏んでいるのだ。

 この、ずいぶん早起きの菊の鉢植えを見て、ぼくも今年、いろいろ作らなきゃいけないものがあるが、おちおち過ごしてはいられない、と気を引き締めた次第だ。


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