パン売り


 チャイムが鳴ったので、俊郎は玄関へ降りていった。

 兄の司郎はまだ帰宅しておらず、母親は買い物に出かけているのだ。

「ごめんください」

 ドアを開けると、母親と、その子どもらしい、男の子が立っていた。

 男の子は、小学二、三年生くらいで……

 恥ずかしいのか、母親のうしろに隠れるように立っているのだ。

「なんです?」

「パン、いりませんか」

「は」

「パンです。菓子パンなんです。買っていただけませんか」

 なるほど。

 あまり聞いたことはないが……

 パンの行商らしい。

 見れば、玄関先に、自転車が停まっている。

 その自転車の荷台に、大きな袋が載っている。品物は、おそらくあの袋に入っているのだろう。

「パンですか」

「ええ、そうです。あんパンに、いちごジャムパンに、焼きそばパンに、シュガートーストに、たくさんありますよ。どうです、今晩の食卓で召し上がっては」

 しかし、その夕食の買い出しに母親は出かけたのだから、むやみに買うわけにはいかない。それに、ただでさえ心もとない小遣いを、こんなところで切り崩したくもないし……

「村上さん」

 そのとき、道をはさんだ向かいの家の人が、軒先から俊郎を呼んだ。

「村上さん、ちょっとちょっと」

 と手招きをするのだ。

 俊郎は、玄関先にパン売りの二人を待たせたまま、ちょっと失礼と言い残し、向かいの家へ走っていった。

 向かいの家のおばさんが、俊郎の耳元でささやいた。

「あの親子から、パンを買っちゃだめよ」

「え」

 俊郎はおばさんの顔を見た。

「どうしてです」

「どうしてもよ」

 おばさんはおうむ返しに言った。

「あの親子からパンを買ったら、大変なことになるわよ」

 なんだと?

 どういうことだ?

 あの親子からパンを買うことが、それほど重大なことなのか?

 腑に落ちない。

 腑に落ちないが……

 俊郎はこくりとうなずいて、おばさんの家をあとにした。

 いずれにしても、パンはいらないから、帰ってもらおうと思ったのである。

 ところが……

 自宅へ走っていくと、そこにはもう、パン売りの親子の姿はなかった。

 自転車もない。

 もちろん、あの大袋も……

 隣近所を訪ねているようすもないのだ。

 帰ったのだろうか?

 玄関のドアは開いたままだったから、もしや家へ侵入したのではないかと青くなったが、そんなこともなく、しばらくすると母親が買い物から帰ってきたのであった。



「パン売りですって?」

 翌朝、俊郎は、向かいのおばさんに話を訊いてみた。

 しかし、

「パン売りだなんて知らないわよ。それに、おばちゃん、昨日俊郎くんに会ったかしらね?」

 と、まるで記憶にないようであった。

 俊郎は、いよいよわけがわからなくなった。

 おばさんは、にっこりと笑い、

「だけど、そんなパン売りが家にきてくれると、楽になるわねえ。ほら、ここから最寄りのスーパーまで、ちょっと遠いでしょう。そんな行商が本当に来てくれたらいいんだけどねえ」

 

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