落ちしろ
進学塾の前を、三、四人の塾生が歩いている。
どれも、Q市の中学校の三年生で、この冬に高校受験を控えているのだ。
「おい、このままいけば、県立第一に届くかもわからないぞ」
「そうだよ。お前、県立第一にしろよ」
「そうなると、おれたち揃って県立第一だな!」
「だけど、お前なら私立の難関校もいけるんじゃないか?」
「松永学園もねらえるぜ」
「そうかなあ。伸びしろだなあ。ハッハッハ」
三人とも、夏から進学塾に通いはじめたのだが、指導がよいのか当人たちの素質がよいのか、成績もみるみる上がっていき……
この調子なら、志望校のランクを二つや三つは上げられそうなのだ。
「大丈夫だよ。絶対にいけるよ」
「なんといっても、伸びしろがすごいからな、おれたち!」
「これはきっと」
一人が言った。
「変に、一年や二年のときから、しゃかりきに勉強しなかったからよかったんだよ。三年の夏に、びしっと部活を引退して勉強に専念したのが、かえっていい切り替えになったんだと思う。だって、もう思い残すことはないからな。あとは勉強するだけだ!」
「そうだよ。おれたち、まだまだ伸びるぞ!」
「がんばろうぜ!」
「おう!」
と景気のいい話をしている一行の目の前に、一人のおばさんが現れた。
ビルとビルの間から、ぬっと出てきたのだ。
おばさんは、やつれた顔をして……
そのくせ、いやにぎらぎらした目で、一行を見ているのだ。
こいつ、なんだ?
「あんたたち」
おばさんは言った。
「そうやって、あんまり調子に乗らないほうがいいよ」
「なんです?」
一人が抗弁した。
「調子に乗るなって……勉強のことですか? どうして見ず知らずのあなたから、そんなことを言われなくちゃならないんです?」
「そうだそうだ!」
「ほっといてくれ!」
「アッハッハ」
とおばさんは一行をあざけり、
「それが調子に乗っているというんだよ。なにが伸びしろだい」
「なに!」
「伸びしろがあるのは事実じゃないか。なにを言うんだ」
「それは伸びしろじゃないよ」
おばさんは、くくくと笑い、
「落ちしろさ」
「なに?」
「落ちしろだと?」
「そう、落ちしろさ。高いところへ登れば登るほど、伸びしろよりも、落ちしろのほうがずっと大きくなるのさ。あんたたち、いま、転落の落ちしろがすんごいねえ。落ちざかりだねえ。こんなことに気がつかないなんて、やっぱりあんたたち、落ちしろしかないわ」
「だまれ!」
「なにを言うんだ!」
「フーテンババア!」
だが、おばさんは薄笑いを浮かべたまま、
「まあ、せいぜい勉強をがんばることだよ。成績が上がれば上がるほど落ちしろも大きくなっていくけど……それを知っているのと知らないのとでは、雲泥の差があるもんだよ。せいぜい、努力することだよ……」
「…………」
一行は、それきり黙ってしまった。
いつしか、はじめの怒りは消えていたし……
この、妙なおばさんの話も、考えてみればもっともだと思ったのだ。
彼女は、それきりきびすを返し、行ってしまった。
一行は、しばらくその場に立ち尽くしていたが……
じきに、うしろから人が走ってきた。
振り向くと、進学塾の講師である。
「また出たのか?」
講師は言った。
「あのおばさん、落ちしろおばさんと言ってね。塾じゃ有名なやつなんだ」
「落ちしろおばさん?」
「そうだ。じつは、おばさんの息子さんが、何年も前にうちに通っていたことがあってね。成績が急上昇したが、結局志望校に落ちて、そのショックで受け皿の学校にも落ちて、いまや家にひきこもるようになってしまったのだ」
彼は言った。
「そのことで、あの人もちょっとおかしくなったのか、落ちしろの話を当塾の子に言ってきかせるようになったのさ。まあ、話の中身からすると、いちいちもっともだし、その意味では、決して悪い人ではないと思うが……」
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